無題

最初はアルバイトをしていたトド松だった。
その次は、恋をしていた十四松。

順番で言ったら次は僕、ぼんやりとだけどそう思った。だから僕は家を出た。
目的があるわけでも行くあてがあるわけでもない、言ってみるなら逃避行。
…何かしないと。
そんな焦りみたいなものが漂う気がする部屋から抜けだして、カラッポの財布は置いてきたけど、ポケットの中にはいくらか小銭が入っていた。
数えるのも面倒だから適当に安い切符を買っていつもと違う色の電車に乗って、この先どうすんの、なんてさ、聞いてみたって答えてくれる兄弟はいない。
窓の外の見慣れない景色は、だんだん人の頭に隠れて小さくなっていった。通勤の時間でもないのにどうしてこんなに混んでるんだろうね、人多すぎ。
ひと駅ごとに窮屈になっていく車内は息苦しい。だけどこんなに人がいっぱいいたって誰も僕を気にも留めないこの雰囲気はちょっと楽でもあった。本当にちょっとだけだけど。
あーあ、これからどうしよう。
嗅ぎ慣れない匂い、人の集まる音、淀んだ空気は停車駅の数十秒じゃ入れ替わることだってできないし、僕はどこで降りたら良いかもわかんないし。

『次は今北沢、今北沢……は、お乗り換…』

ざわつく車内に微かにそんなアナウンスが聞こえる。
それを合図に席を立つ人、荷物を持ち直す人、イヤホンを外す人…何、みんなここで降りるの。
どうしようか迷う暇もなく、僕は人の流れに何となく流されながらホームに降りた。
「え、ちょ…あっ」
そのまま人の波は僕を巻き込みながら進んでいって、僕はそこからひとりはぐれることもできず、気がつけば別の色の電車に乗っていた。

ええ…どうすんのこれ。


この電車がどこへ向かっているのかもわからない僕は、ひとり背中に伝う汗に嫌な予感を感じながらも動けずにいる。
慣れない景色だからっていうのもあるだろうけど、思えばずいぶん遠くへ来たような気がするよ。あ、待って。お金足りんの。
ポケットに残った小銭を手のひらに広げてみると微妙な金額…ギリでアウト、たぶん。
とりあえず次の駅で降りて、誰かに迎えに来てもらおう。電話代くらいなら残ってるし、ヤメヤメ、逃避行おしまい。
さっきよりも混みあう車内は人との距離も近くて落ち着かない。冷や汗ダラダラの僕はハタから見たら不審者に違いない、その証拠にすぐ前に立つ若い女の子がチラチラ僕に警戒の視線を送ってくる。
まだ何もしてない…や、別にこれからもする気なんかないけど。そんな余裕ないしそんな趣味もないし。ちょっといい匂い、くらいは思ったけどそんなのそっちのせいでしょ。
あー、電車なんか乗るんじゃなかった。
結局ひとりじゃ何もできない自分を思い知りながら次の駅に到着するのを待つ。そんな時に限って駅は遠くて、距離とお金がイコールで繋がって料金メーターが跳ね上がっていく想像に震えた。

「…あの…」

そんな中不意にかけられた声、ビクッと大げさに反応する僕に、周りの何人かが眉をひそめて僕を見た。
声の主は目の前の女の子のもので、コソコソ僕を窺っていたその目が今は真っ直ぐ僕を見ている。
その様子に周りの乗客が一歩退くのがわかった。
え、何この空気。冤罪冤罪、なんにもしてないって。
「な、え、あっ」
「さっきから思ってたんですけど」
言葉にならない僕の声に被さってくる言葉…終わった。

『次は……ノ沢…藤ノ沢……は…替え…』

…あ、終わらなかった。


   *   *   *


えー…何この状況、どういうこと。
僕はホームのベンチで石のように固まったまま、なんで、をひたすら繰り返していた。
到着した駅でドアが閉まるのを見計らって転がるように降りたのに、まさかこの子までついてくるなんて思わないでしょ。
しかもなんか隣にいるし。つーか差し出された水を素直に受け取る僕も僕。正常な判断なんかできっこない。
無言のままペットボトルの水をごくごく飲み干す間にも、その視線は真っ直ぐ僕に注がれている。
「…落ち着きました?」

なに言ってるの、落ち着くわけない…!

