この感情を恋だと知ったのは、一体何時のことだろう。とうの昔に忘れてしまった。ただ覚えているのは、優しい気持ちと高鳴る思い出。胸が苦しくなるほどに、その人を愛していた記憶が心を占めていた。感情だけは、溢れんばかりにありありと思い出せる。愛しくて、温かくて、時には嫉妬して、悲しくなったり。
だけど、どうしても思い出せないものもある。いつも笑いかけてくれた、愛しい彼の顔だけは、霞がかったように不鮮明で、思い出そうとすればするほど遠ざかる。手を伸ばせば、思い出の欠片は触れられるほど近くにあるはずなのに。もう少しで届く、そう思った瞬間に弾け飛んで霧散していく。優しさと切なさの残滓だけが漂っている。彼はすぐそこに居るはずなのに。

――君が好きなんだ

その声すら、よく分からなくなっていた。けれど私には、その足りない何かを埋める術がない。

確かあれは桜の盛りの季節なのだ。さく、さく、と一面に散り落ちた花びらを踏みしめて歩いた。川辺の道だ。往来の多い道。人波に流されそうになりながら彼の後ろを歩いていた。少し離れたら、見失ってしまうから、彼のすぐ後ろに寄り添うように。でも並んでいなくても良かった。彼の広い背中を見ているだけで安心する。時折彼が振り返って、そんなところでいいの?と聞いてくれるのが嬉しかった。その時私は、何と答えたんだっけ。でもきっと、私はここでいいんです、とか言ったんだと思う。心が満たされていたから、他に何も望まなかっただろうから――…


「……っ……」


思い出という名の夢に浸っていた私を叩き起したのは、無機質な電子音だった。ベッドから転がり落ちた目覚まし時計がけたたましく鳴り続ける、ごくありふれた朝の風景。朝の日差しが眩しくて、目蓋が痛い。
気怠い身体を動かして、起き上がる。寝ぼけた人間を叩き起こそうとトーンを上げ続ける目覚まし時計を拾いあげ、スイッチを切る。まるで機械のように決まった動き。日常に戻ってきたんだと実感する一時。

あの夢は、よく見る夢は、一体何なんだろう。思えば、物心付く前から繰り返し見てきたような気がする。幼い時は夢の意味さえ分からなくて、でも怖い夢ではないから気にしたことも無かったけれど、今思えばこれはいわゆる前世の記憶というやつなのだろうか。などと、ちょっとオカルトじみた事さえ考えてしまうほどに、頭に残らないけれど心に残る映像なのだった。あれは夢だと分かっていても、ふとした瞬間に現実との境目を見失いそうになる。忘れているだけで、本当は体験してるんじゃないかって。もしくは、これから起こることの予知夢なんじゃないかって。

慌てて朝食を頬張りながら支度して、家を飛び出す頃にはいつもなら夢のことなんて忘却の彼方のはずなのに、今日ばかりは電車に揺られながらもあの人の背中が目に焼きついて離れなかった。桜の季節、だからだろうか。夢の続きと言わんばかりの桜並木が視界に映る。電車を降りた先、駅前から真っ直ぐに続くこの道は、通い慣れたはずなのに今日ばかりは妙に落ち着かなくて、きょろきょろと周りを見渡しながら歩いていた。傍目から見れば怪しいはずなのだが、花見とでも思われているのだろうか。通りも行く人はそんな私の様子を気にした風でもなく、淡々と横をすり抜けて行く。
忙しない都会の朝の風景に、溶け込んでいるようで、でもやっぱり私は溶け込めていない。私の周りだけ、切り取られているような感覚。

「!」

目が合ったような気がして、つられるように振り向いた。すれ違った人もこちらを向いていた。

風が、見計らったように桜の花びらを吹き上げる。薄桃に染まる視界に、思わず目を伏せた。風を頬で感じた。前髪が舞う。手で押さえようとして、このなんでもない動作に強烈なデジャブを感じた。

――ああ、そうだ。前にもこんなことがあったんだ。

風が止み、バラバラに飛び跳ねる髪を手櫛で戻す。やがて明瞭になる視界。そこに佇む一人の人影。全部全部、<あの時>と同じ。

「……久しぶり、でいいのかな」

その人は、ぽつりとそんなことを呟いた。私は黙って頷いた。
全部、思い出した。彼と過ごした時を、声を、顔を、記憶を、温度を、そして、終わりの時も。激流のように流れてくる。不完全だった感情が、思い出を得て輝き始める。
きっとこんな風に二人して巡り会えたのは奇跡なのだ。ありふれた出会いなんかじゃない。よくある再会でもない。これは特別に与えられた偶然。そして必然。生まれ変わっても好きだよって、生まれ変わっても愛していますって、そう言い合ったのが鮮明に蘇る。思い出した。全部全部、思い出した。欠けていたピースが埋まるように、あのもやもやとした視界が晴れていく。手のひらの上に、記憶の欠片が降り注ぐ。その度に全身を熱いものが駆け巡っていく。おかえりなさい、そう身体が言っているみたいだ。









――忘れないよ、君のこと。好きな子なんて、僕には一人しか要らないんだから。






それは幕末の動乱が収まった、確かこんな風に春風が花びらを吹き散らす、うららかな午後だったと思う。ひなたに二人並んで寝転んで、指を絡めて銘々に宙を眺めていた時に、彼に言われた言葉。忘れない。この世でも、たとえ、何度巡り合っても、忘れない。彼はそう言った。私もです、と答えた。ああ、何でこんな大事なことを忘れてしまっていたんだろう。悲しさが胸をちくりと刺す。

「そんな暗い顔しないでよ。僕は、君に会えて嬉しいんだから」
「……っ……」
「言ったでしょ。後にも先にも、僕には君しか居ないんだ。だから、また会えてよかった」
「……私も」
「ん?」
「私も……です。会えて、嬉しい……!」


奇跡を噛み締めて、また彼の腕の温もりを知って、涙で顔がぐしゃぐしゃになるのもお構いなしに、私は彼の胸へと飛び込んだ。



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(14/03/28)

SSL発売記念!(と言いつつただの転生ものが書きたかった)
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