140505

 ジェラニオ通り十五番地、アパルトメント・イレーナの内部は空だった。正しくは備え付けの家具が残っているだけで、トリコロールのウェルカムマットも、錆びついた傘立ても、木綿のテーブルクロスも、あけび蔓のパン籠も、ジェンガのように積み重なった空き箱もなにもかもがすっかりと消え失せていた。
 ──ノックする扉を間違えた?
 僕はドアノブを握ったままでいることも忘れ玄関先で少しの間立ちつくしたが、バスルームへ続く壁の端にぽっかりと穴があいているのを目にすると、土足のまま迷わず剥き出しの床材を踏み歩いた。
 リビング・ダイニングには姿がない。プランターで育てていただけのバジルは奔放にテラスを支配していたし、かつてラベンダーの香りに満たされていた寝室はシーツを取り払われて、塗り替えた同色の壁だけが異様な存在感を放っていた。二人も入れば窮屈でたまらなかった浴室には潜むところなどないし、観音開きのクローゼットにも布切れひとつなかった。念のため両隣の部屋も覗いてみたが、それこそ人の営みを忘れてしまったかのように埃まみれで、すぐにはじめの部屋に戻った。
 何度見たところで部屋はがらんどうなままだった。
 そのうちに、なんで、とか、は? とか、もっといえばふざけるなという苦しみで腹の内側は煮えと冷却の狭間をぐるぐるとする疼痛に踊らされ、眉間にはかたくなに力がこめられた。何がしかの衝動を思いのままに吐き出したら幾分かすっきりするだろうと薄ら考えたが、それよりも先にすることがある。
 懐から携帯電話を取り出し、画面すら見ないまま次々とボタンを押していく。履歴にもアドレス帳にものっていないが、間違いはない。それなのに案の定というか、機械的なメッセージ音だけが返ってきてすぐに通話を切った。続いてワンプッシュ。
「恭さん?」
 草壁哲矢は二回目のコール音で出たが、その声はつい先程──三十分前に聞いたそれよりも少し不思議そうな調子をしていた。どうしてこんな日に。とでもいうように。どうしてこんな日に──ああそうだよ、どうしてこんな日に。
「ミョウジナマエがいない」
 哲は回線の向こうで一瞬言葉を詰まらせた。それから、嘘でしょう? というように神妙な口ぶりで反芻した。ミョウジナマエさんはいないよ。
「少なく見積もっても一か月前から。荒らされた形跡はないけど、私物はまとめて失せている」
「……恭さんの見立てでは、事件性は?」
「ない。心当たりがないなら調べて、折り返して」
「承知しました。すぐに」
 手早く通話を終えるとダイニングの椅子をひき、息を吐いて腰掛けた。電話を切る直前、通話口の向こうでばたばたと忙しない雑音が聞こえ始めたから、すぐに調べはつくだろう。すぐに。本当はどっしりとしたソファに腰掛けて、足を組んで休んでいたかった。未だに疼痛は続いているが、この座り心地では慰めにもなりはしない。背もたれは垂直で硬いし、クッションはやわらかすぎる。だけどこの部屋には他に椅子がないのだ。
 蜜蝋で磨かれた飴色の木枠に、よく熟れたワインレッドの座面。いつだったか、毎週火曜日に開かれるメルカートで五ユーロで購入したものだった。別段気に入っていたわけではないが、支払ったのは僕だからと、この部屋では僕が使う椅子だった。ありがとう恭弥さん。ナマエはそう素直に礼を言って、自分は半分以下の値で買ったガタついている丸椅子を使うしかないくせに、喜んで自分の部屋まで運んでいった。
 ダイニングテーブルを挟んで向かい側には何もなく、小花模様のカーテンも取り払われて小ざっぱりとしている。ガラス越しに見える空はからりと晴れて、窓辺のバジルは陰鬱と影を作っていた。芝生のようなラグも、道化師の服よりも鮮やかな色をしていた壁掛け時計もこの部屋にはない。あるのはこの椅子だけだ。わざわざこの椅子だけ。あんなに喜んでいたのになぜこの椅子はまだここにあるのだろう。ガタついた丸椅子だってこの部屋にはないのに。
 焦げ付くような胸苦しさを感じながら背もたれに身体をゆだねると、床板がギシリと悲鳴をあげる。今日まで底が抜けずに耐えてはいるが、築数十年は経つアパルトメントはあちこちにガタがきていた。ナマエが入居したその日も同じことで、湯を使うと壁に染みが広がり、翌日にはぶちぬいて水道管を探す羽目になった。
 剥き出しの水道管。それを見てひどいものだとナマエは笑い、ツボに入ったのかなかなか笑いやまなかったから、うるさい、と頭をはたいてやった。よろけたナマエが足元の工具を滅茶苦茶にした。いくつかのものが拍子に失せて、結局買い足すことになった。ついでに食材も買い込みたいとマーケットに駆り出され、大荷物で帰宅すると、部屋の中はカポナータの鍋みたくあれこれに溢れた。──カポナータとラタトゥイユってどう違うんだっけ? などとどうもいい話をしながらトマトソースのパスタを食べ、その夜はマットレスだけを敷いたベッドで眠った。夜中トイレに起きようものなら、少し神経を尖らせなくてはいけない。寝心地がよくなかったことも相まってぶち抜いた壁の横にまたひとつ穴をあけてしまったが、ま、いっか。という感じでそのままベッドに戻って寝た。翌朝、ナマエがまた笑っていた。