「駅員さん呼んできましょうか」
「あ…や、別に…」
どうやらこの子は僕の体調が悪いと思って心配してくれたらしい。
やってもいない犯罪で駅員に突き出されずに済んで安心した?そんなわけない。
優しくされればされるほど、僕は言い出せなくなっていく。
具合がわるいのは僕じゃなくて懐ってね、成人してるのに兄弟に迎えに来てもらわないと帰れないとか、言えるわけがないでしょ。
初対面の女の子の前で恥を晒せないくらいのプライドなら僕だって持ち合わせてる。だから早く、僕から離れて。
「どこまで行くんですか?」
「どこって…別に…」
「良かったら付き添いますよ、大変でしょう?」
だから、そういうんじゃないって。何なの、初対面にこんなに気軽に声をかけてくる人種が一番苦手なんだけど。絶対コイツ「あっち側」の人間だよ。
迎えに来てもらうから大丈夫、そう言いたいとこだけど生憎それができない理由がある。
僕は携帯を持っていないし、公衆電話は改札の外。ヤバい、まじでヤバい。
「別、べ、別に、大変じゃないし。そっちこそ、行くとこあるんでしょ。こんなとこでボーッとしてないで行けば」

「……」

突然の沈黙。何気ない僕の言葉に、空気の温度が変わった気がした。
「行くとこ…っていうか…私は…」
歯切れの悪い返事が意外で、今度は僕が彼女を見る。
今の今まで僕を心配していたその顔が別の色を浮かべて、それが少しだけ気になった。
旅行というにはあまりに荷物が小さすぎた。だからと言って地元の人間でもなさそう、この駅に降りてすぐに駅名を確認してたから。
「…何でこの電車、乗ってたの」
「えっと…」

…うわー、これたぶん面倒なやつ。

ワケあり感満載の態度に聞くんじゃなかったなんて思っても、もう遅い。
次に飛び出した言葉に僕は今度こそ頭を抱えた。
「なんていうか…誰も私を知らないところに行こうかなって…」

…うわー、面倒通り越してヤバいやつだわ。

「何それ、し、死ぬ、とか」
「死ぬ?誰が?」
「……」
目の前の女の子を指差すと、彼女は僕の真似して自分を指して首を傾げた。
それから小さく笑って「まさか」と続いたけど、それを信じられない僕がいる。
だってそうでしょ、僕たちは初対面だし。その顔の裏にある感情を察することなんかできるはずもない。本当に笑っているのか、それとも心は逆なのかなんてさ。
中途半端に接してしまった今となっては知らないふりもできない、だって明日のニュースで若い女性が自殺したとか見てしまったらどうすんの。
人生最後に会話したのが僕とか荷が重すぎる。そんなマイナスなことばかりがぐるぐると頭をめぐって、本当に具合を悪くしそうだよ。
「…ちょっと、色々と疲れちゃって」

…ほら、この台詞、あぶないやつ。

その小さい鞄の中に遺書とか入ってるかもしれない、どうするの、どうすればいいの。
こんな時に頼りになる兄弟もいないし、十四松、お前どうやって初対面の女の子の自殺を止められたんだよ、芸?あの水のやつ?無理無理無理、僕じゃ絶対無理。
何かに救いを求めるように視線を泳がせると、もうひとり分の視線もついてくる。
あー、ほんと電車なんか乗るんじゃなかった…と、その時。

