『一緒に暮らそう。そうしたら、ずっと、共に生きよう』




彼と約束してもう二年が経とうとしていた。彼はあの日、仕事を見つけたと言って出て行ってから、帰って来ない。それが終わったら祝言を上げて名実共に夫婦になろうと契りを交わしたというのに、彼は居なくなってしまったのだ。彼は誠実な人だから、別の女の元に走ったとは考えにくい。彼は嘘がとんと苦手で、嘘を吐けばすぐに耳が赤くなる。あの時、彼の頬は赤くとも、耳は赤くなどなっていなかった。正真正銘、あの言葉は心から、彼がかけてくれた言葉のはずなのだ。しかし彼は、何の仕事をするのかは話してくれなかった。何をするかは言えないが、一月もすれば金をこさえて帰ってくると、だからそれまで辛抱して待っていておくれ、と彼は言ったのだ。私は勿論その言葉を信じたし、とうとう彼と結ばれる日が来るのだと舞い上がって一月、二月と過ごした。彼の仕事先も分からないから、連絡の取りようが無かった。彼が懇意にしていたらしい数少ないアテを回ってみたけれど、彼の仕事や彼の行方を知る者は誰一人として居なかった。きっと何か事情があるのだろう。帰ってくると、そう約束したのだから。そう自分で自分に言い聞かせ、心配するなという彼の言葉通り、半年待った。せめて死体でも見つかってくれれば踏ん切りが付いたかもしれない。しかし番所に当ってみてもそれらしき死体は無いと言われただけで、やっぱり彼の噂を聞くことはなかった。

徐々に彼の帰りは望み薄になってゆく。しかし、僅かでも希望があるならと、私は待ち続けた。時間だけが過ぎ去って行った。二人では狭すぎた長屋も、一人になってみると案外広く、少々持て余す。彼と過ごした痕跡は、時の移ろいと共にゆっくりと消えていく。それでも、彼の私物を見る度に、あの日の約束を思い出し、彼の残滓を心に引き戻すのだった。

ザァザァと季節外れの雨が降り注ぐ。この時期に、こんな風に雨が降るなんて。彼が雨男だったからだろうか、雨音を聞く度に彼の足音を探してしまうのだ。ついぞ聞くことは無かったけれども。この寒空の下、彼は元気にしているだろうかと、ふと感傷に浸っていると、戸口の前で人の気配がした。しかし、戸を叩く様子は無い。もしや、数年ぶりの再会の口上でも考えているのだろうか。期待半分不安半分で破れた障子の隙間から覗いて見ると、何の事はない、見知らぬ男が立っていた。軽い落胆に飲まれながらも、珍しい訪問者を眺めた。黒い着物で、腰に刀を二本、差している。浪人だろうか。こんな貧乏長屋に用があるとも思えないけれど。

「すまん、急に降られてしまった。ひさしを借りていいか」

私の気配に気付いたのか、そのお侍は声をかけてきた。あんまりジロジロ見て、気分を悪くされたかしら。難癖付けられなければいいけれど。軒下くらいでケチケチするつもりもないし、この大雨の中追い出すわけにも行かないので、どうぞ、と短く答えた。今度は失礼にならないよう遠くから、それでも好奇心には負けてお侍さんを観察した。

それにしてもこの男、見れば見るほど変な男だという印象が増した。よく見ると刀を右に差しているのだ。確かお侍というのは左利きだろうと刀は左に差して右で扱うもんだと聞いたことがある。随分昔に習ったことだから自信はないが、粗相を働かないようにとキツく言い含められたから記憶に残っている。往来で見かけた浪人も、確かいつも左に差していて、だから刀に当たらないように皆お侍が来たら右側に避けていたような気がする。ああそうだ、やはりこの右に差しているお侍というのは珍しい。
それに、真っ黒の着物と無造作に巻かれた白い襟巻き、後ろで結わえただけの長い髪、これだけならどこぞの浪人と対して変わらない出で立ちだけど、妙に小ざっぱりとしたところもある。きっちりと合わせられた見頃やピンと伸びた背筋は、いい所に仕官する武士のようにも見える。人相まではよく見えなかったが、声は意外と若かった。二十歳そこらだろう。ますます、この奇妙なお侍が手ぶらで町人長屋に姿を現した理由が、気になった。

……とは言え、実際に聞くのはそれこそ不躾だし無作法だ。なれば、とそっと思案する。足りない頭で考えるだけ考えて、きっと生き別れた馴染みの女を探すために浪人などに身を窶しているがその育ちの良さが滲み出てしまっている旗本の三男坊――そんな三流読本のような筋書きを妄想して満足することにした。いずれにせよ私には関係の無いことなのだ。一時の気晴らしとなればそれでいい。

