身の丈の幸福

 友人の結婚式に出席した。とても素敵な式だった。
 ユキヤナギを散らしたような繊細な刺繍が入った真白なドレスはもちろんのこと。華やかな和装もよく似合っていたし、アガパンサスの淡いブルーを溶かしこんだようなカラードレスは細身の彼女には瀟洒で可憐に見えた。一番最後は私服だったのだろうか。一転して、70年代のアメリカンカジュアルを装ったなんてことはない格好も、場が場なだけに華やかなコレクション会場の催しのように目に映った。
 連れ添う二人から幸福が零れ落ちる気配など微塵も感じられない。花嫁の腹には、新しい命が宿ってもいた。
 けっこん、結婚かぁ。
 口の中で繰り返し紡ぐその言葉は、あたたかな幸福の味を孕んでいる。

 高校卒業後に即就職したかつてのクラスメイト達が、結婚して妻になったという報告をちらほらと聞くようになった。結婚などまだ先の先の話だとぼんやり過ごしていたというのに、いざ交流の深かった友人が結婚したとなると焦燥や羨みを生じさせてしまうのは何故だろう。
 世の中が急速に動いてゆく。
 その世の中というのはそもそも私の半径数メートル以内という至極小さな世間だが、価値観を形成するには充分な広さだった。
 元々、友人と呼べる輩が多くいるわけではない。少なからずいた友人らが遊んでいるうちに私がしたことと言えば、小さい子どもの御守だった。
 朝起きて学校へ行き、問題の子どもの家で相手をし、帰宅してまた朝が来る。そのようなサイクルを毎日毎日毎日毎日続けた結果がこれである。果たして自分が結婚する時に招待できる友人が両手ほどいるのだろうかと思い悩むレベルである。
 異性との関係については言うまでもない。
 二十歳を過ぎて未だ彼氏無し。大学時代にそれとなくいい雰囲気になった異性はいたものの、いまいち踏み込めず連絡をとらなくなってしまった。確か、その彼は誰もが羨む大企業に就職したのだったか。逃がした魚は大きかったかと過去に燻りを感じまたしょうもない気分になる。

 現実の厳しさに頭垂れた。
 あまりの恋愛運の無さに、ネット上の結婚相談所に登録したこともあった。反応は思いのほか色良かった。これほど世間には結婚相手に飢えている男がいるのかと目を瞬かせながら届いたメールを読み進めていたらいつの間にか部屋に侵入していた主にコンセントごとパソコンの電源をぶち切れられた。バツつきでもないのに、「私と付き合えばもれなく中学生のコブがついてきますよ!」とプロフィール欄を早急に書き変えねばならぬと冷静に思った。無論、書きかえる手間もかけるわけもなくそのまま退会したのは言うまでも無い。
「おおきいいきものとは昔、契約を結んだはずだよ」
 と主は抗議の言葉も待たずにむっつりとした顔で言う。
 ぶかだのじょちゅーだの、所詮子どもの言うことだと、泣く子も黙る雲雀の家というブランドを念頭におきつつも、遊び半分で聞きいれたが最後。あとは一気に転がる地獄坂。
 ……いやしかし、子どもの相手をすることで雲雀の家から本当に対価が支払われたのは心苦しくも有り難かった。流石にいつまでもそれを貰おうとは思わなかったが。
「おおきいいきものは、結婚したいの?」
「それは、まあ」
「どうして結婚したいの? 結婚して何がしたいの」
「……子ども育てたり?」
「それに必要なのは遺伝子であって、結婚までする必要無いだろう」
「いやいや、母一人で子どもを育てるのって大変じゃないですかましてや安月給ですよ私」
「君は金と結婚したいのか」
「……お金は愛情表現してくれませんよ」
「愛情表現も欲しいの? さっき言わなかったじゃない」
「好きな人と結婚すればついてくるものでしょう普通は」
 主は、未開の言語でも耳にしているかのように怪訝そうな顔をして首を傾げた。
「例えば三十で結婚したとする」
「はい」
「健康で過ごせば後の五十年間は相手と連れ添うことになる。五十年、五十年だ。三十よりも明らかに長いそれのほうに、相対的に見て良いと思う相手が現れる可能性は少なくない。そういった可能性をすべて捨ててするのがケッコン。おおきいいきものの場合、きっと出会ってせいぜい数年の男と結婚するんじゃないの、その調子じゃ。五十年連れ添える? 男を選ぶほど目が肥えてない、人間関係の希薄な君が?」
「……」
「まあ、見合い結婚なんてものもあるしね。別にやっていけないこともないだろう。ただ理想と現実の差に挫くことは間違いない。おおきいいきものは夢を見過ぎ」
 主は一息にそう言って、ノリで買って広げっぱなしにしていたゼクシィをぱたんと閉じた。
 周囲が色恋に夢中だった時期に色々とすっとばして子育て(というかただ相手をしていただけか)をしていた私が、男を吟味出来るはずはない。私は素直に得心した。

