集束する恋慕

 なんとか錦というさくらんぼを草壁さんが差し入れてくれた。色艶がよくふっくらとした、宝石のようなさくらんぼだった。さくらといえば恭弥さんは桜に浅からぬ因縁があると耳にしたものの、これ関しては流石に別なようで、普通に食べる。主人が居ない間に差し入れのさくらんぼをぱくぱくと口に放り込んでいたら、帰宅し残骸を見た恭弥さんにすう、と冷たく目を細められた。外でおいしいもの食ってるんだから少しくらい……言いたいところであるが、ろくに主婦をしていない私が口うるさく言えるわけがないのが悲しい。

 閑話休題。

 さくらんぼの登場によってああそうか六月かとようやく気づき、未だ舌の上に残る種と仄かな後ろめたさを味わいながら、ふいに学生時代馬鹿騒ぎをしていた友人らのことを思い出した。あれはいつだったろう。恭弥さんと過ごす少し前、皆のまとめ役だった子が結婚したという話を人づてに聞いた。赤ん坊が腹にいたというのだから、やれ選曲だの費用だのと、ただでさえ揉めて喧嘩が勃発するという式の準備が殊更大変だったのだろうなぁという感想を抱いた。
 女にうまれたからには、一度でいいからウエディングドレスを着てみたい。
 結婚に関心はなくとも、ドレスを着たいがために式を挙げるという人すらいるのだから、ウエディングドレスというのは乙女の永遠の夢だ。無論私もあの清らかな衣装を着てみたいという気持ちは人並みにある。あった、ではなく、ある。世間一般のプロポーズや新婚生活と比べて「これでいいのか」感漂う夫婦選手権日本代表と言っても過言はないのだから、当然といえば当然ながら式を挙げていない。式のしの字を発することなく恭弥さんがどこぞに行ってしまったのだから今更感は凄まじいものだが、ウエディングドレスを着るという夢は褪せることなく未だ胸の中にあり、実を言うと人並み以上にあるかもしれない。

 そのような事をもんもんと考えながら種を転がしていると、手元の冊子をぱらぱらと捲っていた恭弥さんがちょっとだけ視線を寄こして、眉を潜めた。はしたないと言いたいか、言いたいことがあるのなら言えと言っているのであろう。
 どうしようかなと少し思案し、数度瞬きをし、息を整えた。色良い返事を期待出来そうに無いからこれまで口にしなかったものの、ジューンブライドだし、と心の中で前置いて種を吐きだす。
「……結婚式って、いつ挙げるんですか?」
 きょとん、と少し油断した表情を恭弥さんが浮かべた。それからふっと軽く溜息を吐いて、視線は再び冊子に目を落ちる。もう嫌な予感しかしない。
「群れるのは嫌いだ」
「言うと思いましたけど……!」
 だから言いにくかったのだと言外に訴えたところで恭弥さんは知らんふりして冊子を捲る。骨ばった指に在る鈍い色をした金属はごつくて、とてもじゃないけど結婚指輪に見えない。事実それでなく、私は恭弥さんが夫婦の証をつけているところを見たことが無い。
「……せめて結婚指輪くらい、して欲しいなって」
 口を尖らせ窺うようにお願いすれば、
「指輪は仕事でも使うから、邪魔になる言わなかったっけ」
 と目も合わさずさらりと返された。
 なんだと。
 むっと口を噤み黙って不満を訴えたところで恭弥さんはやっぱりこちらに一瞥もくれない。溜息を禁じ得ず、己の左手にぽつりと居る指輪に視線を落とした。
 ピンクダイアモンドが女性らしい、これを恭弥さんが選んだのかと思うと少し笑ってしまうような指輪。サイズは、ぴったり。肌身離さずつけているからか、表面には少し傷がある。引き出しの奥に眠り続けているであろう片割れは、それこそ購入当初の輝きをそのままに保っているのだろう。恭弥さんは悪びれた様子も負い目も何一つ感じさせないままさらりと返すから、子どもみたいに私だけが駄々をこねている気がして、じんわりと虚しさを覚えてしまう。
 恭弥さんはずるい。指輪を仕事で使うということの意味を聞けば「馬鹿にはわからない」と一蹴し会話すら成り立たせてくれない。私は恭弥さんの妻なのに知らないことばっかりだ。仕事に守秘義務というやつがあるのかもしれないけど、指輪すらつけてくれないのは信頼されていないような気がしてくる。
 ずるい。
 じとっ、と身を乗り出せば届く位置にある端正な顔を見詰める。気づかぬはずがないのに知らんふりして、少し伸びはじめた髪を耳に掛ける仕草についつい息が詰まる。油断すると魅入ってしまうのに、その指に妻帯の証が無ければ誰が近づいて来るかわからないじゃないか。自覚して欲しいものだ。そんでもって、切れ長の目は相変わらずこちらを流し見ることすら放棄している。
「……。もういいです」
 何やら無性にやるせない気持ちになって机に突っ伏した。返事はない。独り言として処理されたようだ。恭弥さんのばかやろう。

