まばゆいあなたは春の闇

 細く差し込むネオンの光にうつらうつらと微睡はじめた頃、ガチャンと金属の軋む音がし、室内が俄かに明るくなった。ハッと顔をあげれば馴染みのない玄関扉と作業着姿の一松が目に入り、一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなる。
 しかし頭上からタライが降ってきたような顔で硬直している人間を前にすれば、冷静にもなろう。ここにいるはずのない人間がこたつで寛いでいれば私だってそりゃ驚くが、温まった二の腕が暮冬の隙間風に鳥肌が立つまでそうしていられると敵わない。ひとつ咳ばらいをして「お茶淹れるね」と首を傾げてみせると、一松は警戒した猫の動きで、そろりそろりと近づいてきた。
「急にごめんね、すぐ帰るから」
 急須に湯をそそぎ、その辺りにあった湯呑に茶を淹れてすっと差し出す。たっぷり五分沈黙を貫いて湯気もたたなくなった頃、思い出したように口につけ、すすり、息を吐いて、一松はようやくぶつっと呟いた。
「いや鍵。どこから」
「おそ松から預かったの。で、せっかくだから顔でも見ていこうかな、なんて」
「おそ松兄さんに会ったなら尚更、誰が誰でも同じじゃないの」
「まあ……」
 六つ子なんだから、それはそうなんだけど。おそ松にしても一松にしても、この数週の間にずいぶんやつれたみたいだし。一松なんて、特別陰気な目が落ち窪んで肌は荒れてみえるし、黒ずんだ作業着も、機械油と皮脂が入り交じった臭いも、鼻に馴染まず尻の座りが悪い。
「気になったというか」

 沈黙。

「とにかく、お仕事お疲れさま。おかえりなさい」
 愛想よく笑って誤魔化せば、一松は目をきょろりと一回転させた後、首を竦めて小さくなった。一松は猫にも亀にもなる。 しかし今回の場合、いよいよの祝い事とすれば鯉が滝をのぼったようなものだろうか。
 うちのニート達が就職したのよ。
 松野家の母親・松代さんからそんな話を聞いたのは二週間ばかり前のことだった。なにせ九日連続勤務の徹夜明けのことだったので「どうせ三日も続くまい」と気にもとめなかっ
たのだが、そう広くもない赤塚界隈であの顔を見ない日が三日四日と続くうち、醤油差しが空のままである心地がするのである。
 松の一人二人を見たらサッと帰ろう。どうせ問題を起こしているに違いない。
 車のキーを回した途端、ふいに浮かんだ天秤が山道に傾いてしまったのは今朝のことだ。
 直進するばかりであった十字路でハンドルを右にきり、向かうは赤塚山脈。赤塚川をのぼり頭上に広がる冬空は冴え冴えと青く、理不尽な上司は崖下に落ちてしまえと一生懸命に願いながら山をのぼれば、やや元気を回復した私の関心は六つ子の働く工場そのものにようやく向いた。
 しかし進めば進むほど道はどんどん悪くなり、空は暗く、正気でない霧深さにちょっとも前が見えず死ぬ思いをする羽目になった。
 件の目的地を、ブラック工場という。

 山の上ともなれば「空気がおいしいね」と登山客と一期一会のやりとりをして然るべきなのに、ここは随分都会的だ。空気の味もさることながら揃いの制服を着たムジナ共は人に関心を抱く暇がなく、見覚えのある顔立ちは誰も彼も死んだ目をして、いよいよ何松だかわからない。
 定刻の鐘が鳴るのを見計らって当てずっぽうに声を掛けると、一瞬生気が戻った目が「なぜここに」と探るような色をしたので、先に聞けばおそ松――おそ松だった――は遊ぶ金欲しさに働いているという。予想を違えない素直さに満足し、さっさと山を降りようと踵を返したのだが「せっかくだから一松に会っていけよ。あいつ昇進したし」にぎょっとし、そのまま上がり込んでしまった次第だ。
 敷地に車で乗りこんだ時からやべぇ空気は感じていたのだが、併設されたタコ部屋――もとい宿舎も予想に違わず、いかにもな佇まいである。コンクリート製のひび割れた壁面を縋るように蔓が覆い、足を踏み入れると風から守られる代わり、底抜けの冷たさが骨にしみた。