 人に言わせれてみれば、ミョウジナマエは僕のガールフレンド、というやつらしかった。
 らしい、というのは交際の契りを交わしたわけでもなく同棲しているでもなく、けれどそれなりのことをそれなりにして、それなりの好意を持っているからでた言葉だ。と、山本武が言っていた。哲からしてみれば恭さんなりの好い人でしょうとのことだが、何か胡散臭い響きをしているなと自分の事ながら思った。

 もう二年も前のことになる。
 ナマエとの出会いがどこで、どういうものだったのかはもう覚えていない。確かなのは、二年前のナマエが都市の中心部で、どこに腰を落ち着けようかとだらだらと悩み数カ月も胡散臭そうなホテルを転々としていたことだ。無論少々の稼ぎではじわじわと貯蓄を食いつぶしていく一方で、その生活ぶりは優雅なホテル暮らしとはほど遠かった。いよいよ日に一食まで生活費を切り詰めたという頃、この女は駄目だ。と、見かねてこのアパルトメントに放り込んだのだ。

 旧市街にあるアパルトメント・イレーナは、イタリアに渡ってすぐに財団の中継地として名義ごと購入したものだった。とはいえその役目を果たす前に条件のよい建物を他に見つけて、すっかりそのままにしていた。
 徴収する家賃は二カ月に百ユーロ。空き部屋も好きに使っていいと告げたら、ナマエはナターレのプレゼントを貰った子どものように瞳をきらきらと輝かせた。そうして長らく無人の空き家はナマエだけの城になり──荒城も荒城であちこちのコンセントは死んでいるし、水道管は銅製で、シャワーのお湯はぬるかったけれど──途端に食うに困らなくなった。
 駅からは歩いて九分。すぐ傍にはディスカウントスーパーがあり、車を走らせれば大型のショッピングモールもあった。財団のイタリア支部からも近く、することがなければ気まぐれに買い出しに付き合って、そのまま相伴に与るというのが、ここ二年間で構築した僕のライフスタイルだった。
 率直に言うと、ナマエが作る料理はおいしかった。味の濃い生野菜にペコリーノチーズをあわせたものに、くたくたに煮込んだ西洋ネギのクリームスープ。ケイパーとオリーブをたっぷり刻んだプッタネスカのソースは僕もナマエも好きで、冷蔵庫にはいつも大瓶があった。トスカーナの塩無しパンは味気がなく好きではないと言っていた癖に、温かいのにバターを塗って塩を一振りしたり、自家製のハムと食べることを覚えさせると、パン籠にストックされる頻度は容易くあがった。腹を満たしたら適当に時間を潰して、若い盛りの男女が一組いればそうなるように、どちらともなく体を重ねて夜を過ごした。スプリングのいかれたベッドもソファもうるさくてかなわないのに、湿っぽい部屋で興じる行為は殊のほか琴線を震わせる。出先のホテルで食事をしてから行うものよりも、互いに具合は好さそうだった。

