違和はほんの少し

 この家で聞こえるのは、枝枝へ飛び移る小鳥の鳴き声と、微かなせせらぎばかりだ。ワビとかサビとか、苔むした岩や深い緑を実らせた松の色味に目立つ変化は無い。
 テレビも見ずに日がな一日だらだら過ごしていると季節の変化にもとんと疎くなる。暇つぶしがてら、恭弥さんが着るもので外の陽気を知ろうと注意深く観察してみたこともあったけれど、ウールのコートを引っ張り出した次の日に薄手のジャケットを出しておいてと何食わぬ顔で言うものだから、すぐにやめた。ならば恭弥さんの傍を飛び回る小鳥の、やわらかな羽根の具合で夏毛か冬毛かを見極めようと試みたこともあったけれど、そもそもそれらがどんな塩梅でその時期に変わるかわからなくて、それもすぐに諦めた。
 眠りから覚めてお腹が空き、ものを食べてまた眠りを繰り返し繰り返すうちに昨日が遠ざかりまた今日という一日がはじまり、月日は抗うことなく移ろってゆく。地下施設を彩るまがい物の空は昼と夜を交互に映し出すけれど、ひとりでそれを眺めていると、ひょっとしたら一日の間に三度太陽がのぼっているのではないかと想像に耽り、途端に不安になってくる。

 恭弥さんが此処にいればいいのに。

 与えられた食事をひとりで食べるようになって、いくつ日を跨いだか途中で考えなくなった。
 指折り数えて恭弥さんのいない日を送ってきたものの、二十を越えた辺りで意味は無いと悟り正の字は増えなくなった。結婚してすぐふらりどこかへ行ってしまった恭弥さんに、まるまる一年待たされた時は一日一日きちんと数えていたのだ。
 とはいえ恭弥さんが帰って来たのは本当に予告無くだったし、遅れてきた新婚生活を楽しんでいる間にも三日四日平気で、何も言わぬまま家を空けることは少なくなかった。だから今回のことだって、数日姿が見えなくてもすぐに帰って来るだろうと思っていたのだ。それなのにもう一月も──一年に比べればたかが一月だが──声を聞くことさえ無い。

 一人の時間を持て余すと、もう恭弥さんは帰ってこないのかもしれないと思う事がある。帰ってこなくていい。いっそキッパリと今生会えないのだとすれば、身なりに気を使う事も、痣を作ることもずっと少なくなる。期待も不安も抱かなくていいのなら、どんなに楽だろう。けれどやっぱり、帰ってきて欲しいと願ってもいる。期待と不安を交互に抱き、吊り橋を渡るよう日々を過ごしていると、なぜかまた、一日がはじまっている。
 明日はどんな日になるだろう。
 変化を求めたって今日と変わらないに違いないから、眠るのは好きだ。予期せぬことが安全に頭の中を巡る夢は立派な娯楽で、誰かが傍にいなくても、夢の中なら誰かに会える。
 ──早く帰ってこないと、夢みたいに忘れてしまいますよ。
 恨みごとを薬指になぞり、この夜だってまた、昨日や一昨日の夜と同じように、吊り橋の向こうから彼の人がやってこないかと眠りについた。

 目覚めると影が落ちていた。
「……きょうやさん?」
 揺らいだ空気に迷わず呟けば、重たく霞む視界の先に、最後の記憶よりも少しばかり前髪の伸びた恭弥さんがいた。途端に大きく波打つ私の心などどこ吹く風で静かに表情を留めたまま、恭弥さんは額を前髪に擦りつけるよう、ずいと顔を近づけてきた。
 夢じゃない。
 生温かい空気が、鼻先を撫でる。くすぐったさに身を捩ると、微かに煙草とお酒と、それから香木のようなものが混じり合った臭いがした。嗅ぎ慣れないそれに、膨らみかけた気持ちの一部がぐにゃりとへこんで、つい眉間に皺が寄ってしまった。観察するみたく黙っていた恭弥さんが、静かに口を開く。
「相変わらず不細工な顔をするね」
 事実不細工な顔をしていたとして、久しぶりに聞いた言葉がそれでは良い気がしない。
 むっとして唇を尖らせて起き上がると、恭弥さんもそれにあわせて上体をあげた。白い肌が、薄暗い部屋の中で月のように仄かに浮かんでいる。
「久しぶりに顔を合わせるっていうのに、崩した顔を更に崩すんだ」
 誰がそうさせていると思っているんだろう。
 恭弥さんは、相変わらず綺麗な顔をしていた。少し吊り気味の眉にすっきりとした顎。鼻は少し低くて赤みを帯びているけれど、幼さと涼やかな顔立ちが同居する様が不思議な魅力をたたえている。品性と空腹に殺気立つ獣を入り混ぜた瞳の中に、自分が閉じ込められているのを見るのが好きだった。それを目にすればたちまち、それまで溜めていた愚痴や不満がすっかり胃の中に溶けてしまう。
「久しぶりに顔を合わせるっていうのに、最初に言うことはないんですか」
 不機嫌な顔をつくってはいるものの、内心跳ねまわりたいくらいの喜びに満ちていた。
 恭弥さんだ。恭弥さんがいる。
 動き出しそうな身体を抑えるようぎゅっとシーツを握り締め赤子のように目を逸らさない私を、恭弥さんは眼差しを柔らかくして見詰め返す。そうして唇をほぐして、くすりと笑った。
「ただいま」
「……おかえりなさい、恭弥さん」
 抱きつきたくなるのを堪えて吐き出せば、囁くように寄せられた唇が、そのまま耳の縁や輪郭を擽るようになぞっていく。彼にしては珍しく愛情表現が豊かで、少々面食らってしまう。大概おかえりと返せばそれまでで、第一、寝ている時に帰宅したら文字通り叩き起こされていたのに。

