主様の負け犬

 ジャラン、と魚の腹みたく鈍い光を孕んだ鎖が、目の前に垂れさがる。主の背丈と同じほどの長さのそれは、両端に文鎮ほどの大きさの重りのようなものがついていて、何やら不穏な空気を漂わせていた。腕をいっぱいにあげて、見せびらかすようにソレを持つ主に嫌な予感を覚える。主は得意げに鼻を鳴らしていうものだから、余計に。
「おおきいいきものにプレゼントだよ」
「プレゼントですか」
「くびわだよ」
「くび……首輪? えっ、これが? っていうか首輪!?」
 どこから突っ込めばいいのかと狼狽さえして、目を白黒させながら主と鎖とを見比べる。見た目からしてただの鎖とは思えず輪にすらなっていないのに首輪だとか、いやそもそもプレゼントとして扱われていること、とか。
 動けずにいる私の首に、そっと鎖が垂れ下がる。氷のような冷たさにひやりと背筋までざわついて情けなく主を見やるも、知らんぷり。鼻歌を歌い出す勢いで機嫌よさ気にぐるぐるとトグロをひとつ、またひとつ。
「さあ、これでいいね」
「……」
「おおきいいきものは、きょうはペットね」
「ペット!?」
 部下や女中に飽き足らずペット! 十近く離れた人間相手にペットとは! 一体何を考えているのだこのお方はと、くらくらする頭をおさえ俯く。ふっと、つい最近河川敷を二人で散歩した時に見た光景が脳裏に過ぎった。──常盤の緑の中を、アイボリー色の艶やかな巨体を持つ獣と楽しげに戯れる女性──魅せられたように、じぃいいっと長々と熱い視線をおくっていはいたけれど、まさか。
「ああそうだ」
「……?」
「ペットはにんげんのことばをはなしちゃダメなんだよ。ワンってなくんだからね」
 影響されている、確実に影響されている。それも、イケナイ趣味につながりかけない悪い方向に。
 聊か迷った。いくらなんでもこれは、と矯正するか、はたまたお望み通りワンとひと鳴きして尾でも振ってやるかどうしようかと。雲雀の家の子息に逆らうのは賢くない。しかしその子息が、とても人には言えないようなアブノーマルな趣味を持った人間として成長することを補助、いや誘導、いやそそのかした当事者としてしょっぴかれる未来のほうが恐ろしい。
 熱っぽく期待に満ちた視線を振り払うようふるふると首を振り、腹をくくった。
「恭弥さん」
「だめ、ワンって」
「いいえ恭弥さん、ダメです。世の中にはやっていいことと悪いことがあるんです。こんな真昼間から人を犬のように扱って、首輪とか、なんというか……えー? なんて言えばいいのこれ」
「……?」
「とにかくダメです」
「むっ」
 ああご立腹だ。ハリセンボンのように頬を膨らませて、いまにもその棘で近付くものに傷をつけてしまいそうな雰囲気。うまく説明出来ずダメとしか言えない私にも参ったものだけれど、どうしたものかと溜息が零れた。
「どうしてダメなの」
「ダメなものはダメなんです」
「なにそれ」
「あー……人のイヤがることはしちゃいけないんです」
「おおきいいきものは、おおきいいきものだよ」
「人です。ヒト科です」
「おおきいいきものは、おおきいいきものなのっ」
「わかりました大きい生き物、私は大きい生き物です。じゃあ恭弥さん、犬は犬ですよね?大きい生き物は犬じゃないので犬のような扱いをしてはいけません」
 主は幼いながらに形のいい眉根を寄せた。視線は真っ直ぐ。負けた気がしていやなのか、口をつぐんで責めるように睨みあげている。……たしなめるにしても、この自尊心のお高い主様のために、そっと逃げ道を用意してあげるのが気づかいというものか。
「……。恭弥さん、あの大きな犬を連れて歩いていたのは誰でした?」
「?」
「大人でしたよね。比べて恭弥さんはまだこんなに小さい。あんなに大きな犬をつれて歩くのは、もう少し経ってから。我慢出来ますものね」
「……ぼくだっておおきいいきものつれてるのに」
「そう、恭弥さんは大きい生き物をつれている。犬よりもずっと賢い大きな生き物。恭弥さんがわざわざ犬を飼う必要はないでしょう」
 最後のほうは、何を論理の破綻したことを言っているのだろうと自覚していたものの、押し切るように言った。幸い、恭弥さんの表情からはいくらか屈辱を受けた反応は消えている。やれやれここらでこの物騒な鎖を隠してしまおうと、手を掛ける。と、そこに重なるやわらかな指。
「恭弥さん?」
「まて、だよ」
 たよりない小ささとは裏腹に、存外器用に動く指先はじゃらりじゃらりと鎖を弄び、巻いて垂れ下がっただけの端と端を、抱き合わせるように……ひと、結び。
「は!?」
「おおきいいきものは、イヌよりもかしこいんだよ」
「は、いや……えっ」
「だからね、イヌのふりをすることだってできるんだよ」
 ね? と、恐らくこの先多くの女を落としていくであろう頬笑みに鳥肌が立つ。そういうことじゃない、そういうことじゃないんだと嫌な汗ばかりは流れるのに、ひらめきの一滴だって生まれやしない。
「かんたんでしょ」
「いやだから」
「いいこだね。いいこいいこ」
 ぺちぺちと、撫でているのかはたかれているのか判別つかない力で髪の毛をかきまわされている。何かを諦めかけてそっと見つめた先の主は粛々と、おそらくは見よう見まねで空想の犬と接していて人の話を聞く態度ではない。(いや日頃からそうそう人の話は聞かないけれど)
 通じない論理を懸命に並べ立てて諭すのは向いていない。もとよりこの人間は、生まれつき支配する側の生き物じゃないか。スペキュラトゥール、投機的な人間。我が国の政治家のように、物事をもうこの辺で十分だと打ちきることが出来ず、常に変革を思索する人間。対するランチェ、私が出来るのは、せいぜい物事を着実にこなすことだけ。ならば犬としておとなしく操られ、想像力の乏しいふりをしておくのが正しい選択だというのか。


(110302)

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