『心が疲れたら亜ノ島に行こう』

壁に貼られたありふれたポスターに書かれたありふれたキャッチフレーズ、それの何が響いたのかはわからないけど。
「亜ノ島…」
わからないけど、僕と彼女の声が重なった。


   *   *   *


僕たちはまたあの電車に乗って、終点を目指している。

『…一緒に行く?』
『や……その…お金、ない。出られないから…』
『…もしかして、だから様子がおかしかったの?』
『そう、だけど…』
『何だぁ!お財布忘れたんならそう言えばいいのに!』

意を決して打ち明けた言葉に彼女の反応は意外にも軽くて、足りない分なら私が出すよ、なんて言われたら断ることもできないし。
結局ここでも流されて、僕は彼女の後ろにくっついて一緒に行動している。
あっち側の勢いってやつは怖すぎる。もう帰りたい、まだ亜ノ島に着いてないけど今すぐ帰りたい。そう思う間にもどんどん僕の家は遠くなっていった。
「水族館…洞窟…あ、行列のできるパンケーキだって。パンケーキは別になぁ…」
チラシを見ながらブツブツ独り言をこぼすその横顔は、今は悲壮感とか見当たらないけど。
悩みとか焦りとか、僕みたいにどんよりと重たい感情に縁のなさそうな顔してるのに、何にそんなに疲れたんだろうっていうのはちょっと気になる。
でも生憎、僕はそんなことを聞いてやれる人間じゃない。聞いたところで僕には何もできないし、死のうとしてる人間かもしれないなら尚更ね。
だから今の状況は荷が重すぎた。選択肢を間違えたらゲームオーバー、そんなイメージ。
「ねえねえ、どこに行きたい?」
「…別におれは…そっちの行きたいところで…」
「行きたいとこかぁ…私は、そうだなぁ…」
彼女につられてチラシに視線を落とすと、ちょうどピンク色に染められた丸い爪の先に断崖絶壁に砕ける荒波の写真があった。
ええー…亜ノ島の裏側は別の顔、なんて明るく書いてあるけど駄目でしょ、駄目だって。
「あ…あっ、や、やっぱり着いてから決めたほうが良いんじゃない」
「ん?」
ん?じゃないでしょ、こっちは必死だってのに。
ここに行きたいなんて言われたら無理、詰む。
「実際見ると違うし、写真と、その」
「あー…そっか、それもそうだね」
彼女は納得したように頷いて、チラシをたたんで鞄にしまった。
ホッと胸を撫で下ろすのも一瞬だけで、僕はすぐに悪い予感に頭を支配されていく。

「何食べようか、美味しいものが良いなぁ」
…最後の食事だから?
「あんまり混んでないと良いね」
…見つかったら止められるしね。
「亜ノ島、初めて行くんだ」
…最初で最後の思い出ってやつ?

彼女の言葉の何もかもが最悪の結末に向かっていく気がして、さっき飲んだ水も全部冷や汗になって流れていった。
「大丈夫?なんか静かだけど…」
大丈夫なわけなーい。もう、帰りたーい。逃げ出したーい。
「ヒッ」
思わず猫耳が飛び出しそうになるくらい驚いたのは、僕の背中に小さな手が触れたから。
小さい子どもにそうするように、僕の背中をさする彼女の手。
何、何なのこいつ。距離感おかしくない。それとも何、男に触るの慣れてんの。
あー、なるほど。なるほどね、ねえ、絶対ビッチでしょこの人。スキンシップ過剰すぎだし絶対そう、うわー、ビッチか。
「すごい汗だよ、ダメそうだったら降りようか?」
だから、近いって。そんなに顔、覗きこまなくても見えるでしょ。
頭の中には物凄い速さで言葉が駆け抜けていくのに、そのどれも声に出すことができずに僕はぶるぶるとみっともなく震えるしかない。
あったかい背中、思い出すピンク色の爪、なんかいい匂いするし、あー、何なのこの状況。
けれども不思議なもので、ひとりでいた時は全然思いもしなかった疑問が電車の音に揺り起こされるように湧いてくる。

