初雪




冬の空、昨日までの晴天とは打って変って灰色の雲が立ち込める空を、彼が縁側から眺めている。このところの彼の日課だった。じっと、見つめて、ただそれだけで時間が過ぎていく。垣間見た横顔は、昔の彼からは到底想像出来ない程に穏やかで、それ故に彼が何を思っているのか、私にはこれっぽっちも分からない。もしかして私の知る彼はどこか遠くへ行ってしまったのかと、今目の前にいる彼は夢幻の類で触れたらぷつんと消えてしまうのではないかと、そう考え出したら悪い予感が全身を駆け巡るので、あと一歩を踏み出す勇気を捨ててしまった。ただ只管に、耐える。その時が過ぎ去るのを。何時ものように、挑発的な笑みで私を呼ぶ彼が戻ってくるのを──

「姫」

唐突な呼び掛けに、悲鳴を上げそうになりながら硬直した身体で彼の前に出る。呼んだ?ってさりげなく。偶々通りかかった風を装って。そんか小細工、彼には無意味だろうけど。震える声に速い拍動。ぎこちない所作。取り繕った笑顔。それ以前に、私の気配すら彼にはお見通しなのだろうから、様子を伺っていたことも知っているはずだ。
けれど、今まで一度足りとも声をかけてきたことなどなかったのに。一体どういう風の吹き回しだろうか。

「いつまでもそんなところに立っていないで、こっちに来たら?」
「……」

頷いて、言われた通りに並んで座る。霜月の風が、頬に当たる。

「いつも見てたよね、何で」
「やっぱり気づいてたんだ」
「やっぱり、気づいてること気づいてたんだね」

禅問答みたいなやり取りだ。にやり、と笑った彼は、ああいつもの彼だった。少しだけ安心して、少しだけ、この時を切なく想う。

「で、答えは?」
「答え…?」
「何で見てたかってこと」

言い、淀んだ。

「…儚いとか、考えてた?」
「!」
「…やっぱり」

はぁ、と溜息なんか吐いて、頬杖ついてる彼の隣で、私は気が気でなかった。心臓が低音を鳴らし続けている。落ち着いてなど、いられなかった。

「そんなこと、考える必要ないのに」

ぽつりと呟いた彼は、やっぱりあの表情で、思わず逸らしたいのに視線は縫い止められたように動かない。彼の硝子のような瞳は何を見ているんだろうか。握りしめた拳で、胸の辺りに閊える疼痛を誤魔化そうとして、滲ませきれなかった痛みが喉を通って針のようにちくりと刺す。痛い。怖い。彼を信じきれていないからだろうか。こんなことを考える私が未熟だからだろうか。けれど、それらを覆すだけの証拠がない。現実は鋭利に迫ってくるから、夢を見ることなんて私には到底、

「…出来ない」
「ん?」
「出来ない、そんなこと。総司の側に居たいから、私」

それは、幼い時分、まだ道場で竹刀を握っていた頃から心に一つ決めていた願いだった。ずっと側に。何があっても共に。たったそれだけのことだ。一見簡単なようで、だがしかし難しい望みだった。京への上洛、浪士組の結成、変若水、羅刹、鬼…そして、労咳。でもそれももう全て終わったこと。後は残された時間を静かに暮すだけ。その風景に、彼が居れば私には十分。たった一つの贅沢な望みだ。

「…そんなに思いつめなくてもいいのに」
「嫌だ。総司が居なくなるのは嫌、もうあんな思いはしたくないから…」
「頑固だね。だから余計に心配なんだけど」

おいで、と言われて私は彼の傍へと一歩近づく。

触れるか、触れないかの距離で、私は改めて彼を見上げた。何度も何度も見上げてきた。見つめてきた彼の横顔。今は正面に見据え、どこと無く気恥ずかしくて目を逸らした。思えば真正面から彼を見るのは慣れてない。意識すればするほど顔に熱が集中する。きっと赤く火照ってる。早く収まってほしいと願うほど、熱はますます高まる。


「姫は、僕が死んだら後を追ってしまいそうなんだよね」


…図星過ぎて顔を上げることが出来ない。

私はいつも、置いて行かれることを怖がっていた。
何でも要領よく済ませてしまう彼。彼は、私が必死で走っているところを三歩で歩いてしまう。何時だって、何処だって、何だって、彼は先にいて、私はその背を追いかけるばかり。余裕綽々と私を振り返って、「早くしないと置いていくよ」って笑いかける。そんな彼の残像に「置いて行かないで」って手を伸ばす。彼は私を待っていてくれたけど、それがいつまで続くかは分からないのだ。いつ何時、彼が走りだしてしまうか。そうしたら私はきっと追いつけない。真っ暗な闇の中で、見失った背中を追いかける術は、無い。

そんな恐怖がいつも私を縛り付けていた。

「だからそんなことはしない。させないよ。僕は君を置いていかないし、君を死なせたりしない」

柔らかな声が耳にまとわりつく。包み込むように、全身に染み渡る。あの黒い恐怖の波が、さぁ、と引いていく。光が見える。その向こうに、彼が立っているのだ。

「僕たちは、夫婦になる。それは楽しいことも怖いことも、幸せなことも辛いことも、全部一緒だ」
「っ…め、夫婦…」
「いやだった?」
「いや…じゃない、嫌じゃない。でも、いいの?」
「それは僕の台詞なんだけどなぁ」

苦笑いを浮かべる彼が心なしかとても近い。私の肩に触れる彼の指が温かい。熱を帯びて広がっていく。ゆっくりと、感情がこみ上げてくる。嬉しさ。幸せ。躍動感。一体どんな言葉なら今の気持ちを表せるんだろう。涙が一筋、頬を伝っていった。

「あ、雪」

彼の視線を思わず追った。目を向けると、どんよりと重たく雲の立ち込める空、その中を、ひらひらと白い花弁が舞い始めていた。冬の到来を告げる、初めての雪。この寒い季節が終われば春が来る。夏も、秋も、また冬も。私達は何度季節を巡ることが出来るだろうか。不確かすぎるこの時代の中で、ただ一つだけ確かなものは、唇に落とされた感触。彼と並んでいられるという確信が、私を満たしてゆく。




――――
君のいる景色」と同じテーマ。詳しくはそちらのあとがきに。

(13/12/10)
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