ソウサイ

 雲雀家は、並盛の町に古くから根付く由緒正しき一族だ。今でこそ影を潜めているが、古くは王のように君臨し──これは兄がすくすくと育った前の話であるが──風土豊かな並盛の土地を更に栄えさせたのだという。

 私の兄、雲雀恭弥は、雲雀家のただ一人の男児だった。親族の誰もに望まれて生まれ、立派な後継ぎとして育てられることを期待された。
 しかし兄は、一族にとっては不幸なことに身体が弱かった。風が吹けばこんこんと咳をし、高熱で倒れて病院へ搬送されるということもままあったという。
 一族は分家から養子をとることも考えたが、やはり当主は宗家筋から、というプライドがあったらしい。矛先は母親に向けられ、無言の力が母に第二子を産むことを迫った。

 兄が三つの誕生日を迎えた年のことである。雲雀家の長女として私が生まれたものの、今度こそ健康な男の子を、と望んでいた親族はひどく落胆した。皮肉にも私は兄と違って生まれつきの健康体で、兄がこれでもかと厚着をして冬を越す中、膝小僧丸出しで駆け回っていても風邪ひとつひかない童子だった。

 いつだったか、一時的に家の者が出払っていた冬の日、ほんの少しの間だけの留守だったというのに、庭の敷石の辺りで兄が倒れたことがあった。幼い私に力はなく、とにかくどうにかしなければいけないという焦燥のまま、見よう見まねで濡らしたタオルを額におしつけたのだったと思う。当然寒空の下でそのようなことをされた兄は体調を益々悪くし、間もなく帰って来た母は悲鳴をあげた。兄はその後、三日三晩生死の境をさまよったという。その後私が兄に近付くことを許されなくなったのは言うまでもない。
 もしかすると、この件も私の運命を左右するひとつの転機だったのかもしれない。
 兄は病弱。幸い私は幼くして読み書きが達者な才を持っており、これといって分家筋に才のあるものはいない。一族は私と兄を見比べ、婿をとるべしと口を揃えた。

 家の中でもパリッとした上等な着物に角帯を締め、紋付羽織を羽織って美しい所作で過ごした祖父。当主だった祖父は、よくこんなことを言った。
「ナマエ、お前は将来恭弥にかわって雲雀家を背負うことになるだろう。日々精進し、並盛のために尽くしなさい」
 祖父は公明正大で、時に非情なほど厳格な人物だった。雲雀の一族は祖父の言葉でよくまとまり、並盛の町もまた正常に機能した。
 私は実際、幼いながらに祖父に敬意の念を示していた。並盛界隈の住民に尊ばれ、時に高貴な人を相手に物おじすることなく接していた様は、まぎれもなく王の姿だったのだ。
 祖父のようになりたい。少なくとも、祖父に認められる人間になりたかった。私はその一心で雲雀のために日々を尽くし、勉強に武道にと、幼い子どもはおろか大人にだって過酷なほど叩き込んで、幼少期を過ごした。

 私が、小学二年生にあがったばかりのことである。入退院を繰り返していた兄がぱたりとそれを止め、なにやら家にいることが多くなったな、と思いはじめたのも束の間。兄は一足飛びで私の隣を走り去り、いつの間にか、本当に少しの間で、また兄が生まれたばかりの時と同じような脚光と期待を背負う座についていた。
 一体、何が起きたのかわからなかった。つい数日前までは猫なで声をあげていた親族は私を見向きもしなくなり、ずっと勉強を見ていた先生もいつの間にか来なくなった。代わりに兄の元には連日媚を売り褒めはやす人間が入れ替わり立ち替わり訪れるようになった。
 決定的だったのは、翌年の冬のこと。風花の舞う肌寒い朝のことだった。
「恭弥、並盛のことを頼むぞ」
 眠るように往生を遂げた祖父が最後に言葉をかけたのは兄で、その言葉は、私が幾度も聞かされていた台詞とよく酷似していた。
 覚悟はしていた。兄が病気を克服した頃、いや、それよりももっと前から祖父は兄に目を向けていた。私は兄の代わりをつとめているつもりがそうではなく、代わりにすらなっていなかった。いくらか可愛がってくれた祖父が亡くなったのは、決定的な機会だった。この瞬間、私は雲雀の家にとって無用の存在となったのだ。