この子と一緒にいる僕は今、どんな風に見えてるんだろう。


   *   *   *


電車が終点に到着すると、いよいよ僕は焦った。
僕の切符を乗り越し精算機で処理してくれる彼女の財布をチラリと覗いたら、年頃に似合わない札の厚さ。
予感はどんどん確信に変わっていく、そう、このお金を全部使いきって死ぬつもりなんだって。
「海の匂いがするね」
「う、うん」
平日と言っても亜ノ島は観光地だけあって人の姿もそこそこあった。
僕以外の人の気配に安心しながら、何となくみんなが向かう方に歩いて行く。
キョロキョロと辺りを見渡しながら歩くその横顔を僕はずっと見ていた。
だってほら、何がどうなるかわかんないし。目を離したら危ないってその一心で、ガン見はできないけど僕よりちょっと低いところにある頭を半目で監視する。
女の子と…や、男でも家族以外の人間とこんなに近くなることなんて今までなかったから、やけに緊張して歩き方さえぎこちない。
とにかく何か話さないと。沈黙の間に覚悟決められても困る。
「ね…ねえ」
「ん?どうしたの?」
「あ…や、えっと」
声をかけてはみたものの、その先が続かない。
僕の心を覗き込むみたいにじっと見つめてくる、だからその顔、近い、近いって。
「…ね、ねこ」
逃げるように視線を外したその先にふんわりと丸いかたまりを見つけて、思わず口にしたのは僕の唯一の友達の存在だった。


「えっ、こんな細い道通るの?誰もいないよ?」
焦ったような声がすぐ後ろから聞こえてくる。
僕は足早に細い路地を抜け、ちゃんとあの子がついてきてるかを確認しながらねこがいそうな場所を探す。
「さっき、野良がいたから。人慣れしてるみたいだし、近くにたぶんもう何匹かいそう」
「く、詳しいんだね」
「まぁ、好きだし」
適度に隠れる場所もあって、静かな場所。あんまり人の多くない…あっち、たぶん。
ねこを見つけた僕は、さっきまでのギリギリな精神状態からちょっとだけ回復していた。
きっと何とかしてくれる、ねこは偉大だからね。その証拠に僕は今までの自分が嘘みたいによく喋ることができる。
「ねぇ…」
「あ、ほら。いた」
心細そうな彼女の声に被せて、小さな公園に集まるねこを指差した。
振り向くとすぐ近くで目が合って、ハッとしたけどもう遅い。
や、だって僕の方見てるって思わなかったし。
顔が赤くなるのをどうにもできなくて「あ…」と言葉を詰まらせると、僕を映した丸い目が優しく細められた。
「ホントに好きなんだね」
「あ…う…うん」
そしたらもう、また逆戻り。
「もっと近くに行ってみようよ」
僕を追い越してねこに寄っていく背中に、僕ははぁ、とため息を吐いた。


公園には地元の人っぽい老人がふたり、石のベンチに腰掛けて話し込んでいる。
その他には誰もいなくて、ねこ達がゆったりとくつろいでいた。思ったよりも数がいる。
穏やかそうなやつを見繕ってポケットの中の猫じゃらしで誘ってやると、すぐに何匹か僕のもとに集まってくる。
彼女はそんな僕を見て驚いたように目を開いていた。あ、ちょっといい気分かも。
「すごい、いっぱい寄ってきた!」
「触ってみる、こいつとか良さそう」
「で、でも、触ったことないよ」
「だいじょうぶ、黒白はわりと懐くから」
黒白のねこをひょいっと抱き上げて、ちょっと相手してやる。ねえ、良いよね、触らせてやって。
ねことなら喋らなくても通じ合えるからいい。
おとなしくなった黒白をしゃがみこんだ彼女の目の前に寝かせると、ちょっと緊張したように俺を見る。
女の子にこんな風に見つめられると落ち着かないけど、そんなに悪い気もしない。
「じっと見てると警戒するから、横からこう…そう、この辺」
「こ、この辺…?」
小さな手がそっと伸びて、恐る恐るねこの首に触れた。
ちょっと身構えたねこもすぐにその手に慣れて、くったりとリラックスしたように目を閉じる。
その様子を見ていた彼女がパッと顔を明るくして「うわぁ!」と声を上げた。
「ゴロゴロしてる」
「後ろ足とか尻尾は触んないほうが無難。あとはこの辺とか…」
「ここ?」
「そうそう、上手いじゃん」
「ほんと?」
あー、やっぱりねこは偉大。
いつの間にか緊張もほぐれていって、僕たちはただひたすらにねこと遊ぶ。
黒白のやつも気持ち良さそうに甘えて、その姿につられるように僕も太陽のあったかさにいい気分になっていった。