 後に考えると、納得してしまった背景には刷り込みがあったのだろう。
 私の世界。ここ何年か、半径数メートルには必ず主がいた。子どもながらに主は王者で、その影響力は計り知れない。しかも私は主の従順な部下であり付き従う女中であった。スペキュラトゥールに分類されるわけもない。
 それになろうという向上心すら浮かばないのは、身近にいい思索家がいるからだろうか。
 ──彼の人に使われ、ついていけば問題ない。
 道が暗く一歩先の足元すらおぼつかなくても、前を歩き手をひくその人が道を知りずんずん歩いてくれるから大丈夫だという安心感。仮に障害があったとしても、その人が顔色を変えず排除してくれる。絶対的な存在。
 そういう人に、私は既に巡り合えているのだ。
 子どものことはともかく、結婚に安心感を求めてするのであれば私にその必要はない。ぬるま湯に浸かるマンネリ感を憂うことだってない。主はまだ十といくつかを数えただけなのに強烈な生き方をしているのだから。

「……おかえり」
「あ、ただ今戻りました」
 主はまるで当たり前のように、おかえりと言う。もはや疑問を持たぬまま私もそれに返す。
 とりあえず顔を見せにいかないとな、と長年の習慣となった自然な足取りで向かった主の家。探し出す前に、庭先で夕涼みをしている着流しの主に声を掛けられた。友人の式に出席すると伝えてあったものの、フォーマルドレスにボレロを引っかけた姿は見慣れぬとばかりにじろじろと視線が上から下へ彷徨った。
「馬子にも衣装」
「……ありがとうございます」
 似合っている、そう思ったに違いない。ポジティブ解釈で受け流し隣に失礼し、大仰な溜息が出た。歩きなれない洒落たヒールはくたびれてしまう。外気に晒された木の冷たさが心地よい。日が長くなってきたとはいえ、鬱蒼と樹木の茂る縁側は薄暗かった。主は視線を戻し、庭先の暗いほうを見やる。
「どうだったの、式」
「素敵でしたよ。やっぱり見てると、結婚っていいなって思いますけど」
 式はともかくいくらか気楽な雰囲気に変わる披露宴となると、合コン会場に似た雰囲気が出るのは否めない。言えば、潔癖そうな主は眉根を寄せた。
 二次会三次会と出席して帰りが深夜になろうものなら、夜中だろうと愚痴愚痴と説教されかねなかったな、と早々に切り上げて退散した自分の行動を評価する。
 主は呆れたように溜息をついた。
「おおきいいきものは流されやすいからいけない」
 頑張って早く帰ってきたことについて、主からの評価は与えられないようだ。
「どうせ二次会三次会というのは飲み足りない騒がしい連中が行くだけだろ。学生じゃあるまいし、それに皆が皆ついていくわけはない。帰りやすい雰囲気はあったんだろう? 僕が言いたいのは結婚欲のこと」
「けっこんよく」
「まさか男を物色しに行ったんじゃないだろうね」
「そんなことしませんよ! 目の前で幸せそうにしていたら、羨ましくならないほうが変ってだけで……私もいい歳になってきましたし」
「ふぅん」
 主は興味なさげに欠伸をひとつ。
「どうせいい人なんていないのに」
「…………」
「…………いるの?」
「いませんけど」
「雪が降るかと思った」
 真顔で呟き、ふいと金星の瞬く空を見上げる横顔のああ憎らしいこと。

「…………」
 
 響く、己の長く息を吐く音。
 響く、退屈にかまけて主が欠伸する音。

「ま」
「はい」
「雇用責任がないわけじゃないし」
「…………」

「………………そういえばご飯は」

 眠い上に腹が減った主はむっつりと顔を顰め、くぁ、とまた大きく欠伸をしてごしごしと目じりに浮かぶ涙を指先で受け流した。そうしてすっと立ち上がり、すたすたと母屋の奥へ消えてしまう。見送る前に急いでヒールを脱ぎ、サテンの生地に指先がとられながらもどうにか立ちあがって小走りに後を追いかけた。廊下の先で、主がぶらぶらと歩いている。二、三歩後までようやく追いつくと、人心地ついた。主がチラと視線を流し、また元に戻した。目と鼻の先で、石鹸の香りを漂わせた黒髪がふわふわと揺れている。
 けっこん、結婚ねぇ。
 再び、口の中で紡いだ言葉はやはりあたたかい。けれどそれを幸福と呼ぶのなら、今のこの円熟した世界で事足りる。


(110512)

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