覆い隠されるべき

 いつもよりずっと遅い時間に恭弥さんは帰ってきた。昼は昼で惰眠を貪っていたというのに私は寝てしまっていて、ふと目を覚ました時に傍にかけてあった、背広を見て帰宅を知り得た。
 寝ぼけまなこでなんとはなしにじぃとそれを眺め、よくよく眺めているうちに、なんだかそれが傾いているような気がして腰を上げた。夫の背広を正すなんて、なんだか妻っぽい。などと考えながら手を掛けると、ふわりと花の香りが鼻を擽った。
 おやっとしばし手をとめ、背広に鼻を近づける。芳香は鮮やかさを増す。おやおやと疑念が首を擡げ、頭の中では一生懸命に否定しているというのに手はとまらない。右ポケット──何もなし。左ポケット──何か、指先を掠めた。祈るように摘み上げ、引き出したソレは写真で──どこかのパーティー会場のようだ。華やかな賑わいが物言わぬ写真からでもひしひしと伝わってくる。掌ほどの面積に映る多くは、洒落たスーツを纏った外国人。よく見れば彼らは一点を見つめているようだった。写真の、右端のほう。光沢感のある黒のドレスで着飾った女性──うつくしい人だった。長い黒髪の、おそらくは日本人。グラスを片手に憂いのある面差しで目を伏せ、安易に触れられぬ気高さを漂わせている。恭弥さんにどこか似た気高さ。
「……」
 負けた。完膚なきまでに叩き潰されたと同時に我点がいった。
 聞いたことがある。人は自分と似ている人に親近感を抱き、一目惚れに繋がるのだと。浮気心とは誰にでもある小さな心の葛藤で、あれでも人であるのだから恭弥さんとて例外ではない。
 恭弥さんはこの人に恋をしてしまったのだ。
 逢って、話をしたのかもしれない。こんなに遅くに帰って来たのだから、あるいは。
「何してんの」
 そう広くない寝室に低い声が響いた。
「……恭弥さん」
 跳ね上がった心臓を握り締めるように拳を握り、振り返ると風呂上がりと思わしき恭弥さんがいた。恭弥さんは少しだけ眉根を寄せ、訝しむようにこちらを見ている。そしてふと眉間の皺を深くすると、足早に近づき指に挟んでいた写真を奪い取った。視認してぐしゃりと握り潰すまでの時間は僅かで、どことなく焦ったようなその様子に驚きを感じると共に不安がどろりと色濃くなり目を伏せた。
「……見たの?」
 引き戻される。鋭さを増した双眸は強く強く私を見つめ、その声は怒りを押し殺すように微かに震えていた。
 途端に、悲しくなってくる。情けない惨めさと燻る怒りと諦めが綯い交ぜになって、自分でもびっくりするくらい簡単に、涙がころりと頬を滑り落ちた。
 夏々子、と恭弥さんが名を呼ぶ。恭弥さんは恭弥さんでびっくりしたような声色だった。
 つんと鼻の奥が痛くなって、視界はガラスを陽に透かしたみたくきらきらと瞬きぼやけている。
 喉がつっかえている感じが途切れたのを見計らい、息を吸って一気に叫んだ。
「実家に帰らせていただきます……!」

