愚者の恋

「委員長、刷り終わったプリントなんですけど……」
「そこに置いといて」
 ほどいたネクタイを机の隅に投げ出して、裾がはみでたシャツはそのまま。気だるくソファに持たれる雲雀さんからは、皮膚に纏わりつくようないやな臭いがした。同じ臭いは室内にじっとりと満たされているものだから、私は挨拶もそこそこに入室してまっすぐに窓に向かう。
 清涼な空気と共に運動部の掛け声が近くなる放課後。学び舎らしからぬ夜の気配になんとも居た堪れない気分になってくる。
 雲雀恭弥はストイックな人間である。己の使命感や義務を先行させて生き、上品な所作や立ち振舞い、激しい戦闘の時でさえ乱れぬ制服姿などこの人の性格をよく表現している。
 ただそれでも、ストイックという言葉では片づけられない本能的な衝動が静かに燃えているのだと感じたことはある。群れる者へのジェノサイド。これこそ使命感や義務を兼ねているのであろうが、それでうまく衝動を発散させているのは周知の事実であり、それについては今更驚きもしない。しかし、まだ足りない、まだ咬み殺し足らぬが獲物がいない、と。そのような時、彼が性的な行為、その辺の女子生徒や教師をひっ捕まえて熱を発散させていることを知る者はまだ僅かだろう。
(……あ〜もう、たまらないよなぁ)
 その行為がいつから続いているのかは知らない。知ったのは、つい一カ月ほど前のことだった。
 タイミングの悪いことにその日は豪雨により周囲の音は掻き消され、知らずに入室した応接室でまさに真っ最中であった時は流石に思考ごと身体が固まった。刹那のうちにゆるゆると、学校で何をしているんだとか、風紀委員長が風紀を乱してどうするいや乱すのは今更かとか、あの女の子は誰だそもそも彼女いたのかとか、巡り始めた疑問は両手じゃ足りない。失礼しました、となんとか言葉を捻出してその日は終わったが、問題はその日に留まらず翌日もそのまた翌日も続いていた。通りかかると嬌声が漏れ聞こえる部屋があるなんて、一体どんな学校だ。しかもそれが風紀委員の活動拠点だなんて笑い話にもなりはしない。以来私は入室に細心の注意を払うようになり、換気やゴミ捨ての回数も増やした。
 見せつけられるようにされるものだから、当てつけるように返す。ソファにもたれて黙って眺める雲雀さんは、何を考えているのだろう。
「ねぇ、ミョウジ」
 別世界みたく青い空を眺めながら少々トリップしていると、掠れた声で呼び戻されて振り返った。
「なにか、僕に言いたいことがあるんじゃないの」
 責めるわけでもなく淡々とした、抑揚のない言葉に黙って目を伏せた。何をどう伝えるべきか、と訪れた沈黙から逃げるように、まとまらぬ思考のまま口を開いた。
「なんというか。学校でそういうことをするのは、よろしくないと、思います」
 事情も知らぬまま非難するのはよくないと、あたりさわりなく紡いだ言葉にさしたる反応はない。続けて、と無言のうちに急かされている。
「えっと。よくはないんでしょうが、でも、委員長がいいと言うなら私たちが偉そうに言えることはありません」
 これは草壁さんも思っていることだろう、と勝手に解釈して善悪の判断を委ねると、雲雀さんはふっと鼻で笑って立ち上がった。ゆら、ゆら、とシャツの裾を揺らしながら近づいてくる様子に微かに慄き、距離をはかるようにずるずると上履きの裏を擦る。雲雀さんは少し、困ったように眉根を寄せた。しかしそれも束の間のことで、おもむろに腕を伸ばし、引っ込み損ねた手首ごと私を引き寄せた。
「ひばり、さん?」
「じゃあ、僕がこうして君に迫ったらどうするの。委員長は絶対?」
「ぜ……しょく、しょくばでのは支障が出るとテレビが」
 触れた肌は思いの外熱く、低体温そうだなぁと勝手に思っていた想像との差異も異性に触れられたという事実も告げられた言葉もその異性から酷くセンシュアルな魅力が漂ってくることもごったにして、一気に脳は許容範囲を突破した。
 自分でも何を言っているのかわからぬまま眩暈を覚えて浅く息を吐き、ふらつきそうな感覚を抑え込むようにきゅっと瞼を閉じる。と、隙をつくように唇に何か、確実に、触れた。大仰に肩を震わせておそるおそる瞼を開けると、まさに目と鼻の先の距離にある瀟洒な面差し。