 この部屋のこの椅子に腰かけて、いくつものを食べただろう。数えたことも数えようと思ったこともないのに、今更気疲れのする自問をしてしまうのは椅子の座り心地が悪いからで──腹が空いているからに違いない。
 ここにナマエがいれば、今頃カフェッティエラで湯が沸いていた。それからあたたかいコーヒーを飲んで、じゃがいもとほうれん草をぎっしり詰め込んだキッシュを齧る。トースターで軽く炙ったパンでもいい。
 そもそも今日ここへ来たのは、パンを食べるためだ。ナターレを控えた冬の日、馴染みのパン屋でパネトーネを一切れ買ったところ、イベリコのパテをもらっていたのをふと思い出したのだ。いくらか生活が楽になったとはいえ、ナマエは肉といえば安い切り落としかムネ肉かのどちらかばかりを食べていたようだから、もっていってやろうと思い立って三カ月ぶりにこうして足を運んだのだ。
 三か月も経てば、髪も伸びているのだろう。どうせ部屋に籠っているのだから身支度を整えさせて、外に出掛けるのも悪くない。観劇に興じるのでもその辺りのバルに入るでも、広場で青々とした樹木を眺めるだけでもいい。というか、僕が好きに歩くだけでナマエはついてきたから、エスコートをしようという男としての研鑽をつまなくてもいいのは気が楽なことだった。少々危うげにあっちへふらふらこっちへふらふらしながらも、三歩後ろに必ずついていたから。出先で鉢合わせたブラジル人のロマーリオは、生粋の外国人らしくヤマトナデシコと口笛を吹いたが、大和撫子は壁に穴があいてるのを見て笑わないだろうと僕は思う。まあ、違わないとも言い切れないが。

 僕がナマエの元を訪れるのは、いつも予告なしだった。二日三日と立て続けに足を運ぶこともあれば、数カ月ぱったりと連絡をつけないこともある。連絡先は僕が一方的に知っていて、痕跡がナマエの端末に残ることがないよう、「配慮」もした。アパルトメントひとつをくれてやったこともあるのか、ナマエは物分かりよく待っていた。
 フェスタで街全体が不夜城になる日も、深夜とも朝方ともつかない時間帯でも、街で酷い事件があったばかりの時でも、ノックをすれば当たり前のようにナマエは僕を迎えたし、不在だとしても少し椅子に腰かけて待っていれば、間もなく食材を抱えて帰ってきた。空が空であり鳥が鳥であるようにそれは至極明白なことで、部屋ががらんどうであったことなど一度もなかった。
 今日だってそのつもりだった。特別な日でしょう、と哲に言われ、そういえば山本武がガールフレンドとバカンスに行く、というような惚気話をしていたことも思い出し、惚気ようという気はなかったが、どうせだし、と手土産まで持って出向いたのだ。それなのに蛻の殻とあってはそれこそ話にならない。

 液晶に表示されたデジタル時計がふたつみっつと時を刻んでいく。椅子に座り続けている僕の視線の先で、乾いた風に窓枠がカタカタと鳴り、通りを走る車の音、腹をすかせた犬の鳴き声、行き交う話し声の笑い、怒鳴りが、風を巻いて過ぎ去っていく。ナマエは今、どれほど酷いところにいるのだろう。

