敬意を示すための最低条件

 ──もみじのようなかわいい手。焼いて食べたらおいしかろう。
 明治時代、紅葉谷を訪れた伊藤博文公が、茶屋の娘の手を見てこのようなことをおっしゃったものだから、広島名物もみじまんじゅうが生まれたとかそういうわけでもないとか。食べるにせよ食べないにせよ、小さな子の手のひらというのはとかく可愛い。手のひらに限らず、小さい子、特に五歳児ほどの子の邪気のない笑顔に癒しを感じるものは少なくないはずで、そんなことを思っていた時期もありましたと今は言わざるをえry

 美しい緑。池に飛来した鴨は大小の睡蓮の中をすいすいと泳ぐ。その畔では燃ゆる朱をした松本仙翁が可憐な花を咲かせ、少し目線をあげると、桃色の百日紅がたわわに実るよう、眩しいほどの青に咲き誇っている。八月になれば、きっと睡蓮花が花開く。九月にはやまぼうしの実が橙色に色づき、次第に寒牡丹が顔を見せる季節となるのだろう。
 日常にない悠然とした佇まいに満ちる庭園は、日々の忙しさに忙殺された心と向き合うために用意されたものなのだろうか。並盛の町に長いこと君臨し続ける一族にはあってしかるべきで、ええなにも文句はありませんとも、ええ。なんの因果か、高い塀の中に隠されたこの庭園に、今ここにいるということは誇らしいことでしょう、ええ。それも、御子息のおおきな友人? 部下として? ……いやいや、なんとも。
 昨日のことも忘れてけたたましく鳴るインターフォンによっこらせと起き上がって、のたのたと応答した時よりも以前、ずっと前、私があの童子に声を掛けてしまった時からこの運命は決まっていたのだろうかと、少し考える。ドアの隙間の先にいたのは、いかにもカタギではありませんよと宣言したげな黒服の男で、それからはあれよあれよという間に同じく黒塗りの車に押し込まれて、今はなにやら厳格な屋敷が建つ敷地の中。寝起きでうまく働かない上に混乱した頭で、いい大人に「ではこれからよろしくお願いします」と深々頭を下げられたって、まるで夢のようだが、夢のようだわとくるくるまわってうっとり目を細めることはどうにも出来ない。

「いいかい、おおきいいきもの」
 私の自称上司。自分の家(というか屋敷)の中だからか、今までで一番そっくり返っているように見えるのは、いくらか私がこの空気に委縮していることもあるのだろうか。お呼びのようだからとずるずる腰を落として目線をあわせてやると、これは重要事なのだと言い聞かせるように告げられた。
「ぼくは、まいあさしちじにおきるからね」
「……早起きさんだね」
 それがどうしたと思いつつなるべく好意的に返すも、童子は至って真剣そうに続ける。
「おおきいいきものは、もっとはやくおきなきゃダメなんだよ」
「はい?」
「ぼくのぶかで、じょちゅーなら、あるじさまよりはやくにおきるものだよ」
「じょちゅー……女中?」
「ちゃんとおこしにくるんだよ」
「は?」
「おおきいいきものは、ぼくのじょちゅーだって、いえのにんげんがいってた」
「……」
「じょちゅーというのは、かてーやりょかんにすみこんではたらくオンナのことをいうんだよ」
「あー、住み込みはちょっと……」
 大人たちの間ではそういう話になっていたのか。この子息の様子を見ていれば厄介事を押しつけられたような気がしてならないが、並盛に住む以上雲雀の家の頼みを断るなど愚者のすることであるというのは、言わずもがなのこと。かといって関係を持つのもどうかという話だが、なるべく穏便にと望むであろう父母の反応が容易に想像出来る。せめて夏休みの間、子守りをして賃金がいただけるのなら利害は一致するだろうか。
(まあ、適当にごっこ遊びに付き合ってやると思えばそれで……)
 これが雲雀の家ではなく、従兄弟や近所のクソガキその1であったらどれだけ楽なことか。
「まあとにかく、よろしくね恭弥く」
 ぺしっ。そんな擬音が耳に届き、ややあってから差しだした手のひらがじんじんと痛んだ。何が起きたのかよくわからない頭のまま数度ぱちぱちと瞬き、今まさに握手をせんと差しだした先の、童子を見ればフテった顔をして口を尖らせている。
「じょちゅーはそんなふうによばない」
「は」
「くんづけなんてなれなれしい。みのほどをしれよ」
 口から出掛けた言葉は飲み込んで、私は大人にならなければならない。小さな溜息だけは零してしまったものの、どうにか無理やり笑みをつくった。
「よろしくおねがいします、恭弥さん」
「ん」
「……はは」
「おおきいいきもののわらいがおは、きもちわるいな」
 マア、キョウヤサンッタラアンナコトヲイッテ。
 握った童子の手は紅葉のように小さくて確かに愛らしい。このままパリパリと握りつぶしたらどうなってしまうのかと少しばかり考えてしまうわけで。


(110228)

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