…そういえば、名前とか。何ていうんだろう。

一瞬だけ頭の中に浮かんだけど、そんなの聞いても意味ないか。
それよりも彼女が今どんな気持ちでいるのか、それが気になった。
誰も自分を知らない場所へ行きたいって、じゃあ今はどうなの。
知らない僕と一緒にいて、どんな気持ち。
ていうか、何にそんなに疲れちゃったんだろうとか。
おんなじねこを触っているけど、ねこと僕は気持ちが通じるけど、この子と僕は赤の他人だ。
だからこの子が何を考えてるのかとか全然わからないし、聞いたところで理解できる気がしない。
だけどあんなに逃げ出したかったのに、今は不思議と居心地良ささえ感じている。
ねこを撫でる手が優しいからかもしれない、ねこ好きに悪いやつっていないし。
「……」
無言。ひたすら無言。
黒白の毛の間からチラチラのぞくピンク色の爪とか、僕よりも細くて節のない指とか、そういうのをぼんやりと眺めながら。
さっきから思ってたけど、女の子ってどうしていい匂いがするんだろう。
チラ、と盗み見た横顔は柔らかな太陽に照らされて、何だかとても眩しかった。

…ねえ、もったいないよ。死んじゃうとか、考えるのやめたら。

何度もそんな言葉がこみ上げてきて、何度もそれを飲み込んだ。
僕だってクソみたいな毎日を過ごしてるけど、死にたいだとか本気で思ったりしない。
ただ、変わっていくのが怖いだけ。ひとりになるのが怖いだけ。
君はどうなの、まだ死にたいって思ってるの。

「…ねえ」

ぴた、と彼女の手が止まる。ヤバい、ずっと見てたのバレたかも。
「な…なに」
「ねえ、生きてるって良いね。命って、大事だよね」
僕に向かって彼女が微笑む。
…たぶん、今を逃したら次はない。
「そ、そう。やっぱ人間、楽しく生きなきゃ。ねこみたいに、おれも、だから君も、生き、」
焦れば焦るほど僕の言葉は躓いてバラバラに転がっていく。
でもそんなのどうだっていい、とにかく必死にこの子の気が変わらないように繰り返す。
どうでも良いような人生送ってるけど、僕は君と一緒に死んであげようと思うほどこの世に絶望していない。
死ぬのとか怖いし、たぶん注射より痛いし、ねえ、そうでしょ。
めんどくさいって言いながらねこみたいにゴロゴロ生きてる方が絶対ラク、絶対いいって。
何を言っているのかもう自分でもわからないけど、とにかく僕は言葉をひねり出して、だけどもそんな言葉もすぐに尽きて、ああ、もうおしまい。
でも、ふと声の途切れた僕の目に映ったのは、泣き出しそうな彼女の顔だった。
泣き出しそうで、でも笑ってる、そんな顔だった。
「良かった」
ふかふかのねこの背中の上で、何かが僕の中指に触れる。
それがこの子のピンク色を乗せた指先だって気付いたのは、その温度が離れてしまった後だった。
「もう、死のうなんて思っちゃダメだよ」

……は?僕?


