最近、近藤先生の道場が騒がしい。ただ単に騒々しいと言うのならそれは今に始まった話ではなく、一人二人と食客が増える度に――しかも事あるごとに近藤先生が食客を増やすもんで今やどこぞの武家屋敷かと見紛うほど――喧嘩や小競り合いや笑い声が倍々に増えていったのだけど、今はそれだけが原因ではない。五月蝿いのとは違う、ぴりぴりとした高揚感が漂っている。悪く言えば浮き足立っている、というところだろうか。道場の中に入ったわけではないけど、母屋の端からでも中の様子は十二分に伺えた。ドタドタと走り回っている様を思い出して、普段刀を振り回している人達が荷造りに奔走しているのが何とも可笑しくて、私はふっと笑みを零した。

彼らはもうすぐ此処から居なくなってしまう。

藤堂さんという先生のところの食客の一人が持ってきた話で、どうも上京する将軍様を警護する浪人を幕府が募っているらしい。かなりの額の報奨金も出るからこれで道場の傾きもよくなるだろうと、居候していた食客や近藤先生を筆頭とする塾生が立ち上がった。今回の話は腕に自信があれば身分や過去は問わないと言う。まさに試衛館の面々にうってつけの募集だ。誰も彼も腕にだけは自信があるし、自信に見合うだけの実力がある。
……なんて偉そうに、と貰ったばかりの大根を抱え直しながら自嘲する。私が試衛館に通っていたのなんて、一体何年前のことだろう。あの頃は本当に剣術のことしか頭に無くて、毎日毎日マメが出来ても木刀を握ってたっけ。あの頃の私が見たら、今の私なんてとてもじゃないけど信じられないことだろう。家のことを手伝って、いつか誰かの妻になる為に、それに見合う知識と術を身につける。その中に剣術なんて勿論なくて、結局私はこれから剣術と無縁の道を歩いて行くんだろう。今日だって試衛館を訪れたのは、漬け上がったばかりの糠漬の御裾分けの為。御礼にこれを、と立派な大根を頂いて、「煮付けにしよう」なんて考えている辺り私も随分と女が板に付いた。

「あれ、姫だ。久しぶり」

知り合いの声がして――知っているのより少し低くなった聞き親しんだ声がして、私は思わず顔を上げた。目の前に立っているこの人は私は知っていた。名前も性格も、木刀を振る時の癖、も。

「……総司?」
「なに、幽霊でも見たみたいに。まさか僕の顔を忘れたの?」
「そんなわけないけど……大きくなったね」

前に会ったのはそんなに前じゃないと思うけど、彼は一回りくらい大きくなったような気がする。背丈だけでなく、身に纏う空気が違う。彼はそこに立っているだけで威圧感を与えていた。少なくとも今の私には、彼から一本取ることは出来ないと思った。

「やめてよ、なんだかおばさんみたい」
「年頃の娘捕まえて『おばさん』は失礼じゃない?」
「昔はあんなにじゃじゃ馬だったのにね」

総司は面白そうに茶化したけど、私には笑えなかった。
す、と総司の顔からも笑みが消えた。

「もう剣道はやらないの?」
「……そうだよ」
「ふぅん」

腕組みして立っている総司を、これ以上見ていられなかった。なじるような視線が突き刺さる。別に、やめたくてやめたわけじゃないのに。出来ることなら私だって。
けれどそんな言い訳じみた泣き言、総司にぶつけたって何の意味も無い。結局私は親の敷いた道を言われるがまま進んでしまったのだから。抗わずして何が言えると言うんだろう。
それより、と私は言葉を濁した。

「総司も、行くの?」
「……あぁ、京にって話? 当たり前でしょ、僕は近藤さんの行くところならどこでも着いて行くよ」

事も無げに話す彼に、「そう」と相槌を打つのが精一杯だった。

「あと……三日かな。明後日の夜は宴だからって、新八さんとか左之さんとかが喜んでたよ。酒が飲めるからって。呑気なもんだよね」
「……そういえば、つねさんがそんなこと言ってたかも」

さっき糠漬を渡した時に、明後日は腕によりをかけて、なんて言ってたっけ。明るい声だったけど、少し寂しげな顔だった。当然だ。京は遠い。娘さんもまだ小さかったはずだ。将軍警護の任に就くと言えばきっと誇らしいことなんだろうけど、待つ方の気持ちは複雑で、そして口にすることは、出来ないでいる。

そんな事がふと頭を過って、あぁ私もこちら側になってしまったんだ、と悟った。

「京って、遠いんだよね」
「多分。僕だって行ったことないし」
「そう、……だよね」
「少なくとも、しばらくは会えないと思うよ」
「……そっか」

私が言うべき言葉はもう決まってるんだ。

「元気でね」
「……うん。姫もね」

誰かの背中にかける言葉など、














その時私は、見てしまった。走馬灯のように流れていく映像。小さくなる総司の背中に見てしまった。その手を血に塗らして、その瞳には無邪気さも快活さもなくて、容易く人を殺すことになって、その狂気がいつかは己をも蝕んでゆく姿を。身をも滅ぼすような崩壊が彼を襲った。その隣に、誰の姿も無い。誰も、彼の肩を支えることは出来ない。勿論、私の姿はどこにもない。彼は一人だった。
夕焼けに消える、影を見送りながら、私はいつの間にか泣いていた。ただどうしようもなく悲しくて。