 冬が過ぎ、躑躅、紫陽花、金糸梅、萩と瞬く間に一年は過ぎた。離れの一角の小さな窓から、繰り返しうつろう四季をただひたすらに眺めて過ごすだけの日々は続いた。
 相変わらず身体こそなんともなかったものの、心の具合は悪かった。何かと理由をつけて休みがちだった中学校はいつの間にか卒業し、おそらく一族の誰かのはからいか、気がつけば私は家を離れ、全寮制の女子高等学校へ通っていた。
 名家の子女が通う格式ばった学校には少なからず私と似たような境遇に置かれた同級生がいた。互いの悲運を嘆き傷を舐め合いたがる彼女らの中にいると、ますます自分が腐っていくようで酷く気分が悪かった。
 所詮、彼女らに引き合わされたのも一族の思惑だ。このようなところにまで追いやったというのに、定期的な便りと盆正月は必ず帰るようにと念を押していたことも考えれば、大人しく従順に、お前は人形のように生きるのだとほのめかしているつもりだったのだろう。
 私はそれに嫌悪した。高校卒業後は戻ってくるようにと言われていた言葉に抗い、これがきっと最後だからと言いくるめ、なんとか女子短期大学への切符を手に入れた。
 はじめて、自分で選ぶことの出来た道だった。私は変わるのだ。見放された私を慰めた並盛の景観にこそ後ろ髪ひかれたものの、二度と雲雀の家に縛られまい。短期大学を卒業すれば成人を迎え、法的にも一人でやっていける。どこか離れた土地で自分一人を養って、ゆくゆくは慎ましいながらも柵のない穏やかな家庭を持つのだと。そう誓ったのに。

「一体、どういうことですか」
 その声は震えていただろうか。

「家に戻れと言った」
 透彫の座敷机を挟み静かに座した男は、いつか見た時よりもずっと冴えやかになった瞳を伏せ、湯呑を傾けた。美しく落ちついた所作は亡き祖父のようだ。対する私は、冷たい身体を震わせて兄の言葉を反芻し、ゆっくりと、その言葉の捉え方を模索した。
 ──何か別の意味があるのではないか。
 短期大学の卒業を間近にしたこの時期、急に便りが届いた時から嫌な予感はしていた。
 一縷の望みにかけ縋るように見やった先の兄の表情は変わらない。つまりは、そういうことなのか。
 遠くのほうで鹿脅しの乾いた音が聞こえ、ふ、といくらかの緊張が抜けた気配がした。
 こくりと唾を飲み込み、ゆっくりと唇を開ける。
「……いやです」
 私は彼女らのようにはならない。雲雀の家に縛られて、己の意思もないままに生きることなどしたくない。雲雀の家にとって私がどれほどの利用価値があるのかは知らない、考えたくもない。どうせどこぞの子息と婚姻を結ぶとか、目の届かぬところに置くくらいなら飼い殺しにするという魂胆なのだろう。何を今更。兄さん、あなたは私が屋敷の隅に追いやられている間、美辞麗句を浴び多くの贈り物を受けて育ったのだろう。幼い頃の病弱さには同情するが、それさえも愛情を受けるに足る要素だったではないか。一族の誰にそそのかされたかは知らないが、兄さん、あなたは私のことなど知らぬではないか。いないも同じであれば放っておいてくれ!
 兄が悪いのではない。いや、兄の立場なら対処のひとつは出来たはずなのに。理性の淵を往ったり来たりする言葉の群に、それ以上の声は出なかった。
「そう」
 兄は、予想の範疇だとでも言うかのように、涼しい顔を崩さぬまま返した。
 拳を握り、俯く。
 従うしかないのか。
「……しばらく並盛を離れようと思ってね」
「え?」
 思わぬ言葉に、ふっと顔をあげた。兄の表情に目立った変化は無い。
「財団を設立したんだよ。その関係で国外に用がある」
「……それは、新しい事業か何かですか」
「いや、個人的に興味があるものを研究しようと思ってね。雲雀の家は関係ない」
「それならどうして」
 どうして私が呼び戻されたのか。雲雀の跡取りで国外に出る兄が、何を理由に家に戻れと命じたのか。父や母や、他の者は何も言わなかったのか。
 問う前に兄はゆらりと立ちあがり、格子にするりと指を掛けた。溝を滑った先に広がる庭園は柔らかな光に包まれ、桃の香りを乗せて風が吹きぬけてゆく。
「……」
 おかしい。
 そこではじめて違和感を覚えた。兄の言動に気になる箇所はいくつもあるものの、それとは違う。何故、どうして今まで気がつかなかったのだろう。いくら恐れながらこの家の敷居を跨いだとしても、気がつくのが普通だろう。私はそれほど前後不覚になっていたというのか。
 ──この家は静かすぎる。