 眉間に寄せた皺に流されるままに目を瞑る。暗転の後、寝入りばなに光の影がちらつくように、ここにないものがゆるやかに網膜に映しだされる。傷だらけのスプーン、安っぽいスープ皿、欠けたグラス、小鉢に浮かぶ白い花、欠けたグラス、安っぽいスープ皿、傷だらけのスプーンとその先の──携帯電話が震えている。


 *


「あ、恭弥さん」
 アイアン格子を誂えたマホガニー材のドアは、その重厚な見た目に反し驚くほどあっさりと開いた。トリコロールのウェルカムマット、錆びついた傘立て。出迎えた女は見覚えのあるリネンのエプロンを纏い、ちょっとだけ驚いた顔をしたものの、すぐに普段通りににこりと笑った。そんな出迎えだったものだから、僕はアウトストラーダで四時間考え抜いたあれこれをすっかり出しそびれて、突っ立っているしかなかった。
「ちょうどお肉が焼けたんで、タイミングよかったです。はいどうぞ」
 ナマエは返事を待たずに手際よくスリッパを足元に置いた。ありがとう、は言わない。今日は何があるの、という軽い世間話をしようという気にもなれない──というか、やっぱり何をしていいのかわからなかった。
 僕がぼんやりしていることに気付いているのかいないのか、ナマエはオナベオナベと小さく呪文を唱えると、くるり身を翻し奥の部屋に消えていった。揺れる布地を眺めていても尚、瞼裏はネオンや自動車が生む光の線に支配されているようだった。夢でも見ているように。

 哲からの連絡を受けて、東京・大阪間に近い四百五十キロの道のりを、ほとんどノンストップで走り抜けた。陽はとっくの昔に地中海に沈み煌々と月は昇り、中心街に乱立するリストランテからは、ありとあらゆる食品の匂いが排ガスや体臭と混じり合い、絶えず辺りを漂っていた。
 ミョウジナマエはここにいる。そう示された施設は路地の一角にあった。
 赤レンガを積み上げたような外壁に白い看板。等間隔に設置されたアンティーク調のウォールランプ。その下には蔓草が垂れ下がり、円熟した歴史と密接に関わった鑑とでもいうような、イレーナとは異なる品のある佇まいを醸し出していた。三階にあるアパルトメント・ホテルにはエレベーターがなく、日本人オーナーが貸し出している部屋はたったひとつだけだった。

 ノックしたらナマエは、どんな顔をして僕を迎えるだろう。堅牢な扉を盾に籠城するだろうか。どうして勝手にいなくなった? どうして何も言わなかった? 何か不満があるならその口で告げればいい。それとも誰かに脅されでもしたか? 一体誰に。──ただしそれらの問いは、拍子抜けするほど普段通りだったナマエと玄関先まで漂ってくる香ばしい匂いにまかれ、胃の底が焦げつきそうな怒りにも似た念は、空腹の訴えにまんまとすり替わった。僕は何をしに来たのだろう。
 そんなことを思っていると、恭弥さーん、と間延びしたナマエの声がゆるやかに背を押しにかかった。何をすればいいのかわからない、という気持ちは未だに胸を占めていたが、皮靴を脱いでスリッパに履き替えはした。そうして、のろのろと廊下を歩く。ただ香りに誘われる虫か幼子のように。