 一室六畳間に六つ子を詰め込んで人の温みに任せれば窓の内側に霜がはるのもすぐだろうが、一人で待つのはなかなかに凌ぎにくい。あまりの寒さにかじかんだ指がようやく動く頃合いに窓枠を猫の尾が叩いた辺り、一松とは既にマブダチなのだろう。部屋に入り込んだ猫は私など知りませんよというように、こたつから出ないまま一松側に体を寄せる器用さを発揮していた。
「六つ子なのに一人部屋って、妙な感じだね」
 爪先を擦り合わせ、足裏の猫をつついて雑感を漏らすと、一松は曖昧に相槌をうって背中をまるめた。
「まあ、はじめは六人雑魚寝だったけど。勤務時間とか違くて」
「ふうん」
 私は一松の左腕につけられた腕章を見た。班長という役職がどれほどの意味を持つのかは知らないが、おそ松の口ぶりからすれば昇進したのは一松だけらしい。
「シューシンメイヨハンチョーだっけ、頑張ったんだね」
 沈黙。
「働いて間もないみたいだけど、スピード出世ってやつだね。鯉もエンジンつけて滝にのぼるんだね」
 沈黙。

 当たり障りない言葉で会話を試みたつもりなのに、壁とでも話しているのだろうか。とうとうぎこちなく視線を逸らされてようやく「あ、聞こえてはいたんだ」と安堵する事態がかなしい。耳の先が赤い理由が寒いのと照れているのと、半々なのだと思えば救われるのだが、常日頃半開きの目から表情を読み取るのは難しい。
 そもそも二人きりで話すのは随分久しぶりだ。


 幼少期の記憶の糸を手繰れば、何に触れても六つ子の顔が引き当たる。
 同じ年頃の近所のお友達というだけで六つ子には随分「世話になった」が、今でこそ自他共に認める非好青年の一松は、比較的と枕詞をつけて――真面目な性質で、誠実に世話を焼かれたように思う。

 落ち葉が滑る山の階段。アスファルトを擦るチョークの感触。カラスと一緒に帰りましょうと続く鐘の音。クソガキ集団と
名高い六つ子に混じって遊べばそりゃいい思い出ばかりでもないが、目を離せばあちこちに飛んでいってしまう彼らに置いてかれ、泣きそうな私の手をとってくれたのはいつも一松だった。
 だから、彼らのうち誰が好きかと問われれば「いちまつくん」とすぐに答えることが出来たし、誰にも言えない秘密を知るのも「いちまつくん」一人だけだった。

 二人で仔猫を飼ったのは、小学六年の冬のことだった。
 百花に先駆け梅が咲いても朝晩の気温は低く、ちょっとした買い出しをするにも一々大騒ぎしていたものだが、その日ジャンケンに負けた私達は身を縮こまらせて寒空を歩き、空き地に通りかかったところで今にも消えそうな「みいみい」
を耳に捉えた。枯草を掻き分け覗き見れば、産まれて四、五日そこらの仔猫が、段ボールの中から青灰の瞳をこちらに向けているではないか。

 捨てられたのかな。そう一松を窺うと神妙な顔で頷き、一匹だけしかいないねという。
 いちまつくんのとこって、猫飼えたっけ。一人捨てれば飼えるって母さんは言いそう。どうしよっか。
 同情心か偶然によるところの使命感か、頭の中には第一発見者たる私達がなんとかしなければという気持ちが強くあった。
 おれら二人で世話、する? おそ松達には内緒。だってバレたら猫、アンタのとこにまわってこないよ。すきでしょ、猫。

 北風には剥き出しの耳が千切れる危うさがつきまとい、薄く毛が生えたばかりの仔猫となれば、糸目の透けた靴下ほど冷たさに弱く見える。かじかむ手で触れた体躯は薄氷ほど頼りなく、「ちょっとした買い出し」を放り出して、ミルクを買いに走るのは体育の授業よりも真面目にこなすことに思えた。