   *   *   *


ちょっとだけ陽が傾きかけた亜ノ島。
来た道を戻る僕の目には、僕より小さな背中が映っている。
思い出してはこらえ切れずに肩を揺らして笑う彼女に、僕は何度目かの舌打ちをする。
…まさか、お互いおんなじこと考えてたなんてね。
この子の目には、僕が今にも死にそうに見えたらしい。
お金も持ってなかったし、携帯だってなかったし。それってそっちの常識でしょ。まあね、僕だって似たようなモンだけど。
「はー、もっと早く聞いちゃえば良かった!」
すみませんねぇ、大事な休日を無駄にしちゃって。全部僕のせい、いいですよ、それで。
せっかく亜ノ島まで来たのに水族館にも洞窟にもパンケーキの行列も見られなくて、酷い休日だったでしょ。
「ねえ、でも楽しかったね」
「…は?」
「あんなにいっぱいの猫触ったの初めて」
「…あ、そう」
大通りに出ると、駅に向かう人の姿があちこちに見える。
前を歩いていた彼女が僕と肩を並べてまた笑った。
「猫といる時と全然顔が違うんだもん」
「…ほっといてよ」
「あ、ねえ、お土産屋さんがあるよ」
パーカーの袖をくい、と引っ張られると、僕の心臓もそっちに引っ張られて飛び出しそうになった。
だからさ、そういうの。そういうのやめてって…あ、無駄か。そう言えばこいつビッチだったわ。
どうせ誰にでも似たようなことしてるんでしょ、もう二度と会わないんだしさ、どうせなら童貞捨てさせてくれるくらいのサービスでもしてくれない。

…なんて、言えるわけなーい。

ふらふらと流されるまま小さな土産物屋に吸い込まれて、僕は特に欲しい物なんかないけど、でも一個だけ小さなお守りに目を留めた。
小さなピンク色の桜貝の…この子の指先に似てるやつ。
「なーに、恋愛成就?好きな子いるの?」
「…は?」
「あ、可愛いね。私も買って帰ろっと」
「え、あ、や…」
違うって言う前に、ふたつのお守りを手に彼女はスルリと人の間を抜けていく。まるで、ねこみたいに。
いたたまれなくて店を出た僕は「恋愛成就」の文字を思い浮かべて、それからあの子の顔を思い浮かべて、胸のあたりに走るムズムズした何かから逃げるように頭を振った。


   *   *   *


帰りの電車賃は、770円。
意外と安いと思ったけど、その金額さえ持ち合わせていなかったのが僕。
帰りの切符を差し出しながら、彼女は僕にありがとう、と笑った。
「凄く楽しかった、猫も可愛かったし」
「…あ、そ」
うん、僕も。その一言さえ口にできない。
あの子が買った恋愛成就のお守りを思い出して、触れてしまわないように気をつけて切符を受け取る。お守りの相手に悪いし。
ICカードを使うんだと言った彼女が一体どこまで帰るのか、僕には知る由もない。
あっち側の人間だったら、挨拶がわりに聞くことだってできるんだろうけどね。
「……」
「…ねえ」
ぬるい風が吹くホームで小さな声を聞き逃しそうになって、僕は視線を彼女に向ける。
彼女はもうすっかり知り合いみたいな顔で、僕を見て笑った。
「今度は私の街に遊びに来てよ」
「…無理」
「えー、即答?」
「…お金ないもん」