「もうすぐ出来るんで、ちょっと待ってて下さいね」
 扉を一つ潜り終えたところで、何も変わりはしなかった。木綿のテーブルクロス、あけび蔓のパン籠、小花模様のカーテン、芝生のようなラグ、道化師の服よりも鮮やかな色をしてる壁掛け時計。キッチンではぱたぱたとナマエが動き回り、油かバターがピチピチと跳ねる音がした。バタンと冷蔵庫が閉まる音。閉まり切らずにピイピイと警告音。カチャカチャと触れ合う食器。ザアザア流れる水の音。
 緯度も経度も時さえも違うのに、学生の時分、起き抜けに眼を擦りながら台所の暖簾を潜る光景がぼんやりと浮かんでいた。花冷えの午前六時。学生服の僕が生姜の煮つけを口に含む代わりに、マリネ液に浸されたトマトをひとつ摘まむ。湯むきされた実に染み込んだビネガーがひんやりと喉を転がり、青さの残るバジルの香りがすっと鼻を抜けていく。
 それを何度か繰り返すうち、ようやく目が覚めてきた。
「ねえ」
 呼び掛けると、ナマエが曖昧な返事を背中で返した。この調子では耳に入るか怪しいものだとも思ったが、言葉を続けたのは、独り言に終わってもいい、という気持ちが微かにあったからだ。微かに。未だ夢の中であるかのように。
「なぜあそこを出て行ったの」
 努めて平静を装ったが、声色は思うより硬いものだった。少なくとも僕にはそう聞こえていた。
「あれ、言いませんでした?」
 なのにナマエにはちっとも伝わっていない。声は届いたけど、想定していたやり取りとは異なっている。
 傾げた小首は、爪楊枝に刺したジャガイモの火の通り具合でも気にしているのだろう。
「勤め先が変わるって話、しませんでした? こっちはただの支社なんですが、国に帰っていいよって話を受けたんです」
「……国に帰る?」
「はい、日本に。今ここにいるのは、その前準備っていうところです。向こうに居ても悪いことはなかったんですけど、車持ってないですし」
 無言で背中を見つめていると、爪楊枝を片手に振り返ったナマエが目を細めた。
「──こんな話、忘れちゃいますよね」
 勤め先が変わるという話は、聞いた覚えがある。
 ひとつ前の逢瀬の時、昼食に添える世間話のひとつとして、咀嚼の合間合間に耳に届いていた。
 茹でたじゃがいもとスモークされた豚肉を挟んだライ麦パンのバーガーに、レモンの輪切りを浮かべたミネラルウォーター。大きなピクルスと切り分けた果物は、その日朝方まで流していた映画に出てくるカフェでのメニューだった。ナマエは急ごしらえのバーガーに齧り付きながら、確かにそんな話をしていた。今の今まですっかり忘れていたというか──引越すほど遠くの話なんて想像もしていなかった。

 想像もしていなかったから、追及だってしていない。ナマエはドアを開けた時からこんな態度だし、どうして勝手にいなくなったのだとか、どうして何も言わなかったのだとか、何か不満があるのかだとか、ちょっと前まで渦巻いていた非難に似た問いをぶつけるのは、最早その話をまったく聞いていなかった・あるいは覚えていなかったと自身の迂闊さを示すに等しかった。道中考えたあれこれは、いよいよ腹の中へ消えかかっている。
「……夕食はまだ?」
 ひとまず聞こえないふりをして、ダイニングの椅子をひいた。丸椅子は相変わらずガタついていて、片足をふんばらないと視線はズレ、まったく座り心地が悪い。ナマエは話を変えたことには追求せず、小さく笑った。
「あらら。椅子、持ってくればよかったのに」
 椅子とはあの「椅子」のことだ。それがわかっているならナマエが最初から持ってくればいいのに。
 イレーナを離れたことを問い詰めるのは一旦止めにしたが、それでもまだ僕は、どうして勝手にいなくなったのかと憤りを感じているのだ。あらら、の言い方にもかちんときて睨みつけると、僕の機嫌が悪いのはお腹が空いているからと、椅子の座り心地のせいだと判断したのだろう。ナマエは幼子を相手する母親のようなトーンで、はいはい、とまた鍋に向き直った。それがまた面白くなかったが、僕はわざとらしく笑いとばした。
「積み込み忘れたよ。てっきりゴミだと思って」
 マリネ液がスープのように浮かんできた皿に指を突っ込み、次々とトマトを口に放り込んでいく。
「ゴミって、そんな。あの椅子気に入ってたのに」
「誰が? 僕じゃないなら君しかいないね。それこそ持ってくればよかったのに」
「だって、恭弥さんが買った恭弥さんの椅子だもの。勝手にもっていけません」
「へえ」
 喉元はすっかり冷え切っていた。
 別にナマエは間違ったことを言っているわけじゃない。あの椅子は僕が買って僕が使っていた椅子だし、あのアパルトメントの名義もナマエにはない。僕のものは何一つ奪われていないし、手放してもいない──何一つ。

