浴室の色

 家の外に家族がいる。家族のようなもの。血縁関係は皆無だが家族のような付き合いをしているもの。いや、それもまた違う。二年近く続く、遊戯の色が褪せたままごとの相手がいる。これが一番しっくりくるんじゃないだろうか。
 主と称する恭弥くんが、小さな身体に不釣り合いなほどがっちりとしたギプス包帯を右腕に巻いてきたのは先週のことだった。一体どうしたのかと問えば、きみにはかんけいないよ、とツンとしてそっぽを向かれ、何某か彼のプライドを傷つけるような事態が起こったのだろうと察し深く問い詰めることはしなかった。
 恭弥くんはおおむね人当たりが悪い。彼の人とは幼い頃に出会ったからまだいいが、これが中学生高校生ぐらいであればどれほど手ごわかっただろう。何を言っても何をしても冷たく、打ち解けるまでに相当時間が掛かるタイプはファイトが湧いてくる前に挫折してしまいそうだ。ちょっとどころの手強さじゃ済まされない。幸いにも、もしもの話なのだけど。

 土曜日。時刻は黄昏のにおいが漂う午後五時二十分であった。
 家人が出払うから、という理由で、主がお泊りセットを持って家に訪れた。母親はあらまぁ、と喜色と委縮をごったにした声で幼い主を迎い入れ、物々しい右腕を気遣いながら、ジュースはお菓子はとあれこれ世話を焼いた。恭弥くんは浅く頷いて母親からの歓迎を受けるものの、目のまんなかの一点はコツンとして冷たいままだった。
「お母さんと会うのははじめてじゃないよね?」
 夕飯の前に先にお風呂に入っておいで、と促されるままに脱衣所へ向かい、前開きのシャツをぷちぷちと開けてやりながら主に問う。
 着替えを手伝ってやったことは何度かあるが、そういえば一緒に風呂に入るのはそういえばはじめてだった。小学校にあがり日増しに生意気さを増す主ではあるが、身体はまだまだ小さい可愛らしい。
 言えば頭をはたかれるのはわかっていることだから、素知らぬ顔をして振った別の話題に主は数秒考えてから、
「はじめてじゃないけど」
 と、なにやら渋い顔をした。
「あの人がおおきいいきものの母さんだと思うと、なんだかへんな気がする」
「そうなの?」
「……おおきいいきものの母さんが、じゃなくて」
 シャツから腕を引きぬかせていると、独白するように呟いて。
「おおきいいきものが、おおきいいきものじゃないみたい」
 と、完全に独白した。
「…………。そういうものですかね」
 少々戸惑ったが、わたしも同じ調子で応じた。主はうん、と小さくうなずいただけでさしたる反応を見せなかったものだから、続きを促すのが憚られてしまう。
 なにかよそよそしい。
「えっと、とりあえず、さっさと入りましょうか」
 出来るだけやわらかな声色で薄い背中を押してやる。野良猫をこい、こい、と呼び寄せるような気持ちだった。

 どちらがよりボディソープをうまく泡立たせることが出来るのか競った。髪を洗ってやりながら、手が出せないことをいいことにツノをつくってやった。湯船の中にタオルを浮かばせてぷっくりとしたおまんじゅうをつくり、ばかじゃないのと潰された。
 浴室に反響する声は止むことを知らず、冷たかったものはなにもかもあたたかくなっている。
「えっ。喧嘩して折ったんですかその腕?」
「ケンカじゃない。ケイコ」
「……なんでまたそんな」
 湯船の縁にゴツンと置かれた主の右腕を思わず凝視すると、ばしゃっ、と生ぬるい湯が顔をめがけて飛んできた。
「ちょっ、もう、なにするんですか」
「うるさい」
「そんなこと言ってると髪乾かしてあげませんよ」
「ひとりでやるからいい」
「……冗談ですよ、ええ、乾かしますよ」
「たのんでないけど」
「……。風邪でもひいたら大変ですからね、乾かさせて下さい」
「……すきにすれば」
 ぷいとそっぽを向くもさほど嫌そうでない主は、すっかりいつもの調子だった。ついさきほどまでの、借りてきた猫のような空気はすっかり霧散している。
「そういえば、さっきの」
「なに」
「ほら、おおきいいきものじゃないみたいって。あれってどういうことですか?」
 湯であたためられた雰囲気にふと滑り落ちた言葉に、主は一瞬眉根を寄せ口を引き結んだ。
 ああいやな話題だったのか、とこちらもまた肩に力が入ったものの、しばらくして、主はふぅと溜息をつくようにして呟く。
「……なんとなく。しらないいきものだと思っただけ」
「……しらないいきもの」
「べつに、どうだっていい話だよ。続けるようなはなしじゃないから」
 主が家に着てから母と交わした会話はそう多くなかったと思うが、そうおかしなことを言っただろうかと記憶の糸を手繰り寄せる。心当たりはない。
「あ」
 心当たりというべきか。あるのだとすれば、主は母と私の間とに漂う空気に違和感を覚えたのだろうかと曇る湯気に目を向けた。
 家族という排他的集団はその集団でひとつの場所に住みそれぞれの色、リズムで暮らす。考えてみればそれだけで異様であり、私もまた雲雀の家を訪れてひとりきりになった時、あるいは主と主の家の家人が目に入る場所にいたとなれば、未だに身体が縮こまってしまう。
 主はそのようなことを言いたいのだろうか。由緒正しい雲雀の家に、かたや平平凡凡な一般家庭。交わることなどないのに奇妙な縁を持ったことは未だに不思議な話だ。
「……ああ、うん、なるほどなるほど」
「なにひとりでなっとくしてるの」
「いえ、べつ……うわっ! ちょっと、案外痛いんですから水かけないでくださいよ」
「おおきいいきものがぼくをイヤな気分にさせるたび、水かけ一回」
「なんですかそのルール」
「いま、きめたの」
 主が笑う。悪戯めいたあどけない笑み。
「さからっちゃダメだよ」
「……わかりましたよ、気をつけます」
「いいこだね」
 はいはい、と返事して、苦笑めいた顔を作る。感情のままさらけ出してしまえば、今度はなにを笑っているの気持ち悪い、と返ってくるのは目に見えていた。
 嫌いじゃないし、むしろ好きなのだと思う。
 幼い頃、家族と共に湯につかり歌ったあの歌と同じように、湯船に浮かべたおまんじゅうのようなタオルのように、水鉄砲をかけあったことのように、まざまざと懐かしさを思い起こされるのが好きだ。このやりとりを、五年後、十年後、それからもっと先になって思い起こすのかと思うとたまらない気持ちになる。
 浴室は外界から隔たれた密室のようなもので、家族の色が色濃く出る場所なんじゃないだろうか。そこで、ふたつを擦り合わせて新たな色をつくる。二人でこっそりと。戯れのように。
 いつか主も家庭を持つのだろう。とびきり綺麗で聡明な奥さん。挑戦的な目つきと動作の、妖艶な人。あるいは風花のように儚い人。奥さんと新しい雲雀の色を作っていく主。その色に、私との色はほんのちょっとでも含まれるのだろうか。含まれていてもいなくても、仄かな寂しさを覚えてしまうのは何故だろう。
「……なに」
「いえ、別に。ちょっと楽しいような、寂しいような」
「は?」
「いえ、いえ」
 再び水を浴びながら、私は愛妾になった自分を想像してみる。柱の陰でヨヨと泣くような妾にはなりたくないな。昼ドラのようにいびり倒されたりいびり倒すのはもっといやだ。楽観的にいこう。


(110826)

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