 大抵は眠っているにしても、風のないところで匿えば寒さに負けずすくすく育ち、仔猫はすぐに這い歩くようになった。海亀の子が水辺に向かうよう、放っておくと表の通りに出て行ってしまうのは困りものだったが、私と一松の監視のもとでは空き地が仔猫の世界だった。
 中学にあがったら、アパートを借りよう。駅前から拝借した住宅情報誌をめくり夢を口ずさめば、一松は、じゃあ猫のこと勉強する。と照れたように呟いた。
 私は嬉しくなって、明日はバイトの求人誌でも拝借してみようかなと考える。自重で潰れてしまいそうなほど弱々しかった仔猫は、しっかりした足腰ですまして座っている。同意するようにみいと鳴いて、小さな頭を私たちに押し付ける。
 子供の掌におさまる小さな体の扱いは容易く見えて、しかし明晩、仔猫はひとり外の世界に飛び出して二度と帰ることはなかった。
 私は路肩にへばりついた毛皮を前に「一松くんが内緒っていうから」と癇癪を起こして泣いた。一松は何も言わなかった。

 一松個人とそれきり疎遠になったのは、言いようのない後ろめたさばかりではなく、中学にあがった我々の間にハッキリと現れた性差の壁もあった。
 同じ遺伝子を持つ六つ子とて六つ子から個になるのだ。こちらの輪郭がやわらかくなればあちらの輪郭は硬くなり、目の高さが変われば見えるものも変わる。構われたがりを隠さないおそ松だとか、流行りものに敏感なトド松であれば放っておいても言葉を交わす機会は多々あったが、猫が友達という一松とどんな顔をして話せばいいのだろう。色々な意味において。

 私は誰も知らない一件を恥として「なかったこと」にしておきたかったし、一松も部屋の隅から時折視線を寄越すくらいで、話しかけてはこなかった。
 六つ子の中でも一番のクズと自称する一松を切り捨てても仕方がない。いくら仲良くしてたって家族ではないし、性別も違う。昔みたいにしたければ、一松が動けばいい。だってずっと手を引いていたのは一松だもん。

「でも、まあ」
子供時代の夢は覚め、現実を歩く私の隣で六つ子はまだ夢を見る。夢を見ていた。二週間前のことだ。
「松代さんから聞いたときは冗談だと思った。一松が早々に役職持ちっていうのも意外っていうか、や、でも」
 プロニートとしては異端なことに、一松は猫検定を取得している。思い返せば未だ残る仔猫のやわさを掌に感じ、言外に責められているようでは拍手して讃えることが出来るはずもない。

 テーブルに手をついて腰を上げると、ふくらはぎがぶるりと震えた。こたつの中に入り込んでいた猫は隙間風に抗議するようにゃあと鳴いて、掛け布団越しにこちらを見上げている。
「じゃあね」
 猫を見下ろして呟くと、一松がぎゅっと眉間に皺を寄せた。
「帰るの」
「明日も仕事だし、すぐ帰るって言ったから」
「てか、アンタ今日仕事だったでしょ」
「な」
 にを言ってるの。私がびくりと硬直している間に、一松は畳みかけるように言った。
「サボりだか仮病だか知らないけど、なんで来たの。真っ当な社会人が気分転換に、クズの社会科見学ですかね」
「そんな言い方」
「何か違う? おれのせいにしたい癖に」
 図星を引いたと見たか自虐なのか、見事口を閉ざされた私に一松はヒヒと陰気に笑った。

 クソガキ集団に混じって健やかに成長した私の精神がやまとなでしこ成り得るか。答えは否である。

 六つ子はその奔放な生き様がよく出来た喜劇のようで、しがらみのない子供時代の象徴だ。天敵となりえない生き物であれば共生してストレスを抱えることもないと、冷やかし半分に来ておいて、いざ社会でやっていけているところを目にすると妙に心が沈む。
 赤塚に六つ子がいなかった。赤塚一ダメと言っても過言ではないあの遺伝子がここのところ街にいなかった。パチンコ屋にもスタバァにもいなくて、路地裏では猫が退屈そうに鳴いていた。知らないうちにこんなところに就職して、一松は班長なんて腕章までつけちゃって、久しぶりに話してみたけど余所余所しいし、いやなこと言うし。
 一松が私よりダメであれば、仔猫のことも欠勤のことも一松のせいに出来るのに。

