くるおしい

 甘く膿んだ空気が燻る部屋に、女の肢体が横たわっている。

 ベッドサイドに腰掛けたまま、雲雀は、眠る夏々子の顔を見下ろした。
 美醜について問われると、よくわからない。
 楊枝がのるほど睫毛があるわけでもなく、肌はやわらかいが、ザラメが零れたような痕がある。陽に晒されず久しいからか、色は白い。ただそれも評するのなら、陶器や象牙という言葉よりも先に、物心ついた時には既に雲雀の家にあった、プラスチック製のスプーンを思い出す。
 色は生成り。平たい作りで、持ち手の塗装がほとんど剥げてしまっていたのに、誰も捨てぬままいつも食器棚の、すぐ手の届くところにあった。まだ子どもだった頃にヨーグルトだの粥だのをそれを使って食べ、大きくなってからも、砂糖をすくったり、コーヒーをかき混ぜたり、何かしらのことで触れていたように思う。
 対極に在るのは磨き上げられた、華やかな銀食器だろう。パーティー会場でよく目にする、艶やかで肉付きの良い女達と比べれば、夏々子など取るに足りないつまらない容姿だ。例えば自分が女の格好をしたほうが──霧の幻覚でいくらか補強し、仕方なしに任務に挑んだことがあった。知らぬうちに写真まで撮られて、もう二度とするものと誓った──いくらか男が釣れるのではと、馬鹿げたことまで考えてしまう。

 捨てようと思えば軽々捨ててしまえるものを、どうしてか手元に置いてしまう。
 伸ばした指先にすうすうと触れる吐息が、容易く眉根を下げる。

 ただ眺めているだけでは欲情もしないが、顎先を少し撫でてやると漏れる声には情事を彷彿させる色香が漂い下腹部が仄かに熱くなる。起き抜けに浮かぶなんともあどけない顔と仕草は、目に焼きつくほど見ているのに飽きる事が無い。
 くたくたに疲れて帰宅した時、湯に浸かってから一杯の茶を呑むような、季節のはじめにどこからともなく花が香ってくるような、ありふれた幸せに目が自然と細くなった。

 はじめて夏々子を目にしたのは公園のベンチだった。目にした時も、同じ顔をして夏々子は眠っていた。少し赤みが差した顔で無防備に眠る様は言うまでも無く酒に酔ったからで、叩き起こすと奇妙に呻いてベンチから転がり落ちた。その様が印象的だったものだから記憶に残り、それから何度か言葉を交わし、夕食を共にし、レイトショーの映画を観に行った。当時、財団を立ちあげて裏社会で活動していた雲雀にとって、世間ではありふれたそれらの逢瀬は酷く新鮮だった。
 巡り合わせといえばそれまでだが、ゆっくりと、眠りに落ちて行くように夏々子に惹かれていた。気づけば夏々子も暖を求める赤子のように懐に潜り込んでいたものだから、そのまま包み込んでしまった。毛布にくるまれてしまえばもう、夏々子には雲雀の姿しか映らなかった。

 シーツをめくると、あたためられたマグカップに似た熱が、シャワーの冷水を浴びた身体をくすぐるように撫でていく。薄い腰に手を這わせて寄り添うように横たわると、身じろいだ夏々子の睫毛が眼前でぴくりと震えた。
 暗いシーツの海の底で、夏々子の手が何かを探し求めるように衣擦れを立てる。迷い子のようだと小さく笑い、雲雀は直ぐに指の隙間に滑り込ませるよう互いのそれを絡めた。幼子の体温と近しく熱をもった手は、雲雀に触れて氷を溶かすようぬるくなっていく。
「つめたい」
 囁きが鼓膜を震わせた。閉じていた目蓋は微かに持ちあがり細く細く濡れた瞳が覗いている。凹凸をなぞるよう腰に置いた手を滑らせると、夏々子はまた少し身じろいで、くすくすと笑った。震える振動を抑え込ませるように首筋に顔を埋めれば、くすぐったいと更に笑う。
 やわらかな皮膚に鼻先が触れると色濃く香るものは、いつか夏々子の母から娘にと渡された、絹のドレスと同じ匂いをしている。
 血が繋がっているだけあって、夏々子の母は、夏々子によく似た面差しをしていた。特に泣き腫らした顔などそっくりだった。どうか最期を飾ってと、本当ならばとうに燃え盛る炎に包まれて骨と塵になっているそれが、今もまだそのままの姿でいると知れば、あの顔はどんな表情を作るだろうと、夏々子の顔越しに透かしながら考えた。