「お前が弱い生き物だということ、改めて今日確信したよ。言いたいことを言えず抗い方を知らないその生き方では、どこに行こうと・・・それこそ地球の裏側にいたって、その名に縛られて一生を終える。断言する」
「そんな」
「お前は家を背負って生きろと言われ、一時そういう教育を受けていたね。・・・まだ僕の体が弱い頃の話だ。頭は悪くないようだったし、気がついてはいるんだろう。あの頃からお前は僕の代わりには成りえなかった。家の人間が名医を呼び手厚く僕を世話し続けたのはいい証明さ。この家にお前の居場所はない」
 曇ることのない透き通る眼差しは、真っ直ぐに私を射抜く。辛辣な言葉に口を引き結び、奥歯を噛み締めた。……ならばなぜ。
「どうして私を呼び戻したのですか」
「家には誰もいない」
「今更それがなんだって──……え?」
「使用人には暇を出させた。父も母も、理由をつけて余所にやったからここには来ない。当然、僕も家を離れる」
「それは」
 それはつまり。
「この家にいるのはお前一人だけになる」
 使用人はともかく、己の両親すら意のままに出来るのか。いくらかの権力は持っているのだろうと見当はつけていたものの、まさかそこまでとは思わず息をのんだ。そしてなにより、兄の意図が見定めることが出来ない。同情や哀れみの類でこのようなことをする人ではないというのはわかる。
 想像の及ばない裏があるのか、それとも、何か求めるものでもあるのか。
「私は、何をすれば」
「好きにすればいい」
 好きに?
「日がな一日縁側に座るでも良し、どこかに職を見つけて働くも良し。群れを連れ込んで家を汚さなければ、君が何をしようと構わない。・・・ああ、僕もたまには戻るだろうから、清潔に保つことも忘れないように」
「……」

「いつかの借りは返したよ」

 ふらりと立ちあがった時、そこに誰の姿もなかった。
 ついと投げた視線の先には、躑躅が咲いている。躑躅の季節が終われば紫陽花が毬のように膨らみ、金糸梅は鮮やかな黄色の花を咲かす。それが終われば、萩の季節だ。紫の滴る庭先はさぞかし綺麗だろう。
 おぼつかない足取りのまま庭先へ爪先を踏み出す。ひんやりと肌を刺激する敷石は“いつか”見た時よりもずっと小さく、その冷たさだけが変わらない。
「……」
 瞑目して凝らした思いの中にいる、兄の姿。
 ……兄は、雲雀恭弥の強さは生まれつきだったのだ。


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