 逃げの口上を抱いていたことを見透かされ、また都合のいい逃げ場にするのかと暗に非難されれば耳が痛く、火照る顔を隠すために俯き恥ずかしさに震えた。
「はっ?」
 ややあって、一松の慌てた声が耳に届いた。
「や、おれ、別に」
 本当は責任を感じることなんてないのに。
 寄せる風が薄硝子をひとしきり揺らし、細いうねりを立てて通り過ぎる。六人ひしめけば乱痴気騒ぎで気に留める暇もないだろうが、この部屋は一人二人で使うにはあまりにも静寂が痛い。土をいじくるようなぼそぼそとした煩悶が耳に届き、ゆっくり面をあげると、一松はあからさまにほっとした顔で脱力し、躊躇いがちににじり寄ってきた。
「お、おれのせいにしていいから」
 なんで、と聞く前に一松はサッと顔を伏せた。
「一松?」
 一松が震えていた。ただ俯いているだけなのに、長距離を走ってきたように息が荒く、畳を引っ掻く指がぶるぶる震えていた。
「……し、しぬ」
 そんな呻き声をぼそりと漏らした。
 そして実際、行き場もなくぶらりとしていただけの私の手をふいに握ると、それきり動かなくなってしまったのだ。
「一松」
 問いかけても返事はない。黒ずんだ手もまるい背中も、トラックに飛び出した猫のように緊張してピクリともしない。
 今まで地底人のような暮らしをしてきたのだ。そりゃ人間の女に不慣れでも不思議はないが、手を握るだけでこんなことになってしまうのなら、仔猫のほうがよほど丈夫だ。このまま心拍の打ち過ぎが原因で死んでしまうんじゃないだろうか。
 生死を危ぶんで顔を覗き込むと、一松の頬は真っ赤に染まり、虚ろな瞳は期待に黒く濡れていた。空いた手をそっと重ねてみると
「ヒッ」
 と引きつった声をあげて、じわじわ汗をかきだした。ぬめる掌がすり合って汚れがうつれば、泥遊びをした子供の記憶がふと蘇る。
 だけどここでは、手を洗っていらっしゃいと促す松代さんの声は聞こえない。身綺麗にしろと口うるさい兄弟もいない。班長だなんていうと偉そうに聞こえるが、そのうち不衛生が祟って本当に倒れてしまいそうだ。こんな場所では鳥葬にでもされそうだし、それは少し可哀そうに思う。
「ここにいたら、一松が養ってくれるの」
 冗談と伝染した期待が二割。一瞬脳裏を過ぎたかつての夢を早々に打ち消すよう、言った傍から冗談っぽく笑うと、
「ここ猫飼えるから」
 と間髪入れず一松の声が被さった。
 噛みつく様な強い語気だった。僅かに怯んで言葉を紡げずにいると、一松は悔いるように唇を噛んだ。それでも目は逸らさなかった。
「だ、だから別に帰らなくてもいいですけど」
 熱く湿った掌が、親の仇みたくギリギリと手の甲を締め付ける。
「おれの金で面倒、見れるし」
「それは」

 そういう意味なのだろうか。終身名誉班長って、終身雇用のことなのだろうか。墓込みのサポートなのだろうか。無責任に夢を語ればそれでよかった子供時代とは違うのだと、それこそ痛いほど思い知りながら意識を飛ばしているうち、こたつから這い出た猫が伸びをして、今更ご機嫌に頭を擦りつけてここが墓場だと逃げ場をなくす。
「それに、す……すき……でしょ」
 猫。言い訳染みた台詞を吐いてとうとう限界が来たのか、一松はブツリと鼻から血を流した。慣れないことばかりするから、こうなる。
 徐々に力が抜けていく手からそっと逃れ、溜め息をつくと、怯えるように一松の肩が跳ねた。それを宥めるように制服
の袖を鼻の下にあてがえば眉間に皺を寄せ、信じられないものでも見たような顔をする。この血を落とすのは随分手強く、明日の出社が予定通りにとはいかなそうだ。
「一松のせいだよ」
 一松が息を飲んだ。視線が痛いので目を逸らし、懸命に血を拭った。

 大人の都合を煮詰めたようなこんな場所でも、うつくしい子供時代に殺した夢が蘇れば、光といえるのだろうか。この手を握っていていいのだろうか。
 春の気配はするのに先行きは見えず、ただ少なくともわかるのは、責任をとらなければいけないのは、どうもこちら側だってことで。



(2018/12/3 …2016/8寄稿)

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