小説 | ナノ

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 対岸へたどり着いたものの、エドフという町はこれまた厄介なところであった。お恵みを望む不気味な少年は未だにポケットに手を突っ込んでくるし、調子よく話しかけてくるぼったくり商人も変わらない。加えて様々な民族が喧騒を起こし、活気ともいうべきなのだろうか、とにかく日本やアメリカなどといった先進国の中でもなかなかない光景だ。手をつながれて傀儡のように歩いている素依も、貧相には見えながら見た目が日本人だとわかるのだろうか、被害を少なからず受けているようだ。それを手で追い払っているのはなんだかんだで流れのまま彼女を任された花京院である。ここまでくると一番怖いのが無理やり引き剥がされて人攫いに会うことなので、しっかりと周りに目を凝らす。
「素依、お前、また切ったな」
 集中していたら、あまりに近くから声が降ってきたので驚いた。その声の主は紛れもなくこの中では最も彼女の近くにいた承太郎のものだ。なんらかの勘でも働いたのかと彼を見据えるが、その答えは花京院の思いをとっくに見越したものであった。
「随分調子よさそうだからな…またお前の隣のお節介さんが怒ってるぜ」
確かにまじまじと彼女を見てはいなかったが、よく見ると無表情の中に微かに見える隠しきれない恍惚とした表情。心なしか血の気の引いた顔色。察するに、まだ傷を癒している途中なのだろう。”お節介さん”も陽炎と見間違うほどわずかにその実態と言えるベールを揺らめかせている。その色は真っ赤とまでは行かずも怒りを示す薄紅を纏い、彼女に絡みついていた。両手を広げてやれやれだぜ、と一息つぶやいて、承太郎は新しい煙草を懐から取り出した。ライターの火花を散らして赤く先端を灯すと、彼は話を続けた。
「躾を考えないとな。…ところで、本題は変わる。俺は今からポルナレフと床屋に行くことになった。お前らはどうする」
突然の提案に閉口する花京院。一刻も早くDIOを討ち果たさなければならないというときに、余裕があるものだ。まあ、その方が気負うものも少しは安らぐのだろうか。
「ちなみにじじいとアヴドゥルは、今までゆっくり茶が飲めなかった分を取り戻すそうだぜ」
ふう、と吹いた息のなかに、強い風でさらわれた灰がちらちらと舞う。気は抜けないが束の間の安息は大事にすべきだ。ただ、花京院の場合には先程療養とは名ばかりの小休止があったのだ。それは素依も同じことだが。
「僕は、歩きがてら素依を見てるよ。何かあったら困るしね」
「悪いな。ついでにいい躾を考えておいてくれ」
お互いに苦笑いを噛み潰して、承太郎は二人から背を向けた。白煙と空に挙げた右腕がゆらゆら揺れて、それが一時の別れを示すのだった。
 さて、彼を見送った二人の間には若干の緊張感がある。自らをフェミニストと語る花京院ではあるが、扱いに困る彼女と、さらにその躾を考えるとなるとなかなか頭脳が捗らない。当の困りダネは未だその奇形を患った快感に酔いしれている。軽く手を引いてもそうそう動いてくれそうにもない。諦めてなんとなくその様子を眺めていると、ぽつんとスカートから生えている花が妙に気になった。
 あれだけ彼女が心酔している花、その匂いや形が、今猛烈に感じてみたくなったのだ。それは気候も潮風も気にすることなく咲き続ける不可思議な魅力なのか、ひいては無理やり咲かしているともとれるドリーム・シアターの危険な魅力だろうか。なんだか耐えられなくて、手が自然と伸びていく。何故か気付かれないようにと思ってしまいながらも、腰に手が触れて、柄にもなく動揺してしまった。しかし、彼女にはそんな恥など感じる余裕がないようで、一抹の反応も見当たらない。ああ、また逆に要らぬ心配が増えてしまった気がする。気がしながらも、好奇心が収まらない。あと、もう少しで長く伸びる茎に爪が届きそうだ。少し、拝借してもよいだろうか、いや、一生懸命になっている今なら、きっと…
「あっ…」
瞬間、素依が乾いた喘ぎを放って、現実に急に引き戻されたときのような、あるいはそれよりひどく硬直を起こしていた。そして、花京院は取り上げた茎に触れた部分から、冷たいような、熱いような、過度すぎて自身が混乱してしまったような、異常を感じた。それからの行動は速く、凄まじい勢いで彼女のスカートに茎を差し込むと、すぐさま彼は己の非礼を詫びるのだった。
「す、すまない。つい気になってしまって」
「…」
目を見開いて、花京院の顔を注視する素依。この表情が何を表しているのか、彼にはわからなかった。思い当たるとすれば、怒っているのかとしか考えられない。
「ほんとにごめんよ、君が大切にしてるのはわかっていたのに」
彼女はまだ表情を変えない。ただ、そのまま首を傾けた。ーもしや、当人もわかっていないのか。
「指、怪我してる」
指先が彼女と触れ合うと、今度ははっきり、ひんやりとした感覚。そして、薄皮の部分が無数の針に刺されたみたく、浅い痛みを感じる。すぐに治っていくのを垣間見ると、小さな水膨れが密集した、生理的なおぞましさを覚える様相がそこにはあった。
「震えてるわ。それほど痛く、ないのよ」
「あ、ああ大丈夫だよ。ありがとう…ジョースターさんのところに、行こうか。敵に会っても困るしね」
 素依に答えさせる間も無く花京院は彼女の手を引いた。先程のコンマ何秒かというだけの光景が目に焼き付いてしまった。それに加えた自分の小学生のような小さな好奇心に後悔を抱きつつ、ひたすらに歩く。ドリーム・シアターの逆鱗に自分も触れてしまったのだろうか、なんにせよ力を使っているときの彼女の魅惑の花は触れない方がいい。原理はわからないが、能力を思えば、細胞になんらかの影響が及んでいるのかもしれない。頭の中をいっぱいにしながら、彼はひたすら歩いた。

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