…だから、迎えに来てよ。

もう会えないんだから、それくらい言ってやってもバチは当たらない。
そう思っても僕は肝心な部分だけは言えなかった。いくら僕だって、それが社交辞令だってことくらいはわかってるし。
これでおしまい、もう二度と会うこともないよ。
間もなく電車が来るらしい、電光掲示板にそんな文字が流れていく。
僕の逃避行は今度こそ終わる。結局何かが変わることもないまま、どうしようもないニートのまま。
パーカーのポケットに手を入れると、指先に小さな紙袋の角が触れた。痛い。
そんな僕を笑うみたいに、やけに明るい音楽が鳴る。
警告音を鳴らしながらホームに電車が滑り込んでくると、急に寂しさがこみ上げてきた。
流されてばっかりの一日だったけど、僕は今日始めて電車に乗り込む人の波に乗れずにいる。
「大丈夫?」
だいじょうぶじゃない、って言ったらどうするの。たぶん、どうもしない。
この一日が終わるのがもったいないって思うのは僕だけ。
この子はただ勘違いで僕に付き合ってくれただけ、きっとあっちの世界では友達もいて、仕事もして、もしかしたら彼氏もいる。
僕はリア充の端っこにちょっとぶつかっただけの…思い出にだってならない、そんなやつ。

…だけど。

「はい」
俯く視界に不意に亜ノ島の風景が割り込んできて、僕は驚いて顔を上げた。
「迎えに来てほしくなったら、これ」
「な…なに、これ」
「また猫に触らせてよ、ね」
「ど…どういう、」
「あ、ほら!もうドア閉まっちゃうよ!」
彼女の声に背中を押され、僕は慌てて電車に乗り込んだ。
振り向いた時にはもうドアが閉まる瞬間で、彼女の口が何かの形に動いたけど、僕の耳には届かなかった。
鈍い音を響かせて、余韻にひたる間もなく電車が走り出す。
窓から見えるあの子の笑顔もすぐに見えなくなってしまって、僕の手には亜ノ島の絵葉書が一枚だけ残された。

「…あ」

裏側に、ちょっと癖のある文字が並んでいる。
あの子の住所と、それから名前が書かれている。
結局聞けずじまいだったあの子の名前、これ、どういうこと。ええ、どういうことなのこれ。
どういうつもりで渡したの、これ。何でこんなことするの、ええ、意味分かんない。どういうこと、ねえ。
頭の中で繰り返しても、答えてくれる人なんかいるわけない。
ムズムズしてどうにかなりそうで、ヤバい、ヤバすぎてもうケツ出すしかないけど、それもっとヤバいやつ。
「あ…う…」
どうしようもなくて葉書をポケットに突っ込むと、さっきの紙袋の角がまた刺さった。痛い。


車内は来た時とおんなじ、淀んだ空気に満ちていた。色々なものが混ざった独特の空気のどこかに、あの子の匂いが顔を出した気がした。
すん、とパーカーの袖の匂いを嗅いでみたけど、あの子の匂いはもうしない。
僕はその辺の空いていた席に座って、ギュッと目を閉じた。
そうすれば瞼の裏には桜貝のお守りが浮かぶ。ピンク色のあの子の爪に似てるやつ。

『楽しかったね』

他人に言われたことなんかない言葉が電車の音にのって繰り返されて、僕の頭はぼんやりと霞んでいく。
きっと、これは夢だよ。たぶん、次に目を開けたら部屋のソファの上にいる。
そんな風に言い聞かせながら、僕はあの子に自分の名前を教えてなかったことを思い出した。

…あ、そうだ、六つ子ってことも言ってない。

僕を迎えに来たあの子の前に六人並んだら、きっと驚くだろうね。もしかしたら腰抜かすかも。
まぁね、六人の中から僕を見つけられるなんて思ってないけど。
思ってなんかないけどね、ポケットの中に少しだけ残った小銭を手のひらに広げてみる。
切手代には足りるけど、これじゃ駅の入場券も買えないし。

…ねこカフェだったらギリいける、かも。

女の子に奢られっぱなしで悪いなと思うくらいのプライドなら、僕だって持ち合わせている。
駅についたらアルバイト情報誌でももらって帰ろう、そうしよう。

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