 勢いに任せてのしのしと部屋を飛び出した時も、恭弥さんの声は追いかけてきた。しかし耳を塞ぎ一切聞こえない振りを演じ続けた。
 いやだもう何も聞きたくない。言い訳なんて御免だ。勘付かれただけであんなに怒りをあらわにするんだったら、もっとバレないようにして欲しい。浮気をされるなんて嫌だ。だけど絶世の美女でもあるまいし、私ごときが恭弥さんをずっと引き留めていられるとは思ってない。だからやさしい嘘を吐いて。内心で嘲笑ってくれていい。へらへら馬鹿みたいに笑っていられるように、浮気をするなら、どうか気づかれないようにして欲しかった。
 暗く冷たい廊下をずうっと足早に歩いて、いくつか角を曲がると地上に通じる扉がある。
 この辺りはずっと、長いこと通ってすらいない。恭弥さんはいつも通る場所。この扉の先で恭弥さんがどんな女といちゃついていようが何してようが、私には知る由も無い。
 重苦しい扉を呪うように睨みあげ、手を掛けようとしてふと気がついた。
(……開かない……)
 そうだった。
 精密機器を壊されたらたまらない、とかなんとか言われて、あいでぃーだのじょうみゃくなんたらだののハイテク技術を駆使しなければ通れないこの扉を、私は開けることを許されていない。
 見るからに複雑そうな端末を前にどうこうする能力があるわけもなく、仮に他の道があったとして同じようなものだろう。完全に手詰まりだった。
「手だても無いのに、どうやって出ていくつもり?」
 出て行く気があったとして、出ていけないことを恭弥さんはわかっている。
 ゆっくりと追って来た足音は静かに止み、いっそ馬鹿にしたような台詞を吐いてそこで待っていた。
 実際、馬鹿なことはわかっている。けれど振り向いて馬鹿に泣き顔が加わった面を見せたいとは思わず、駄々をこねる子どものように開かぬ扉をじっと見詰めて息を殺した。いっそ消えてしまえればいいのに。
「……いくら睨んでたってこの扉は開かないよ」
「……」
「さっさと部屋に戻って」
「……」
「……夏々子」
 呟かれた声、溜息を孕んで少し擦れていた。言う事を聞かぬ子どもに手を焼くような親のそれに、いやいやと首を振ってまた泣き出しそうになった。
 ここでおとなしく部屋に戻れば、恭弥さんは全て有耶無耶にしてなかったことにしてしまうという寸法だろうか。心にしこりは残るけれど、それは或る意味で平和的な解決方法だ。
 でも、見てしまった。写真を見てしまった私を恭弥さんは見てしまって、見たのか否かと問われたら私は逃げ出してしまった。気のせいで済ませることはもう出来ず、元には戻れない。戻れなくとも、問い詰める勇気はなかった。此処で思うがままに口を動かせば築いた関係さえ全て消えてしまうような気がして恐ろしいのだ。こんな状態で、私はまだ恭弥さんに縋っている。
「……あの写真」
 重たげに吐かれた単語に肩が跳ねる。
「君が気にしているであろう人間は、いない」
 続く言葉に息をのみ、少しばかり思考が停止した。
 いない。
 いないって?
 いないわけがない。現に写真に写っていたのだから。
「……女の人のことですよ?」
「僕もそれについて言っている」
 どんな顔をして言っているのか。
 ためらいながら振り返り見た先の表情は苦虫を潰したようで、あれほど渦巻いていた重苦しい念がひゅんと身を潜めて引っ込んだ。けれど、聞いてはいけないことに足を踏み入れることになるのかと戸惑って、いくらか言葉を濁しながら先を促す。
「いないって、その……」
「…………。仕事で。君が考えてるようなことはない。勘ぐったって意味も無い」
 仕事。恭弥さんの仕事が普通の人のそれでなく、裏も表も真っ黒いようなことは知っている。ただ、どこで何をして来ただとか何をどうするかだとか、生々しい話を恭弥さんはしない。無知は罪というけれど軽々しく聞ける話ではなく、そもそも聞いたところで理解出来ると思っていない。
 ただ、察することは出来る。悼みと安堵と薄情な気持が複雑に絡み合って胸の中に落ち、心弛び言葉が漏れた。
「……離婚とか言わないですよね?」
「誰もそんなこと言ってないんだけど」
「……言わないですよね? 絶対ですよね?」
「……ああ」
「本当に、本当ですよね?」
「くどい」
 出し抜けに手がとんできた。反射的にひゃっと目を閉じ肩を縮こまらせる。しかし待てども待てども来ると予感した痛みは五体を襲わず、ただ緩やかな衝撃だけが頭部を撫でていた。
「……戻って、夏々子」
 聞かされた言葉だというのに、何故だろう、懇願に似た切ない響きが耳に残るのは。
 自分よりもずっと大きな手が何度も何度も髪を撫でている。そうしてそうっと頬を掠め、涙の伝い落ちた後を辿るように静かに静かに指先が追っている。


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