雨は降り止むこと無く、むしろ雨足が強くなってきたように思える。もし彼が本当に知り合いを探しているのなら、一刻も早くその人の下に駆けて行きたいはずだ。皮肉にも雨は強くなるばかりで、何しろこの寒さ、傘も差さずに走れば風邪で済むかも分からない。
傘、と言う言葉で、ふと土間に目が行った。しばらく使われていない番傘が、そこにあった。

「これ、つこうておくれやす」

気づいたら、番傘を手に表に出ていた。差し出されたお侍さんの方も、いきなりの事に驚いているようだった。そして傘と私を交互に見た。
……お侍さんが訝しむのも無理はなかった。何しろ、女が持つには地味すぎる、そして大きすぎる傘を、私は差し出していたのだから。

それは彼の傘だった。彼は雨男だから、傘を二つ持っていた。その内の一つ、あの日、彼が差して出掛けて行かなかった方の、残りの傘だ。あの日から、主人を失った傘は土間の隅で主人が帰るまでと眠らされていた。埃を被っていた割には、使われて居なかった分まだ綺麗だった。失礼でもないだろう。いいから、と傘を前に出す。

「だが、」

お侍さんはまだ難しい顔で私の顔と、それから家の中をちらりと見た。それもそうだろう、こんな昼間から女が一人、それも男物の傘を手に顔を覗かせているんだから。遠慮するお侍さんに、私は無理矢理傘を握らせた。

「ええの。その傘も、つこうてくれる人が居たほうが、嬉しいはずやから」
「…分かった。この借りはいずれ返す」

お侍さんの背中が遠くなるのを、こっそりと見送った。
これでまた、彼の私物が一つ減った。彼の跡が、消えていく。だが不思議と、名残惜しいと思う気持ちよりも清々しさが増していくのだ。彼の存在を、忘れようとしているかのように。彼を好きだと思う気持ちは変わらないはずなのに。
もしかしたら、あのお侍さんが彼に似ていたのかもしれない。容姿が、ではない。ただ、雨の似合うその立ち姿だけが、どこと無く似ているように感じた。彼は侍だとかいったものから程遠い、ただの町男だったけれども。あの張り詰めた空気など、一切身に纏ってなどいなかったけれども。あまりに待ち焦がれるあまり、彼の姿をあのお侍さんに重ねていただけかもしれない。



雨はそれから三日降り続いた。時折雪を交えつつも、途絶える事無く地面を濡らした。お陰で出掛けるのも億劫で、気付けば野菜の類の買い置きが無くなっていた。そろそろ、葉物を買いに行かないと、汁の一つも用意できいない。渋々と私は傘を差して市を目指した。私の傘は、女物らしく赤い傘。実は彼とおんなじ店で買ったもの。お揃いなのだ。そう思うと、あのお侍に傘をあげてしまったことが今更惜しくなるから、私は都合の良い女だ。

「あんた」

考え事をしながらだったから、顔は前を向いても何も目に入っていなかった。すぐ近くで肩を叩かれ、ようやく今通り過ぎた人が見覚えのある黒い着物を着ていた事に気付いた。顔を上げると、あのお侍さん。前と同じ白い襟巻きで、傘を差しつつ、手にはもう一本、傘を持っていた。
それは、私が渡した傘だ。

「ちょうど良かった。今、あんたのところに傘を返しに行こうと思っていたところだ」
「おおきに。でも返さんといてもかまへんのに」
「いや、これは借り物だ。そのまま持っていてはあんたから奪い取った事になるだろう」

難儀な人だ。律儀、と言った方がいいのか。それとも真面目一辺倒か。取り敢えず返さないと気が済まないようだ。

「ほな、その傘あげます。お侍はんが使こうておくれやす」
「しかし、」
「使こうておくれやす」

どうしてか、そのお侍さんに傘を持って行って欲しいと思った。あれほど後悔していた気持ちが嘘のようにすっと何処かに居なくなっていく。どういう心情の変化なのか、言った私自身が一番驚いていた。
往来の真ん中で、口論しているのは良くないと思ったのか、お侍さんは直に分かった、と傘を差し出す手を引いた。

お侍さんは、今来た道を帰っていく。その背中が人混みに消えていくのを眺めていると、ふと、彼もこうして人波に消えていったのではないかという気分になる。もう戻ってこないんじゃないかと、強く思った。悲しいはずなのに、悲しいという感情は沸き起こらなかった。そうなのか、という淡々とそれを受け止めていた。

彼以外、誰にも心を動かすつもりはなかったし、今まで何度も「そんな男忘れて、はよええ男見つけよし」と言ってくる長屋の女達の言葉にも耳を貸さず、ひたすら待ち続けた二年間。それなのに、それなのに。どうしてかあのお侍さんだけは忘れられないのだ。その背中、傘を差して消えていく背中が、いつまでも残っている。追いかけたい気持ちをぐっとこらえて、私は小路を曲がった。







――――
一応続きます。

(14/02/17)
戻る
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -