雨のお侍さん。黒い着物のお侍さん。その人については、それしか知らない。けれど、冬の長雨のあの日から、ずっとちらちらと頭の隅に残っているのだ。私は一体どうしてしまったのだろう。今までは彼の事しか考えられなかったというのに。長屋のお隣さんや、噂好きの女衆から「そんな薄情な男なんて忘れて、早くいい男見つけて身を固めろ」と、再三言われたのを突っぱねてきたのに。彼以外考えられないと、言ってきたのに、その言葉を自らで打ち崩そうとしている。まるで生娘の恋煩いのように日がな一日一人の事を考えているなんて。

――恋。

しかしそれは恋と呼ぶには些か頼りない。何しろただ傘を渡しただけの関係で、その傘が私にとって特別だっただけで、相手にとってはみすぼらしい女から傘を受け取った、その程度に過ぎない。そもそも相手はお侍。烏滸がましいにも程がある。だからこれは恋とは呼ばない。一目会っただけで、そんな風に舞い上がるなんてどうかしてるのだ。
私は、きっと疲れているのだ。だからこんな風に余計な事を考えてしまうのだ。彼は、帰ってくる。これまでそう信じて生きてきたじゃないか。何を躊躇うことがある。これからもそう信じて生きれば、

「すまん、誰か居るか」

私の思考を打ち消すように、それは現れた。ここからでも分かる、人の気配。今、彼が立っている。あのお侍さんが、戸口の前に立っている。あの日と同じように居るのだ。
居留守を使うには、私の家は隙間だらけだ。だから観念して、私は戸口を引いた。

「うちになんか用どすか」
「……あんたか。傘の礼をしに来た」
「せやからそれは、」
「ただ受け取るだけでは俺の気が収まらぬゆえ」

彼が取り出したのは、小さな巾着。その中で鳴った微かな金属音に、私は目を見はった。同時に、悲しかった。
彼が差し出したそれを、強く突き返す。

「要りまへん。うちは物乞いやあらしまへんえ」
「しかし、あんたも……生活は苦しくないのか」
「そら、まぁ」

戸口を覆うように立っていても、どうしたって中は見えてしまう。外だって、荒れるのを気にしたこと無いから、きっと他人の目から見れば酷い様なんだろう。彼の視線が言外に物を言っているが、残念ながら私の暮らしぶりは見たままその通りである。
土地も金も無い女が一人で生きていくのに、職を選ぶことなど出来ない。当然出来ることは限られてくる。男を取って、金を貰う。定石通り、私もそうして日銭を稼いでいた。一年以上もそうやってしのいでおいて、私はまだそれを言葉に出すのが躊躇われた。物乞いではないと言ったが、ほとんど物乞い同然である。最近は運良く芝居小屋に拾ってもらったからまだいいが、辻君だっただなんてこのお侍さんには口が裂けても言えない。
お茶を濁していると、彼は察したようで、「そうか」と短く言葉を切った。

「ならこの金で、あんたの時間を買ったことにすればいい」

時間はあるか。と、このお侍さんは問うのだ。訳が分からずぽかんとしていると、散歩に出かけようと言う。更に訳が分からず私は阿呆のように口を半開きにさせていたが、昼間は特に何も無いので、少し待って、と言って中へ引っ込んだ。化粧だけ軽く直して戻ると、戸口の横にやはりあのお侍さんが立っている。

時間を買う、と言うから何のことかと思えば、体を求めているわけではないようだ。お侍さんは何処へ向かうともなく、静かな裏路を歩いていた。こうして男の後を着いて人気の無い道を行くのは、最初の頃は怖いと思ったが、今は何でもない。死ぬかもしれないし、死ぬよりもっと酷い目に遭うかもしれないが、もはやどうでもいいと、思い始めていた。妙な話だ。口では、彼の帰りを心待ちにする健気な女であろうとしているのに。

「あんたの名前、姫と言うんだな」

それまで黙りこくっていたお侍さんが、久方ぶりに口を開いたと思えばそれだった。聞けば、三軒隣の奥さんから聞いたらしい。噂好きの人だから、きっとあることないこと吹き込んだに違いない。彼は私の事、どこまで知っているのだろう。既に家の中も見られてしまったから、大抵の事は知れてしまったことだろう。奥さんにとっては私なんかのところにこんな人が訪ねてくるもんだから、それこそ好奇心でウズウズしているに違いない。帰れば、嬉々として質問攻めされることだろう。考えれば考えるだけ気が重くなったが、お侍さんには「へぇ」と一言答えた。

それきりまた沈黙が訪れた。しかし、居心地の悪い沈黙ではなかった。それはこのお侍さんの雰囲気がさせるのか、はたまた 人気の無い散歩道がそうさせるのか。少しだけ早歩きの足取りも、苦にはならなかった。お侍さんの行く所へと着いて行くだけ。無意味なことをする時人はとても退屈だと感じるらしいけれど、今の私はそうではない。この静けさを楽しんでいる。受け入れている。まるで私は――

「あんたはあそこで亭主の帰りを待っているらしいな」

ふいに冷水を浴びせられたかのように、どくんと心の臓が疼き、背筋をざわつかせた。お侍さんが足を止める。私の足も、止まっていた。

「……亭主というわけやあらしまへん。祝言、まだやったから」
「嫁ぐ前に後家になったのか」
「死んだと誰が決めはったん。そないえげつないこと言わんといて」

思わず声を荒らげてしまい、しまった、と顔を俯けた。これではただの八つ当たりではないか。

でも、今まで彼は生きていると、帰ってくると、そう自分に信じこませていたのだから。気持ちの整理云々ではなく、形として私は彼の帰りを信じて待つ女であらねばならない。本当は当の昔に自分の嘘に気づいたとしても、折れそうな気持ちを欺いて、その嘘というぬるま湯に浸かることで心が壊れるのを食い止めていた。いつかは受け入れようと思って先延ばしにして。初めは周りも心配してくれたけど、だんだん腫れ物を扱うようになって、機を逸してしまった私は自分からは言い出せなくなった。

事情を知る人は誰も教えてくれない現実を、教えてくれる人を待っていた。私をここから連れ出してくれる人を。何でもないってふりして、一番心待ちにしていたのは私だ。こんな風には思いたくなかったけれど、彼の存在は呪縛のように私を捕えていたから。

「あんたの男はもう死んだ」
「え……?」
「あんたの男を斬ったのは、俺だ」





声が出ないというのは、こういうことなのだと思った。


死んだ。――死んだ。口の中で何度も繰り返した。頭の何処かで理解していたのに、分かっていたのに、覚悟していたのに、誰かにそうやって突きつけてもらいたいって思っていたのに、いざ直面したらどうしていいのか分からない。嬉しいとも悲しいとも思えなくて、ただ感情がするりと抜け落ちていくよう。無力感が体を支配していた。口の中がカサカサに乾き切って、息をする度にすうすうと喉が鳴る。何か言いたいのに、言葉さえも感情と共に消え失せてしまったらしい。そのくせ、心の靄だけは晴れないのだ。ああ、私は薄情な女だ。こんな時に一筋も涙が出てこない。死を悼むことも出来ないなんて。

「なん、で……」

お侍さんは、そんな私を射抜くように見ていた。

「あんたの男は、攘夷浪士の間で……仲介役、のようなことをしていた。俺は新選組の者だ。そういう連中を捕縛するのが仕事だ。だがその時、抵抗され、このような事になった。男が最期に、あんたにこの事を伝えてくれと、そう言っていた」

淡々と彼は説明する。でもその単調な語り口が、一番私の心情に近かった。おおきに。わざわざすんまへん。他人行儀な返しが口をついた。

「……あんたも男の仕事に関わっているなら然るべき対処が必要だったが、その心配は無さそうだな」

――馬鹿な人。最期に私に、なんて言うくらいなら、最初からそんな危ない仕事に首を突っ込まなければいいのに。お人好しで流されやすい、後先考えない質だったから、誰かの勧めとかそんな具合で軽い気持ちで引き受けたんだろう。稼ぎになるくらいにしか考えないで。自分が命を落とすなんて微塵も予想しなくて。姿を隠すくらいなら、そんなことするくらいなら、お金なんて無くていいから、二人でひっそり暮らせればよかったのに。

「……一つだけ、教えておくれやす」
「教えられることなら、」
「あんたはんの名前、何て言わはるの?」
「……それを聞いてどうする」

お侍さんの目は訝しげに細められた。でも、私に理由なんてありきたりだが一つしかない。

「あんたはんはうちの人の敵どす。……うちは仇討ちなんて考えてへん。せやかて、うちがあんたはんへのこの気持ち忘れないでいれば、あの人は生きてられる」

せめて彼を過去の人にしない為に。私が彼の為に生きていられるように。やるせなさの行き場を求めて、名前の無い目の前の彼に縋った。憎しみはとても強い。強すぎるからきっと胸に刻み込まれることだろう。そうやって彼が生きていれば、私はこの生活をこれからも続けていく。

「あんたがそれで満足なら」

俺が大層な事を言えた口じゃないが。そう前置きをしながらお侍さんは言う。

「けれど――あんたは、そろそろ自分の生き方をしてみたらいい」

斎藤一。そう名乗った彼の名前を、私は忘れない。彼の為、彼の為。けれど目蓋に浮かぶのは雨模様の空と、傘と――斎藤さん。黒い着物が暮れかけの闇に消えていく、その瞬間だけだった。



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(14/02/24)
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