 なんにもわかってないね。

 それなのに子供染みた癇癪が今にも溢れそうになっている。欲しいから欲しくて、嫌だから嫌。皮肉交じりのやり取りで済まそうと思っていたのに、いつの間にか史上最悪な年頃に戻っている。
 指に付着したマリネ液をテーブルクロスになすりつけて、食い散らかした皿を前にそっぽを向いた。ナマエが何事かを言いながら料理を運び、向かいの席についてもナイフとフォークを手に取ろうとはしなかった。ビネガーの尖った酸味がちくちくと喉元に残っているが、グラスにだって口をつけずにいる。
「お肉の気分じゃありませんでした?」
 向かいの席についたナマエが、相変わらず困ったように笑っていた。笑うだけで、決して僕を責めようとはしない。
 やさしい、おひとよし、気が弱い、気にしい。これをなんというのだろう。

 予告なしにアパルトメントのドアを叩いても、数カ月ぱったりと連絡をつけなくても、連絡先を教えなくても、ナマエはいつだって、文句ひとつ言わず物分かりよく待っていた。フェスタで街全体が不夜城になる日も、深夜とも朝方ともつかない時間帯でも、街で酷い事件があったばかりの時でも、いつだって。
 どうしてナマエがそこまでするのかといえば、言ってしまえば僕に惚れているからだ。古き良き時代の女とでもいうような、なんともよく出来た姿勢で。いわゆる大和撫子──本当にそんな女、いたのだろうか。
「なぜ君は怒らないの」
 考えてみれば、僕はナマエのことをしらなかった。
 何の職に就いているか知らない。日本のどこで生まれ育ち、いつイタリアへ渡ったのかも──これは聞いたことがある気がするが──覚えていない。誕生日も血液型も知らない。年齢だってはっきり聞いたことがない。知っているのは以前の連絡先に料理の腕と、体のどこに黒子があるかばかりだ。そしてナマエはそれ以上に、僕のことを知らない。正しくは知らせていないのに。
 交わらせた視線と共にしばらくの間沈黙が横たわる。あまりいい感じの沈黙じゃない中、グレイビーソースの香気だけは好き勝手に立ち上り、そのうち腹の中がぎゅうと痛くなってきた。そのまま眉根も顰める。
「いつ来るとも知れない男相手に、よくやるね。僕がここでテーブルをひっくり返したって、喚き散らしたりしないんじゃないの」
 口喧嘩をふっかけると、そんなことないです、とナマエはきっぱりと首を横に振った。
「せっかく作ったんです。納得できない理由だったら、そりゃ怒りますよ」
「僕が用意された夕食を口にしなければ?」
「明日の朝ご飯にします。……今日の朝ご飯だって昨日の残りですし」
 もっともらしく言った後、続いた言葉は少しばかりボリュウムが下がっていた。外れた視線はテーブルの上を彷徨い、スープにもサラダにも手をつけていないのに、ナイフとフォークで急に肉を細かくしだした。ここが食卓でなければ、際限なく髪でもいじるような挙動の不審さだった。
 なんでそんなことで。
 ここにきてはじめて、はっきりと表れたナマエの動揺だった。それを眺めている僕はといえば対照的に心が落ち着いてきて、ナマエの爪を覆う薄桃色にさえ目がとまるほどだった。同じように色のついた唇にも。
「いつ来るかわからないからって、まさか本当に毎日用意してたの?」
 投げ出していたままのスプーンをとり、スープに口をつけた。かぼちゃと見紛うほど濃い色をしたコーンスープ。
「まあ……」
 視線はあわない。ナマエはなんとなくバツの悪そうな顔をして、丁寧に盛り付けた自身の皿を台無しにしている。ルッコラのサラダには十分ドレッシングが絡んでいるのに、どこまで神経質にかき混ぜるのか。クルトンを皿の縁の絶妙な位置にのせたまま、ナマエがぼそぼそと呟いた。
「おいしいものを食べたら、また食べたいって思うじゃないですか」
 ふっくらと色づいた唇が動くたびに振動が指先からフォークの先端へ、ルッコラや紫玉葱の湾曲を滑ってクルトンの背を押してはひき押してはひき。迷うように言葉を選んでいるからこうなっているのに、ここで唐突に指をのばしてクルトンをつまんで食べたら言葉は永久に迷子のままになりそうだ。とそんなことを考えていても微塵も表に出さないで、真摯に返した。
「僕を餌付けたと、そう言いたいの」
「……いえ、なんていうか、自分に対してです。自分のためだけの料理なら、タッパーにご飯をつめて、その上に味の濃いおかずをのせたのだけで十分なんですけど」
 僕の前に並べられた皿とナマエの前に並んでいる皿は同じで、のせられた中身だって同じだった。それなのに見た目には随分と食欲をそそる感度が違っている。