*

 ……そろそろ、臥した首が痛くなってきた。ふてくされてからどれほど時間が経ったかわからないが、十分にも満たないだろう。私の意地はわりかし弱い。恭弥さんに関しては諦めが勝る。そろりと顔をあげた先に恭弥さんの姿は無かった。投げ出された冊子にはよくわからない言語が並んでいる。恭弥さんがお仕事の類と思われる書類を無造作に投げ出しておくのは珍しいことで、興味を惹かれる半面、眺めていると途端にかなしいような心細いような、不安な心持になって、振り払うように目を逸らした。
「……やっぱり、やだなぁ」
 どろどろに煮詰めた不安をひとすくいして零れた言葉は、酷く漠然とした正体のまま、心をますます沈めていく。
 なにが「やだなぁ」なのか。なんだっていやだ。読めない言語も、ドレスが着れないことも、恭弥さんが指輪をしてくれないことも、いつだって秘密めいた言葉であしらわれることも、それを承知である自分も、何を思ったところでこの世界が動くわけがないのに考え込む自分も、けれど恭弥さんとの関係が崩れることを畏れる自分も。
 そういったことを少しずつ少しずつ混ぜて、中途半端に心が揺らいでいる。生理か。生理前なのか。早くこの気持ちがどこかに行ってくれないものかと長く息を吐いてさくらんぼの残骸を眺めていると、ふいに静かな足音が近づいてきた。
 恭弥さんが戻って来たのか。
 と思えば、視界が何か大きなものに覆われた。
「ぶ、はっ!?」
「今更式をあげようなんて思わないけど」
 重くやわらかいもので覆われた先から、どこまでも己のペースを貫く声が聞こえてくる。
 もがきながらどうにか出口を見つけ這い出すと、一瞬、息が詰まりそうになる程の距離でじいとこちらを見詰める恭弥さんと手元の──果てない雪原を落としこめばこの色になるであろう、たおやかに冷たい白があった。なんだこれは。よく見ればそれはただの布地ではなく、ひとつの形を保っている。たっぷりとしたそれを広げるのは難しく、けれど見当はついた。そんなばかな。
「これ……」
「別に、花嫁姿が見たくないわけじゃない」
 ドレスだ。ウエディングドレス。恭弥さんの台詞に確信に変わる。
 夢にまで見たものが諦めた途端、それこそ文字通り手に入るというのはなんとも──。
「……」
 ……なんとも、得体のしれない感情が滲む。つい先ほどまでふてっていただけに、こんな時どんな顔をしていいのか。喜びに弾んだ胸と暗い井戸を覗きこんだような感覚をごったにした目で恭弥さんを見つめると、「貰った」と短く唇が動いた。
「もら、……も、貰った?え?」
「貰った」
 恭弥さんは事もなげに言う。一体どういうシチュエーションでウエディングドレスを貰うという選択が出るのか。よからぬ不安に疑惑の目を向けるも、恭弥さんは表情を変えぬまま続ける。
「これははじめから、君が着るためのものだから」
「はじめから……私が?」
「そう。日がな一日寝ている君にサイズがあうとは思えないけど」
「うぐっ」
 言いたいことはたくさんあった。けれどそれこそ図星をつかれて声を封じられてしまうと、それらはぴゃっと奥へ奥へと身を潜めてしまう。そうやってもごもごと口ごもりながら弁解の言葉を探している間に、放り出されたドレスは容赦なく肩にあてられ、更にパニックに陥った。サイズが、という台詞が反響しびくりと身構えてしまったのは仕方がない話だ。焦がれに焦がれたウエディングドレスが最早今は強制用コルセットにしか見えなくなったことを誰が責められようか。
 照れというよりもただただ恥ずかしくなって視線を泳がせていると、朴念仁面でドレスをあてていた恭弥さんが、やわらかく双眸を細めた。
「きれいだね」
「……。ドレスが、でしょう」
「よくわかってるじゃない」
 恭弥さんが笑う。一応は褒められただろうに己の眉尻は下がる。恭弥さんが見定めるように、頬にそろりと指を滑らせる。
「きちんと化粧をすれば、見れるようにはなる。安心しなよ」
「……」
 甘さよりも苦さが残る台詞だというのに、今度こそ照れを含んだ恥ずかしさが滲んでしまった。整った顔立ちの人間は何を言っても許されるというが、今の恭弥さんはまさにそれだ。こうしたことを繰り返し繰り返し自分はよく躾けられていったのだろうと、ひしひし胸が痛くなって、とりあえず目を合わすのをやめようと視線を彷徨わせもじもじと指先をいじった。
