食らいつくような静寂

 くつくつと煮える鍋の音だけが、時が流れているのを感じさせる。
 そう思わせるほどに、恭弥さんは鍋の蓋を開けたまま眉ひとつぴくりとも動かさなかった。そうであるから私は私で声を掛けるのをためらって何も言えず、おろおろと気持ちを揺らめかせてばかりいた。
 あわや吹きこぼれる、その頃になってようやく恭弥さんが息をしはじめた。蓋をし、火を止めると静かに私に目をやって、何故空は青いのかと問ういとけない子どものように、悪意のひとつもなく呟いた。
「残飯?」
 たまには私もと思って珍しく台所に立ったらこれだ。ひどいと思った。
 だからあてつけるように閉められたばかりの蓋を開けた。
「ビーフシチューです」
「腐った墨汁だ」
 二度目には確信を深めたと言うみたく、疑問符すらついていない。そもそも食料品であることを否定された。
 あなたのために一生懸命つくったのになんてこと言うの、と撤回を要求する私と甘んじて受け入れろと囁く私がせめぎあっている。
 そう、わかっている。己でもほんのりと、ちょびっとは、わたしの知ってるビーフシチューじゃないと気づいているのだ。だけど腐った墨汁だなんてあんまりじゃないか。
 ほんの少しの抵抗を胸にやるかたなく睨みつけると、恭弥さんもまたじっと見返してきた。いい加減見慣れてきたとはいえ、美人の眼力というのはほとほと心臓に悪い。自分から睨みつけたくせに早々に気持ちが挫けて目を逸らすと、追い打ちをかけるように強い語調が降って来た。
「何もするな。君にはそう言い聞かせていたよね」
 言い聞かされていた。何度も何度も言い聞かされていた。掃除洗濯をやる人間は他にいるし働かないからといって食えなくなるほど薄給であるわけもない。特に、才能がないのだから料理だけはするなときつくきつく言われていた。
 才能がないことは、自分でも承知していた。でも、ふと、料理本をぱらぱらとめくっていてもしかして今日はうまくいくかも、と思ったのだ。
 それに、なによりもこの立場が、料理せずにはいられないと私を突き動かしてやまない。
「……私も妻という立場上、夫に料理を作ってあげたいという欲求がありまして……」
「あげたい、ね。押しつけがましくて本当に自分本位な欲求だ」
「うっ」
「君の料理を食べるぐらいなら霞でも食べてるほうがマシだよ」
 男は胃袋で掴めというがこのままでは夫が仙人になってしまう。いくら恭弥さんが人と群れるのを嫌う浮世離れした人でも、仙境で結婚生活を送るのは御免だ。私だけ谷底に落ちて死にそうな気がする。その後は鳥葬だろう。
 ビーフシチュー腐った墨汁風に蓋をしてついでにうなだれた。
 これが本当の臭い物に蓋をする、だなんて全然おもしろくないないよ馬鹿かなどと考えていると、ふと肩に手が乗った。少し顔をあげると、真面目そうな顔をしている恭弥さんがいた。
「頑張って自分でやろうとして失敗して人に迷惑をかけるより、不得手はうまく任せておいたほうがずっと周囲は気分よくいられる。……君の好きそうな言葉だろう?」
「恭弥さん……」
「次に作ったら台所撤去するから」
「そこまで!?」
 うまいこと言ってフォローされているようでやっぱりされていない。あくまでも恭弥さんは私の料理がまずいと断言し、そして実際のところそれが現実だった。
「……私、愛妻料理って夢だったんです」
「短所よりも長所を伸ばしたほうがずっと簡単じゃないの」
「それはそうでしょうけど、私の長所ってなんだと思います?」
「……」
「……」
「僕は先に汗を流してくるから、哲を呼んでおくように」
 その後、草壁さんが作り直したビーフシチューはちょっぴり涙の味がした。

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