 今度こそ完全に停止した思考も身体も置き去りに、雲雀さんは腕を腰に絡め擦り寄るように肩口に額をのせた。
「……じゃあ、君には風紀委員を退会してもらおうかな」
 こてり、と窺うように首を傾けた視線を直視できずに首ごと逸らす。雲雀さんは仮定の話として、いっそ平静な声色で続けた。
「なんて、そういう抜け道を作ったらどうする?」
「……わたし、あの」
 筋が引きつりそうなほどめいっぱい逸らしていた首をこわごわと半分ほど戻した。雲雀さんのふわふわとした黒髪が頬に触れて少しくすぐったい。もう少しだけ、とぎこちなく首を動かして視線を移すと、じっと双眸が見つめていた。次に訪れる隙を雌伏して待つように。
「お……男の人は男の人で色々あるんでしょうが、こういうのはダメです。好きな人同士でするべきです。特に、力で敵うわけの無い女の人のことは、尊重すべきだと、思います」
「ふぅん……やっぱりそういうものなのかな」
「そうです好きな人を大切にするべきです」
 存外同意する旨を示した雲雀さんにこれ幸いと畳みかけるように繰り返し言うと、ふいと雲雀さんは絡めた腕を解き、踵を返してシャツを整え、再びどっかとソファに腰掛けた。
 はじまりははじまりで唐突だったが終わりも終わりで唐突だ。
 嵐のような空模様にどう対応していいか分からず棒立ちになっていると、座らないのか、と雲雀さんが促す。流されるまますぐそこにあった向かいのソファに腰掛けると、雲雀さんはきゅぅっと目を細めた。微かに面白くなさそうに眉間に皺が刻み込まれている。しかし息を吐いて瞼を瞑り、もう一度開けた時、いくらか皺は緩んでいた。そうしてぼそりと、誰に言うわけでもなく吐き捨てるように呟いた。
「わかんないけど。君が淡々と窓を開けて掃除して、という姿を見るのは好きじゃない」
「は?」
「……。ところで君、好きな人いたっけ」
 早々に話題が移行した。好きな人、とは。好きな異性ということか。何故そんなことを問うのか、そもそも先ほどの行動はなんだったのか、それってまるで。
 言いようのない感覚が全身を駆け上がり、意図をはかりかねているのだと言い聞かせて口を噤み下を向いた。
 時間を置いて、再び抱きしめられた感覚や唇に触れた熱を思い起こしてふらふらとする。のろのろと縋るように上げた視線の先で、雲雀さんが微かに笑った。すてられたいぬみたいだ、と唇が小さく動いた。
「好きなものを大切にするという感覚はわかるから、君を尊重しよう。ただ、性行為は必ず好きな人同士でしなければならないという君の考えを、そのまま受け入れることは出来ない」
「……」
「この衝動を発散せずに放っておくと泣きを見るのは間違いなく君で、そうしたら本末転倒だ。……手っ取り早かったからここで済ませてたし、反応を見たさにこうしていたけど。まぁ、学校でこういうことをするのは今後やめるよ」
「…………」
 それでいいんだよね、と首を傾げる雲雀さんに、私は一言も言葉を発せなかった。
 雲雀さんが私に注ぐ視線は穏やかで、無邪気に透明だった。
 雲雀さんはたまに、様々なものを置き去りにして精神が子どもになる。もしかすると、誰よりも子どもなのかも知れない。倫理も道徳もなく理想の国を作り、ズレた思考を疑うことなくつきつけて実行する。力がある故に道を正す人間はおらず、おそらくはそのままにそれは為されるのだろう。
(……本当、たまらないなぁ。人として可笑しいでしょ、この人)
 蔑んでいるのに。おそらくは私を好いているであろうこの人は、好きという素振りさえ見せなければ手は出さないと言っているようなもので、放っておけば自然とぷつりと消滅しまうだろうに。
(……どうしたものかな)
 抱きしめた腕が、唇が、他の女の人にこれからも触れていくのだと考えるときゅっと胸が苦しくなる。もしかしたら好きなのか、と独白する自分がいて、好きになってどうするのだと、拒むように唇を噛む自分もいる。愛しげに見つめられれば見つめられるほど、馬鹿らしく切ない。


(110920)

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