 違和のある臭いと行為そのものに、生娘になった心地でしばし硬直した。そのうちゆるゆると、ほだされるように力が抜けてきた。下に下にと移動していく唇が顎先まで差しかかった時、いくらか冷静になってきてそっと視線を落とすと、嬉しそうに跳ねる眉尻が目に映った。
「…………」
 恭弥さんがおかしいのは今にはじまったことではないけれど、今日は今日で、なんだかおかしい。唇が触れる箇所では時折、断続的に空気を震わせて笑みが零れていた。帰宅早々軽口を叩いたけれど、随分と機嫌がいいみたいだ。
「もしかして、酔ってるんですか?」
 掠めた疑問をそのまま問えば、
「どうだろう。そう思うなら、それでいいよ」
 と返された。
 顎の先に歯があたり、つい首が仰け反る。すると差しだすよう晒された首筋を御馳走だと言わんばかりに噛みつかれた。ぬるりと触れる舌がいやに熱くて、喉から溶けだして心臓が覗いてしまわないかとドキドキしてくる。

 恭弥さんが日本酒だの焼酎だのを空けてちまちま晩酌している様は度々目にするけれど、大抵素面か少し機嫌をよさそうにしているくらいで、泥酔や過度のスキンシップは見た事が無い。この奇行を全て酔いのせいにしてしまうのなら、一体どれほどのアルコールを摂取したのか見当もつかない。
 捨てきれない気恥ずかしさを隠すよう遠く見ていると、密着していた唇がふと離れた。重さと熱からの解放に息を、と、その前に唇を塞がれた。
「夏々子の匂いがする」
 恭弥さんからは恭弥さんの匂いがしません。
 衣服に染み込んだ焦げた臭いは強くなる。唇は苦かったけれど、思う程お酒は香らなかった。酔っているのかと問えば曖昧に答えたくせに、言外にまだ素面だと主張されたようで、けれど行動は酔っ払いそのものだ。正気を保ってしている分、殊更タチが悪い。
 何度か軽いキスを繰り返した後、ちゅ、と言い聞かせるように音を立てて唇が離れた。恭弥さんは悪い大人の顔をして、寝巻の下に掌を滑り込ませて皮膚を撫でた。ぞわぞわと腰を這いあがるような感触に背筋を逸らし堪えるように俯くと、胸板に押し付けるよう、後頭部に残りの手が触れた。恭弥さんの呼吸が伝わってくる。骨ばった指はあやすように髪を撫でていて、気分は高揚しているのだけど、人の家に上がり込んだ時みたく落ち着かない。
「留守の間、変わりなかったかい」
「……ごらんのとおりです」
「少し髪が伸びたように見える」
「恭弥さんも髪は伸びたようですけど……、なんだか」
「なに?」
 息をついて目を閉じる。鼻先をスーツに擦りつけ、久しぶりだからか、懐かしさを漂わす恭弥さんの香りを逃すまいと息をしている間にも、指は飽きる事無く好き勝手身体に触れているし、唇は摘み食いするみたくあちこち食んでいる。