真っ直ぐ脇目もふらずに私は走った。着物の裾が翻るのも、泥が跳ねるのも気にならなかった。預かった大根は台所にほっぽり出してった。母が何か叫んでいた気がするけど耳には入らなかった。一直線に蔵に向かう。埃だらけの棚の中に、丁重に手入れされた行李がある。その中にしまわれているのは、一度も袖を通さずじまいだった袴と、刀。

それはかつて弟に与えられるべきだったもの。男だからと言うだけで身体の弱かった弟にさえ両親は期待を寄せ、いつか元服した時にと一式を用意した。私がどれだけねだっても手に入れられなかったものを、ろくに木刀すら持てない弟は持っていた。あの頃はただひたすらに妬ましかった。弟の世話の為に私は何もかも我慢させられたから。女として生まれた事がこんなにも悔しいと思ったこと、なかった。
……今は感謝してる。待つ側の気持ちを知れたから。男だったら知らないことを知れたから。きっと総司も近藤先生も、土方さんも源さんも、知らないと思う。だから私が行かなきゃいけない。

行李の中で時の流れを知らずに過ごした袴が、生き始める。皮肉なものだ。袴も帯も、刀さえも、今の私にちょうど良い。あれほど願ったものが、あれほど憎らしく感じた存在が。今の私に勇気を与えるなんて。きっとこの刀で初めて斬り捨てるのは私の髪の毛だろう。



それから三日後の朝、皆で彼らを見送りに出た後、私は準備していた荷を手に飛び出した。行き先の検討はおおよそ付いていたから、彼らに気付かれずに江戸まで辿り着いた。小石川の伝通院には聞いていたのより随分多く人が集まっている。柄の悪い連中も多い中で、ある意味志を持って集まった試衛館の面々は目立っていた。見つからないように、と傘を深く被ったが……どうにも彼らを甘く見すぎていたようだ。

「ん? ……あっ!? お前まさか……!」

近くを通り過ぎた藤堂さんが、私を指さして叫んだ。突然の声に周りの者も何事かと振り向いた。
ここで騒ぎを起こしたくはない。藤堂さんに抑えるように手振りで伝える。納得したのか何なのか、彼はそのまま私を近藤先生達の所まで連れて行く。

「君は……」

近藤先生は私の顔を見るなり渋い顔を見せた。土方さんも眉を顰めている。女が紛れ込んでいると知られない為に怒鳴りつけないけれど、きっと内心は爆発しそうに違いない。
怖い。けれど、今は前を向かねば。

「私は、……いえ僕は、姫ではありません」
「なんだと?」
「僕は、」

弟の名を、名乗った。

「……どういうつもりだね」

弟の事を知っているから、近藤先生は低い声で唸った。

「そのままです。僕も浪士組に参加させてください」
「何を馬鹿な事を言ってるんだ。第一、君のご両親はこのことを……!」
「関係ありません。僕は僕の意思で来ました」
「てめぇ、これは遊びじゃねーんだぞ!」
「百も承知です、遊びでこんなことするわけないじゃないですか」



「ねぇ」


突然割って入った声に、土方さんも振り返った。総司、と小さく呟く。

「君さ、これは“腕に自信のある奴はだれでもいい”募集なんだよ。ろくに鍛錬もしてない奴が役に立つと思うの?」
「なら総司が、稽古を付けてください。どんなに厳しくたって構わないから」
「もう剣道はやらないんじゃないの」
「僕がやりたいのは剣道じゃない。ただ、大事な人を守れる力が欲しいだけ」

総司は一瞬驚いた顔をして、それからニヤリと笑った。

「……本当に、何でもやるんだ」
「はい」
「おい総司! 勝手に決めんじゃねぇ! 俺も近藤さんもこいつのこと」
「だってこの子、どう見た男ですよ。姫はもっと女の子らしかったし」

その言葉にも、もう動じない。
近藤先生が私の前に立った。

「姫君……いや今は姫君じゃないのか……最後に一つ聞きたい。君はその……本気、なのかね」
「武士に二言はありません」
「……分かった」
「近藤さん! それでいいのかよ!」
「こうなってしまったら誰も止められんよ。暫くは様子を見て」
「僕の気持ちは一時の物ではありません。僕は最後まで、皆さんと共に居ますから」

溜息を吐く近藤先生と、土方さん。不安そうな顔で様子を窺う源さん。遠巻きに眺めて何か言い合う食客の面々。私の隣に立っているのは総司。
きっと今は、私は彼らの誰にも勝てないだろう。身体的な力の差だけでなく、木刀を握っていた時間の差だ。途方も無いほど私は引き離されてしまった。でも何れ、取り戻す。血反吐を吐いてでも追いついてみせる。泣き言は言わない。どんな罵詈雑言浴びせられたって構わない。
私にはやりたいことがある。

「守る、って言ってたけどさ。君は誰を守りたいの? ……まさか僕とか、言わないでよね。僕の方が強いんだから」
「さぁ、どうでしょう。僕だって鍛錬すれば勝つかもしれない」
「そう、じゃあ楽しみにしてるよ」


嬉しそうに笑う、その無邪気な顔が、何時迄も在りますようにと、私は刀を取ったのだから。



――――

総司追悼。安らかに、お休みください。
(14/05/30)
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