 指輪とは、さしずめドッグタグだろうか。名と時に連絡先を彫ってどこそこの誰の犬ですよと示すもの。飼い主は揃いのキーホルダーやらを作ることもあるけれど、犬のように肌身離さずつけるでもない。
「私が」
 それならば。
「私が指輪をしなくなったら……」
 恭弥さんはどう思うだろう。どうするのだろう。想像を働かせながらもやもやと考えながら呟いた。やはりいい気はしないだろうか。せっかく与えたのに何様のつもりだと憤るか、それとも自分が平気でするように無関心でいるのか。
「式も指輪も、人に知らしめるためのものだろう」
 ただし客観的な枠で見て、恭弥さんの感情は歪んでいる。
「……ええと、はい。そういう意味合いも、ありますよね……たぶん」
「君は指輪をつけることで、君が誰のものであるか僕に知らしめている」
「まぁ、……うん?」
「僕が指輪をしてもしなくても、君の置かれている状況が変わることはない」
「……」
「わかるかい?」
 まともな相槌さえ打てずにいたけれど、問われても次の言葉が見つからない。たいした事を聞くつもりではなかったとはいえ、こうくるとは予想だにしなかった。自然と眉根は寄り、喉の奥から低く唸り声が漏れる。ウエディングドレスを挟んで横たわる妙な沈黙の中で、恭弥さんがゆっくりと瞬きをした。ひらり純白の裾が翻り、身体にあてられていたドレスが淡く、どこか無性に懐かしいような香りを残して遠ざかる。
「じゃあこれ、着るのはしかるべき時にね」
「着て、いいんですか?」
「君が着るためのものだって言ったでしょ。だから化粧して、ちゃんと着せてあげる。君が死んだ後で」
 幻聴が聞こえた気がする。
「……死んだ後?」
「そうだよ」
「しんだあと……」
 ウエディングドレスが死に装束など、どこのサイコ映画だ。至極当然のように言葉を返す様子に、背筋を嫌な汗が流れたような錯覚を覚えた。うんともすんとも言えぬ硬い表情のまま、改めて恭弥さんは雲雀恭弥という生き物なんだなと唾を呑む。
「すぐにとは言わない」
 薄い唇が宥めるような、まったく慰めにならない台詞を吐く。恭弥さんは低く喉の奥で笑い、そうして今度は、こくりと隆起した私の喉をそうっと指先で触れた。そのまま首筋を撫でられて思わず逃げるように身をよじれば、ぐい、といとも容易く引き寄せられてしまった。逞しい身体に触れ嗅ぎ慣れた洗剤の香りがシャツの襟から漂ってくると、拒もうとしていた身体の力が急激に抜けていく。
「君は」
「……はい」
「君は、僕の目の前で死ねばいい」
 言われなくてもそうなるだろうと、ぼんやりと死の瞬間を考える。直接的に手を下されなくとも、恭弥さんの腕、あるいはこの箱の中で生涯を閉じると知っている。これはまるで呪詛だ。けれどそこに不幸を感じず、あるとすれば死というイベントに対する微かな憂鬱だけというのがなんとも言い難い。
 こんなどうしようもないことを言う人に焦がれてしまうだなんて、自分はなんて可愛そうな子なのだろう。
 改めてそんなことを思いながら、そうっと背に腕をまわした。心臓の音が聞こえる。まわした先で左手の薬指に右手が微かに触れる。勢いに任せればいつでも外すことが出来るのに、それはいつだってそこに在る。
 ──私が指輪をしなくなったら。
 そもそもの話として、嬉々としてつけたドッグタグを外そうと試みる犬がどこにいよう。外してしまえば、それこそ飼い犬と野良犬の境界線が交わり誰が妻かわからなくなるのに、愚問だった。
 恭弥さんはずるいなぁ。
 自分ばかりいつでもおいしいものを食べることが出来て、好きなところにふらりと出掛けられて、何にも縛られなくて。ずるい。けれど、私の縄が断ち切れれ放り出されても、どうしていいかわからぬまま恭弥さんの姿を探すのは目に見えている。
「……さいてい」
「そう」
「どうしてこんな」
「さあ。どうしてだろうね」
 まわす腕に力をこめる。後頭部をゆっくりと、あやすように撫でる手はやさしい。恭弥さんがどんな顔をしているのか見えないけれど、笑みを浮かべているのだろう。うたうような口ぶりに最低、と心の奥でもう一度呟いて、複雑な顔で歯を噛み口元がゆるむのを必死で抑え込む自分もまた、どうしてこんな馬鹿な女になってしまったのだろう、と笑いたくなった。

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