 一月留守にするというのは久しぶりだ。ただ待つ身の私が寂しい思いをしたのは言うまでもない。けれど一月会えなかったからといって、恭弥さんが自らの矜持を傷つけるために、甘えた奇行と寂しさとを結びつけるような行為をするのは変な話だ。こちらが甘えたくなるような色香を出して、出した癖につれなく蹴りのひとつも喰らわせてくることも珍しくないのに、変なものでも食べたか、あるいは何らかの幸運に恵まれたのか。
 窺うようにそっと顔を上げると、愛猫を可愛がるみたく喉を擽られて自然と目が細くなった。落ち着いたと思ったのに、これでは敵わない。再びふわふわと踊りはじめる感情を押し込んで、出来るだけ平静を装いながら口を開ける。
「煙草、吸ったんですね」
「わかるの」
「そりゃ、これだけ苦ければ。……何かあった、んですか」
 問いながら、また「君には関係ない」と突き放されてしまうのがオチじゃないか考えて語尾が沈んだ。
 恭弥さんのこの調子であればそう冷たく返されることはないだろうが、勢いを失くした言葉を追うには力が足りない。逃れるように顔を逸らせば、恭弥さんに染みついた臭いが気になって気になって仕方がなくなる。排他的というか、飼い主が知らぬ臭いを纏わりつかせて帰って来た時の犬の気持ちにでもなったようだ。
 恭弥さんが無断で一月留守にしたのも相まって、再びむくむくと育った拗ねた気持ちを、己の匂いと共になすりつけるようにぐりぐりと頭を押し付けた。恨みがましく子どもみたいに唸っても、不思議と馬鹿にする言葉は返ってこなかった。
「ナポリとモスクワに飛んだ。半月は日本にいたけど、少し慌ただしかったよ」
「……そんなところにまで」
 あちこち出掛けているのは知っていたけれど、一月の間に三カ国を転々としていたのか。驚いたのと、やっぱりなんだか寂しいと思うのとで、溜息が零れた。私ではとても経験が出来ない。
「それと、一周忌」
「え?」
「帰りがけに一周忌に顔を出した。煙草は、その席で勧められてね」
 一周忌だって?それはつまり一年前、恭弥さんの知る誰かが旅立っていたということだ。亡くなってすぐの通夜であればともかく、一周忌なんて、ある程度近しい人でなければ焼香をあげることさえないだろう。
「……そうだったんですか」
 恭弥さんが誰かのために──私は恭弥さんを何だと思っているのか──死を悼むことがあったのかと驚きさえしていて、けれど事が事なだけに俯いて曖昧に相槌を打つ事しか出来なかった。勧められたからと言って、素直に煙草を吸うことも珍しい。やっぱり、親しい人の家だったのだろうか。

 衣擦れの音にそっと窺うと、ネクタイをゆるめはじめる恭弥さんがいた。目が合うと「知らなかったでしょ」と悪戯っぽく言い、その色に故人を悼むような悲しみの色は無くてまた首を傾げてしまう。一年も経てばそんなものかもしれないが、むしろ僅かに口の端が上がっているのだから、余計にどう反応すればいいのかわからなくなる。
 どんな人だったのかとか、どういう関係だったのかとか、どうして亡くなったのだとか、聞きたい事は喉の傍まで込み上げている。それらひとつひとつを丁寧に飲みほしながら黙していると、ネクタイを放り投げた恭弥さんは、視線を受け止めたまま続きを話した。
「変哲のない家庭で育った変哲の無い生き物が一人、死んだ。まだ若いこともあって両親は酷く悲しんでいたけど、子が親より先に死ぬなんて珍しくもない、ありふれた話だ。つまらないことだろう。……それでもね、不思議なことにその人は、僕にとっても代え難かったんだ」
 今度は私の寝具のボタンをひとつふたつ外しにかかってくる。このまま事に及ぶつもりかと腰がひけてくるが、蜜言にはとても適さないような話題も、ひょっとすると──相変わらずそんな素振りさえ見えないけれど──寂しさから来るのだろうかとふと思い至り、拒めなくなる。
 高熱で寝込んだ時のようなものだ。弱れば誰かに甘えたくなるし、登山中に脚が疲れれば木の枝を拾ってくる。人の肌に触れよう触れようとしてくる恭弥さんが、欠けた想いを必死で埋めようとしているとは信じがたいけれど、魚の楽しみも人の心の実のところもわかりはしない。
「事故か、病気で……?」
「さあ。殺されたのかもしれない」
 冗談か本気かはかりかねる台詞を吐いて、恭弥さんの双眸が胸元を凝視している。居た堪れなくなって顔を背けると、窘めるように強くふくらみを掴まれた。指の腹を擦りつけたり爪をたてたり、愛撫と呼ぶには荒く乳飲み子が探るような仕草は、其処に在る事を確かめるようでもあった。
「……あの、寂しいんですか?」
「寂しい?」
 反芻されて知らないうちに言葉が漏れていたことに気が付いた。飾りをつついて小首を傾げる様を、素直に可愛いと言っていいのかわからない。それもわからないし、そこできょとんと問い返す事もわからなかった。いっそ嘲るように問い返してきたほうが、まだ愚問だったと伝わるものだ。

 君は意地が悪いねと何処か楽しげに恭弥さんは笑う。

「ねぇ、喪があけたんだよ。そうすれば後は忘れるばかりさ。人はどうしたって其処に居ない人間を──それこそ欠片のひとつも無ければ、容易く欠けた世界に順応するものだからね」
 恭弥さんの指が絡まる。薬指のピンクゴールドが微かに熱を帯びていく。
「今日はいい日だね、夏々子」
 囀るようなキスを受けながら、自分を真っ直ぐに見つめる双眸を、気恥ずかしさを抑えながら見返す。様々な感情を混じり合わせて複雑な顔をして、与えられるままの私を、ただ満足げに恭弥さんは触れている。遊んでいた指先が悦ばせることに集中しはじめた頃、最早何も考えられなくなって、痺れるような甘い感覚に意識が薄らいでいった。

 また此処で次の朝が来る。

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