 木綿のテーブルクロスに蔓草模様の入ったテーブルランナー。白い皿に生成り色の小鉢。中央に置かれたグラスには、白い花を咲かす植物を。ちょっとしたカフェの様相に、リネンのエプロンも襟付きのシャツも見劣りしなかった。淡い爪の色も唇の色も。
 僕はしばらくの間、ナマエを見つめていた。転勤先を突き詰めなかったのは自分自身に至らなさがあったということもあるが、置手紙をするなり定期的に戻るなり、所在地を知らせる術はあったはずだ。ナマエが僕を好いているのはまず間違いないとして、自ら連絡を絶つ真似をしたのはどうしてだろう。僕が探さないはずはないと、そう思っていたのか。 
「転勤の話は聞いていた。だけど、引越しするとまで聞いてなかった」
 このアパルトメントに入った時から飲み込んでいた言葉の端を、ここでようやくちらつかせた。苛立ちも、呆れも、冗談っぽさも何もなく、紙面に書いた文字の羅列として伝わるよう、極力全ての感情をのせずに声を発した。ナマエがどう捉えるのか、それを知りたかったから。
「知られたくなかったんです」
 ナマエが言う。
「重いかなって」
「重い?」
「恭弥さんは忙しい人でしょう。いつ来るかはわからないから、わからないからこそ、来た時はちゃんと出迎えたいと思ってたんです。私にあんなにいいアパルトメントをくれて、食事を残さず食べてくれますし。でも、あまり自分のことを話さないってことは、本当はそこまでされたくないのかもしれない。転勤先の話をした時だってそれ以上聞きませんでしたし」
 ナマエはしばらく言葉を探し、そんな感じです、と無理やりに締めくくった。そうして乱しに乱した皿の上を少しずつ腹の中に片付けはじめた。よく噛みもせず。
「……僕がこのアパルトメントに来なかったから、どうするつもりだったの」
「……その時は、朝ご飯を作る手間がないまま日々を過ごすだけでした」
「僕は試されていたのか」
 返事はない。ナマエは屍のように黙っている。
 スプーンを置き、僕もナイフとフォークを手に取った。香ばしくグリルされた肉を一口大に切り、落ちたソースをからめて口に運ぶ。咀嚼していると肉独特の脂が喉元で溜まり、立ちのぼってきた赤ワインの風味に目を閉じた。次に焼き目のついたじゃがいもを切り分けにかかる。茄子、パプリカ、ズッキーニ、クレソン。人参のグラッセもちょうどよい頃合いの甘さだ。それらに好き嫌いなんてないが、どんなに癖のある野菜もここで食べればましに違いなかった。
 何時間も前から感じていた空腹感はいつの間にか失せていた。木綿のテーブルクロス、あけび蔓のパン籠。リネンのエプロンを纏う簡素な化粧を施した女に、あたたかな食事。これで思考がゆるやかになっていくのは、普遍的なことだ。
「五月五日は、ケーキを食べる日だった」
 メインの皿を平らげたところで、ふと思いを馳せるようにナマエに目をやった。ナマエは台詞の唐突さを訝しんで、コリアンダーを嗅いだような時のようにちょっとだけ変な顔をしている。
「ナミモリーヌのデコレーションケーキ。よくある生クリームのケーキで、苺は七つだっけ。四号サイズに直接フォークをいれて、応接室でゆっくりと本を読みながら」
「……それって、いつの話ですか?」
 上目遣いに、確かめるように、ナマエはおそるおそる首を傾げる。
「応接室でっていうのは、中学の時の話。僕は風紀委員会に所属していて、活動拠点が応接室だった。登校すると、その日は哲──副委員長が差し入れてくれてね。町内のケーキ屋へわざわざ出向いて」
「でも、ゴールデンウィーク中ですよね。子供の日」
「そう、祝日。土日も祝日もほとんど学校にいたから、僕」
「……随分真面目な子だったんですね」
 尋問でも受けたような顔をしていたのに、ナマエの瞳はたちまち輝いていた。アパルトメントをまるまる一軒与えた時に等しい潤みだ。
「去年も一昨年も、その習慣は忘れてた。仕事が立て込んでいたし、並盛にもいなかったからね。……珍しく、今年はそれを思い出した」
 そこまで言うと、それまで聞き入っていたナマエははっと口を開けて小さく叫んだ。
「五日って今日じゃないですか!」
「もう終わるよ」
 夜は更けてパスティツェリアはとっくに閉まっているし、最早マーケットで苺を買うこともできない。ナマエは口惜しそうに時計を見上げている。
「こんな話、はじめてするんだから期待してない」
 そう、はじめてする。恋人であれば交際する前から知っていそうな話を今はじめて僕はナマエに明かした。じゃーガールフレンドであればどうかって、それもわからない。ガールフレンドは胡散臭い響きだ。山本武のガールフレンドは二、三人いることを僕は知っているから。

