「ようやく咲きましたね」
「あぁ……見事に咲いたな」

この斗南にも遅い春がやってきた。日ノ本の北端、寒さの厳しいこの場所にも、ようやく春と呼べるような暖かな風が吹く。満開を迎えたばかりの桜の花びらが青空の向こうに舞った。ひらひらと、吹き上げられてはゆっくり地上に戻ってる。
こんな最果てのような土地にさえも、先人達は桜の木を植えたのだ。何年もかけて枝葉を広げ、立派な大木へと成長した。今は二人で両の腕一杯に広げてもまだ余るくらいの大樹となって、そして私達に春をくれる。白い小さな花弁を見ていると、思い出す。

今、ここで咲いている桜は、一さんが見てきた桜と同じ色をしているのだろうか。

うららかな陽光の下、穏やかな日々が流れていく中で、たった一筋のざわめきが波紋を落とす。不安だとか恐怖だとか言うものではない。ましてや、一さんを信じられないのでもない。ただ、私の知らない一さんと、一さんが見聞きしてきたものに、哀しくなるだけで。
一さんは京の都で新選組として暮らしてきた。私はそれを知らない。それから江戸に渡って、会津まで北上して。それから後のことは傍で見てきたから誰よりも知っている自信があるけれど、それまでのことは私は何も知らないのだ。どんな場所で、どんな友と、どんなことを語り合ったのか。そこには私の知らない過去がある。一さんが生きてきた時間がある。そこに私の立ち入る隙はない。知る由もない場所。私はただ、思い描くことしか出来ない。「もしや」「かもしれない」を絵巻物にすることしか、許されない。

かつて新選組で一さんと志を同じくしていた方々は、散り散りになって行方はおろか生死も分からぬ人も居るという。志半ばで帰らぬ人となった方も多い。そんな方々が見上げた空と、私達が見上げている空はきっと繋がっていて辿ることができるのだろう。けれど、桜は。桜は同じように咲いているのだろうか。もしかして、私の知らない桜があるんじゃないかと思って、寂しくなる。白い小さな花弁は何も語らない。黙しているのか、踊らされる私をその心中で嘲笑っているのか、検討も付かない。
桜はこんなに美しいのに、苦しくなる。しみじみと情緒に浸ることさえ、許してはくれないらしい。

「……顔色が優れないようだが、やはり身体が」
「いいえ、いいえ。ただちょっと、物思いにふけっていただけです」
「……そうか。だが春とはいえ長く居ては身体が冷える」
「はい。……でももう少しだけ、ここに居ても構いませんか」
「あぁ」

心配そうに眉根を寄せていた一さんが、ゆっくりと微笑んでくれる。

「……あんたの考えていたことを、聞いて良いだろうか」
「ええ。……ですが、あまり良いことではありませんよ?」
「む……だが俺は、あんたのことは何でも受け止めるつもりだ」

すごく真面目な顔で一さんは答えてくれた。

「私、嫉妬してたんですよ。私の知らない一さんを知っているすべてのものに」
「――!」

一さんは、今どんな顔をしているんだろう。そう思って覗き見ると、一さんの瞳が黒髪の向こうで大きく見開かれていた。
……やはり。こんなことを言うなんて、武士の伴侶失格だ。恥ずかしくて慌てて目を逸らした。

「……すみません。出しゃばりました」
「いや。……言っただろう、俺はあんたの全てを受け止めると。それに、あんたは……俺が言うのも何だが、少々感情が読みづらい。それゆえ、今のように直接口にしてくれるとありがたい。妙な遠慮は要らん」
「ですが、夫を立てるのが武士の妻の役目でしょう?」
「そう言われているのかもしれんが……俺はあんたに窮屈な思いをさせたくはない」
「窮屈だなんて、そんな……」

私の胸の内を代弁するかのように、風がざわざわと吹き上げる。

「私は一さんの傍にこうして居られて幸せなんです。……ただ、桜はどうしても心を狂わせるから」

だから急に不安に駆られたりして。
頬に触れる手に俯きかけていた顔を慌てて戻すと、そこには優しく微笑む一さんが居た。

「あんたが俺のことを知りたいと思ってくれるのが、俺は嬉しい」
「はい」
「確かに、俺にはまだあんたに話していない過去がある。それを俺があんたに話すことはこの先一生無いかもしれん」
「……はい」
「だが忘れないでほしい。あんたは――姫は、自分で思っているよりずっと俺を支えてくれているのだ。姫が居なければ、俺はきっとこんな穏やかに昔の友を思い出すことは出来なかっただろう。きっと、自責の念に駆られ狂っていた」
「…………」