 ひととき、ぼうっと呆けたような顔を作る。そうかと思えば、また夏々子がふにゃりと相好を崩す。
「外は寒いですか」
「ん」
「もうそんな季節なんですねぇ」
 夢と現を行き来する夏々子はとぼけたことを言う。皮膚が冷たいのはシャワーを浴びてきたからであって外の季節とは関係無いけれど、未だ睡魔に手を引かれている相手に説明する気はない。
「恭弥さん、お鍋がおいしい時期ですよ」
「余計な気はまわさなくていいから」
「……まだ碌に喋ってないじゃないですか」
「余計なことも考えなくていい」
 いつかの黒ずんだ鍋の底を思い返して釘をさせば、しぶしぶの表情で、けれど何が嬉しいのか唇を緩ませながら擦り寄ってくる。
「寒くなると、早い時間に子どもの帰宅を促す鐘が鳴るでしょう」
「……」
「だから恭弥さんも、早くに帰って来る気して」
「……そう」
 頭を撫でてやれば、夏々子ははにかんで喜ぶ。それこそ子どものようだが、夏々子自身にはもう、季節は何の意味を為さない。
 花見の予定も天気予報や服装指数も、近頃巷で何が流行っているのかも何処其処にどんな店がオープンしたのかも、世の中の事は全てが全て全部全部全部、最早関係無い事なのだ。

 結婚するからと夏々子を連れだして、仕事の傍ら一年の間に夏々子を鬼籍に入れてしまった。酷い事故だったということにして顔を見せず、骨だけを身代わりに立てれば滞り無く物事は進んでいった。はじめ受け入れがたいと喚いていた夏々子の家族も、次第に大人しくなっていった。

 夏々子はいとけない眼で雲雀だけを見詰めている。

 雲雀は知っている。
 夏々子が以前から、自分は此処に囲われているのだと知っていることを知っている。セキュリティを解除する術を、管理上信用ならないだのなんだのと並べ立てたのは嘘っぱちだ。けれど夏々子が、どうして嘘を吐くのか、どうして自分を縛るのかとヒステリックに叫ばない理由も、雲雀は知っている。
 己に自信が無いと日頃から零す夏々子は、外で雲雀がどんな人間と関わっているかを比較して卑屈になるまいとしている。世界が狭ければ目にするものは限られ、両の目を覆い隠してしまう手が慕う人のものならば、振り払ってまで世界を見る道理は夏々子には無い。
 陽は無いけれどあたたかな寝床はある。柵の外に出る事は叶わなくても、外の何かが引っ掻きまわす事も無い。
 ここはやさしい牢獄だ。
 あらゆる生き物と情報とが氾濫すればするほど、其処にあるものは姿を変えていく。自分の愛する町さえ数年のうちに深淵を築いたのだから、揺らぎやすく壊れやすい人がどうなるかなど言うまでも無い。とりわけ、夏々子のような小さな動物など、肉を喰らう獣の影に隠れようと、外にいれば忽ち牙がとんでくる。
 日々はめまぐるしく変わる。その中でただ取り残される、自分だけのものが欲しいとふと思った。好んだものをすくいあげて囲いの中に入れ、元いた棲家を絶ってしまえば、否が応でも此処でしか生きられなくなる。
 自分がまさか殺されたなどと夏々子は思っていないだろうが、囲われていることに気付いているのであれば、そのうちそれも悟るだろう。

「ねぇ」
 不意に悪戯心が沸いて、雲雀は夏々子の鼻をつついた。ぱちぱちと瞬きをし、夏々子の目がまるく雲雀を見返している。
「さっきの匂いを当ててごらん」
「さっき?」
「煙草と、酒と」
「お線香。あと、それから──」
 遥か遠くを眺めるように夏々子の目が揺らいでいる。水に流れて今や漂ってもいない残り香を、脳に刻まれた記憶は正しく追うことが出来るのだろうか。
 かつて夏々子が住処としていた家の香り。父と母の香りも、混じっていたのだ。
 あの家にはまだ君の匂いが染みついていたよと口の中で呟いて、雲雀はまた鼻先を夏々子の首筋に埋めた。脈打つ動脈に舌を押しつければ、そのまま血液が口の中に流れ込んでくるようだ。血の繋がりのある家族には骨の一欠けらも晒してやれないのに、女のなにもかもがこの手の中に在る。

 夏々子の喉が微かに震えた。

「……でも、私」
「……」
「すき。恭弥さんの匂いのほうが、すき」
 憂いげに見えたのは、またうつらうつらと舟をこぎ出したからだろう。声は眠たげな色を乗せ、なのに、稚拙なだけの言葉に、こんなにも心が揺れる。

「そう。……もうおやすみ、夏々子」
 囲いの中にいるならば、果たして己も囚われているのだろうか。おもしろくない話だと心の中でぼやき、けれどこのくるおしさを追いやる術は知らず、雲雀は腕の中で目を閉じる女を愛しいと思うほか出来なかった。

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