主の心、女中知らず

 昇降口を出たや否や、腹部に奇襲攻撃。蛙が潰れたような悲鳴が漏れてたまらず咳き込んでいる間も、突進してきた黒い塊は、黒曜石みたく鋭い瞳でキッとこちらを見上げていた。
「なんにもいわず、どっかに、いくなんて、ふざけてるのッ」
「痛い痛いいたたたたた!」
 雑巾を絞るみたく、両腕の力をめいっぱい使ってギリギリと胴体を締めあげられてはさすがに骨が鈍く唸る。ぐっすり寝ていたと思ったのに起きてしまったのかと薄ら嘆いて、すみませんすみませんと許しを請うと、ふんと鼻を鳴らして主はようやく距離をおいた。むっつりと口をへの字に結び、しばし威嚇するように睨みつけ───。
「ちゃんとはんせいしてるんだろうね」
「ハイ。無断で外出してしまって申し訳ありませんでした」
「つぎはかみころすからね」
「ハイ」
 またわけのわからぬ造語で釘を刺した。
 今はまだしおらしく返事をしておけば許してくれるものの、このようなことを幾度も繰り返していればさすがに知恵がついて通用しなくなってくるのだろうか、と先のことを彷彿しては憂う。
 幼い主がすこやかに昼寝をする間、近くの者に一応の行く先を告げそろりと抜け出し用を済まるという手を使ったのは、今回がはじめてではない。構うと鬱陶しがるくせに放っておくと機嫌を損ねるものだから性質が悪くて、小学校中学校に進学したらこの子はやっていけるのかしらと他人事ながら不安になる。現実、同年代の童子と遊んでいる様子を一度も目にしたことがないものだから余計に。この調子ではおもりがいつまで続くかわからないなと思わず溜息が零れ、すると下降を止めた機嫌のバロメータが眉根と共にぐっとまた下がりはじめたものだから、慌てて取り繕う。
「ご無事でよかったなぁって、ハイ。安心しました」
「なに。あたりまえでしょ?」
「いやでも、恭弥さんのおうちから学校まで距離があるじゃないですか」
「いえのにんげんがとちゅうまでついてきた」
「……ああなるほど」
 出会った当時からどうも一人でふらふら出歩いている印象が強かったものの、流石に付いてやる人間はいるか、ええ流石に。この獣を追い歩くのはさぞ骨がいるのだろうとうっすら“いえのにんげん”の苦労を感じ取るが主は当然のごとく知らぬ顔。既に興味を他に移し、きょろきょろと辺りを見渡して眉根を寄せた。
「なんでおおきいいきものはがっこうにいくの」
「え……学生の本分だから? いや今日は取りにいくものがあったことを思い出して、その用事だけだったんですけど」
「それはぼくをほうっておいてまでする、たいせつなこと?」
 なんと答えたものかと曖昧に笑うと、いよいよ蹴りがとんでくる。
「……おおきいいきもののバカ!」
「いたたっ」
「きみのごしゅじんさまはだれか、いえるよね」
「恭弥さん、恭弥さんです。私が悪うございました」
「おおきいいきものはいっつもそれだ。さっきもそう。あやまってすむならヒバリのいえはいらないよ」
 ああ家のことを出されるのは勘弁だなぁ。もう一度、しおらしく謝罪の言葉をしてもまだ主は憮然としていたけれど、ふいとそっぽを向いて額に流れる汗をぬぐった。一斉に蝉が鳴きたて時雨となる昼、日中の気温は高い。

「そろそろ帰りましょうか、恭弥さん」
「……きょうはつかれた。おおきいいきもののせいだからね」
「ええわかってます。……痛いほど」
 実際、体の節々はキシキシと声を殺して泣いている。主をほったらかしにした自業自得と言ってはそれまでだが、そんな時に限って裾をくいとひかれ、無言でおんぶをせがまれた。促されるままにしゃがんで、間もなく背中に感じるあたたかさとどっしりとした重み。よっこらせと立ちあがる時などとかく重心の取り方に苦心するものだが、主のためならえんやこら。人の上で悠然と構えるのがお好きな主が機嫌を直すのなら、多少の疲れは我慢しますとも、ええ。
「……。ねぇ、おおきいいきもの」
「はいはい」
「がっこうでなにをするの」
「勉強したり友達と遊んだり……あ、基本集団行動か」
「しゅうだん? なんでむれるの」
「む……、なんでって言われても、ええと、社会というか? みんなで協力しないと暮らしていけないといいますか」
「ふぅん、そうしょくどうぶつのむれなんだ」
「草食……」
 またえらい例えをしたものだと面喰らって反芻。この幼い主にとって、世界はどんな人間で構成されているのだろう。草食と、肉食と、それからおおきいいきものと。
 互いに違うことをあれこれ想像していたのか、不意に呟かれた言葉はいやに神妙で。
「……オオカミがくるよ」
「オオカミ?」
 一体何のことかとこれもまた反芻。主至って真面目な声色で続けた。
「よわいいきものはオオカミがたべにくるよ。おおきいいきものもたべられちゃうよ」
「大丈夫ですよ、食べられません」
「なんでだいじょうぶなの。しんじゃったらどうするの」
「いや、死んじゃったらどうしようもないでしょう……」
「おおきいいきものがたべられてしまわないように、みはっておかないといけないね」
「恭弥さんが見張り役ですか? 小さいから食べられちゃいそうですね」
「バカだね、おおきいいきものは。がっこうににゅーがくするころにはおおきくなってるもの」
「おおきいいきものより、ですか?」
「しらない。でも、おおきいいきものはおおきくても、バカだからたべられちゃうでしょ」
「……はは」
 ひどい偏見だ、と乾いた笑みをひとつ。

「ねぇ」
「はいはい」
「ぼくがオオカミをかみころしたら、おなかからでてくるんだよ」
「……」
 食べられること前提か。しかも、おなかの中って。
 まるでどこかの童話のようだけれど、自分に置き換えて想像すればキモチワルイ光景でしかない。非力な乙女でも背負える程度の幼子が、いつか立派な青年へ成長し力を振りかざすのだと考えるとなんとも……。苦々しい表情が背中におぶる主の目にうつらないのは幸いか。決して悟られぬようにと思い切り声のトーンだけは変えて、お望み通りの言葉を。


(110309)

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