 ナマエは少しむくれていたが、諦めたようにまたナイフとフォークを動かした。今度の速度は早くもなく遅くもない。それを横目にグラスを傾けると、炭酸がぴりぴりと弾けながら喉を通り抜けていった。気分は悪くない。
「仕事で繋がりのある男が同郷でね。その妹もナミモリーヌを贔屓にしていると聞いたことがある。並盛町の、洋菓子店ナミモリーヌ。わかりやすいでしょ」
「なみもりちょう」
「そう、並盛町。牛丼並盛の並盛」
 今日の食事はいつもより口がよく動く。長い時間をかけて食べているせいか、随分満ち足りていた。一切れのケーキも、砂糖の一欠片も必要ないくらいに。
 ナマエは膨らみかけたスポンジケーキのように悦ばしい何かを堪えて、じっと僕を見つめていた。
「……いいんですか?」
 音は金平糖のように少々角ばっている。声色に気づかないふりをして、何が? と返すと、ナマエは少し沈黙してから、自分自身に言い聞かせるようひとつ頷いた。

 この子はじきに、並盛へ行くだろう。孤悲のなか、宝探しでもするように地図を広げて。
 言葉もないのにそう思う。推測に希望が練り込まれて、食物の匂いを巻き込みながらその辺りをふわふわと漂っている。来年の食卓にケーキがのぼるかどうかだとか、ケーキが何を意図して用意されるかだとか、そもそも食卓を囲むことがあるのだろうかだとか、数々の不確定の未来を芳しい香りに見せかけている。
 そう、見せかけているだけだ。だって僕らは互いのことをよく知らない。二年のうちに何度となく食事を共にしたのに、今日のように食いっぱぐれる事態が起きるくらいに知らずにいる。一応、誕生日だったのにね。


(140505)

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