胸が、苦しい。
分かっていたことだけど、それだけ一さんが経てきた時は重く、一さんにとって大きな意味を持っているのだ。

「あんたと過去をやり直すことは出来ない。……だが、きっとあんたとなら、この先を生きていくことが出来ると俺は思っている」

つん、と鼻の奥が痛い。目頭が熱くなる。
優しく微笑む一さんの瞳が優しくて、鋭くて、ずっと見ていると恥ずかしくなって、ふと空を見上げた。春霞で少しぼんやりとした空が、そこには広がっている。ぼやけているけど、けしてどんよりとした重たい色ではなくて、爽やかに透き通った色。青い空。
青は一さんの色だ。髪も瞳も、漆黒のようでいて光の加減では青くも見える。不思議な色。けれどどこまでも深くどこまでも澄み渡る様はまるで空のようだと思ってしまう。
そんな空に、今は薄紅色の花弁が舞っている。さながら胡蝶のよう。ただこれが夢じゃないと、隣に佇む確かな気配が教えてくれる。
一さんを見上げると、私と同じように空を見ていた。一さんは一体何を考えているのだろうか。きっと、私には手の届かない話かもしれない。けれど、今、一さんの隣は私しか居ない。

(……あ)

一さんの髪に桜が一輪咲いていた。きっと先ほどの風で煽られて落ちてきたのだろう。当の一さんは、花の重みにも気づかない程。前だったら信じられない話だ。そんな様子がおかしくて、嬉しくて、くすりと笑みが零れた。
一さんも我に返ったようで、私を訝しげに見返す。それも私の笑みを誘うのだけど。

「何故笑っている」
「だって……一さん、とても桜が似合うんですもの」
「……? 桜ならば俺より姫の方が」
「いいえ」

私が手を伸ばすと、一さんもようやく事態に気付いたみたいで、決まり悪そうに私の手のひらに収まった華を見ている。
この花は、厳しい冬を越えようやく迎えた春の訪れにここぞとばかりに咲き誇っている。八重に開いた花弁は、慎ましくも強かに生を主張していた。枝から一輪切り取られても尚鮮やかに。


あぁ、この人は本当に桜がよく似合う。


「……やはりこの花はあんたによく似合う」
「えっ?」

手の中から花が消えている。代わりに耳元に重さを感じて、思わず手をやった。髪の挿された柔らかな感触。私はもう一度、一さんの方を見た。

「……似合っていますか?」
「あぁ」

微笑む一さんを見ていると――嬉しい。
一さんは前よりもずっと笑うようになった。ふんわりと、柔らかく。その顔を見るだけで私も心が安らかになる。ずっとこの人の隣に居たいと、この人の笑顔を守りたいと思う。一さんはそれを「支え」だと言ってくれたけれど、私はそうは思っていない。支えられるほどの力は、私には無いから。けれど、傍に立って見守ることは出来る。一さんが足を止め振り返った時に、「おかえりなさい」と笑って迎えることが出来る。

たったそれだけの小さな幸せだけど、それを繰り返して行けたら。

「これなら中でも春を感じる事が出来るだろう。……あんたの手も冷えきっていた。そろそろ戻ろう」
「はい」

差し出された手は、温かい。
出会った頃は会話すらぎこちなくて、今よりも距離があって、一挙手一投足に動揺したりして。でもいつしか自然と手が伸ばされて私もそれを掴むことが出来るようになった。言葉が無くても、一さんが今何を考えているのか分かるようになった。きっと一さんにも伝わっているんだと思う。でないとこうして歩幅を合わせて歩くことなんて出来ないはずだから。

手に手を重ねる。
でも、この瞬間に心が少しだけ跳ねるのは以前と変わらない。他の人より少し温度が低くて、けれど私のより大きな手。かつては刀が握られていた場所に私の手を乗せることが出来るのが嬉しい。

もう一度、あの桜の木を振り返る。
桜の花はきっと来年も咲くだろう。その先もずっと、春が過ぎて夏が来て、秋を迎えて冬を越せば、再びの春がやってくるだろう。その度に木は少しずつ年輪を重ねて、同じように枝いっぱいの花を咲かせるだろう。
そんな桜を、二人で見守っていけたら。
今はたった一輪の花だけど、いつかはこの桜のように天高く枝葉を伸ばして行けたら。



私は永久に咲く花でありたい。貴方の隣で、咲いていたい。




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(14/04/19)
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