鬼の棲む場所

 寄り道をすると鬼がでるよ。

 秋の日は釣瓶落とし。学校帰りに友人の家に寄ってお喋りに勤しめば、帰路につく頃にはすっかり日は暮れていた。お勉強会と称して集まれば、親は渋い顔をしながらもそう口煩くは言ってこない。しかし祖母だけは、夕飯時に間に合わなかった私をひっ捕まえて、皺くちゃの顔に更に皺を寄せて、声を潜め低く言い聞かせるのだ。

 寄り道をすると鬼に食べられてしまうよ。

 並盛町の山間部に位置する我が地域には、古くから言い伝えがある。
 天神山を一人で歩くと鬼に逢う、というのだ。
 天神山とは全国津々浦々にある天神山のひとつで、並盛町にある天神山はその昔、鬼が住みついて里の子どもをさらっていったという。無論よくある年寄りの昔話で、誰それが子どもの頃に鬼を見たとか、連れ去られたとか、喰われてしまった人の話も聞かない。夕暮れ前には帰って来いという躾であることに違いなく、純粋で素直な幼子を除けば、皆話半分に聞いていた。
 勿論私もその一人だった。
 小学校高学年にもなれば尚更で、ランドセルを背負って月の影で遊び帰ることは日常だ。野太くギャアギャアとカラスが騒ぎ、黒々とした木々がざわめく様子は怖いと思うが、駆け足で帰ればいいだけだ。天神山は通らない。だって、靴が汚れるから。小さな頃は小さな頃で言いつけに従っていたし、考えてみれば、あの山で駆けまわった記憶はほとんどない。
 天神山には鬼が出る。誰も見たことのない鬼が出る。

 午後からだいぶ、風が強くなってきた日だった。その日の夕暮れ、登下校を共にする子と帰り道に喧嘩した。思い返そうとしても思い返せない、実に些細な理由だった。ちっぽけな自尊心を折ることも出来ずに勇んで帰り、当然方向もルートも同じわけだから、前をずんずんと歩いていた私は見栄を張って、普段は通らない、暗い暗い山道にこれ見よがしに足を踏み入れた。

 鬼が出るよ。

 人目がなくなれば後悔していることを隠さない。おどおどと周りを見回して、あの子が追いかけて来てはくれないかと振り返り振り返りしながら、奥へ奥へと迷い込んでいく。
 そう時間は掛からないだろうと踏んでいたものの、存外道のりは遠く険しかった。街灯のひとつもあるはずもなく、辺りはすっかり闇に包まれ、枯れ尾花は幽霊にも化け物にもなった。
 真っ直ぐに帰ればよかった。変な意地を張るんじゃなかった。いつの間にか、ふっと後ろに何かが立っていないだろうか。
 進めば進むほど生い茂る草は背丈よりも高くなり、もともと悪かった道は更に悪くなってきた。見通しもまた悪く、蛇のように曲がりくねってなかなか終わりが見えない。すぐそこの自動車道から遠いわけもない。それなのに、人里離れた秘境めいた空気が漂っている。人が踏み入れてはいけない、鬼の住処として。
 喉が渇いてきた頃、がさがさと草をかき分けるような音が視線の先から聞こえてきた。
「ひっ」
 小さく悲鳴をあげて心臓がとまりそうになる。急速に冷えてゆく思考の中で、祖母の言葉だけが壊れたスピーカーのようにぐるぐると駆け巡った。
 寄り道をすると寄り道をすると寄り道をすると寄り道寄り寄り寄り道寄り道をするとすると寄り道をすると鬼に鬼に鬼鬼鬼に鬼に――寄り道をすると鬼に食べられてしまうよ。
 まさかと思い身構えても、しかしその影は絵本や紙芝居で見た、思い描くそれよりも細く小さかった。がさがさと茂みをかき分けながら顔を出したのは、中学生らしき制服を纏った男の子である。ツノも無い。
「小学生? ……何してるの、こんなところで」
 安堵の表情を浮かべた私に、彼は怪訝そうな声をあげた。
 テレビで流行りのトップアイドルとはまた違う、涼しげで瀟洒な面差し。眉を潜めて怪訝そうな顔をするその様にすら迫力を感じる。
 言葉を詰まらせる私をよそに、彼は不遜にじろじろと頭から爪先まで眺めはじめた。
「並盛北小学校五年一組、ミョウジナマエ」
 通う学校に学年にクラスに名前。唐突に当てられれば驚かないはずがなく、一息に緊張感が高まる。警戒心に後ずさりすると、彼は無言のまま、とんとん、と胸元を指先で叩く仕草をした。目は離さないままおそるおそる手をやると、安全ピンの冷たさにビニールのつやつやとした感触が指先をなぞった。
「あ」
 名札だ。気まずさに覆い隠すと、ふ、と彼は笑った。
「勇ましいんだか憶病なんだか、わからない子だね。それで、何してるの」
「や」
 何をしているのかと言われても。
「……あの」
 友達と喧嘩して、こんな暗い道でも私はひとりで歩けるんだぞと見栄を張って後悔している。とてもじゃないがそんなこと言えなかった。
 先の名札の一件も手伝ってもじもじと袖をいじり、視線を空に彷徨わせる。どこもかしこも暗く、目を落ち付かせられるようなところが見つからない。漂う沈黙に苦し紛れに浮かんだのは、しつこく私を怖がらせる言葉の片鱗だった。
「……寄り道……」
「ふうん、寄り道。家は?」
「……ショウヤサンの」
 祖母や近所の人がこぞって使う、自宅付近にある建物を意味する、意味を知らない単語を口にした。すると彼は納得したように頷いて踵を返し、またがさがさと草を掻き分けて奥へ奥へと進んでいった。
 立ち尽くしただ目で追っていると、身体が草木で隠れきってしまう前に、ふいに振り返った。
「帰るんじゃないの」
 返事もまたず再びずんずんと歩いていく。
「は、はいっ」
 弾かれたように我に返り、突如垂れ下がった蜘蛛の糸を離すまいとしっかと掴まり懸命に足を動かした。

 行く道は終始無言だった。男子中学生の歩幅は女子小学生のそれよりもずっと長く、途中何度も転びそうになる。幸い前を行く背中は、時折ちらと顔だけで振り返って、塩梅を見てくれた。ただついてきているか確認しているだけと思っていたものの、いくらか繰り返すうち、彼が振り返るそこで隆起した木の根だとか横倒しになった太い枝が横たわっているのを知るようになった。
 この人についていけば安心だ。
 見ず知らずの中学生。そちらこそどうしてこんなところにいるのだとか、どこの子だとか、疑念を感じるべきところはいくつもある。けれど今此処に彼がいるというその事実だけで、不安に怯えていた心を溶かすには充分だった。
 麓の光が見える頃には、すっかり私は名も知らぬ男の子のことを信頼しきっていた。
「ここ、下ってしばらくいけば庄屋の脇に出るから」
 登ることなど考えてもみなかった急勾配の坂から見下ろすと、暗がりでも見覚えのある風景が広がっていた。
 一気に肩の力が抜ける。夕飯の時間はおろかひといきして茶を飲む時間すらとうに過ぎて、母親に叱られるのは明白だ。それでも胸を占めているのは、先の憂鬱よりも強い安心感が勝っていた。
 彼は少し後ろに控えたまま、じっとこちらを見つめている。案内はここまでのようだ。
「あの、ありがとうございます。助かりました」
「なんだ、やっぱり迷子だったんじゃない」
 揶揄するように言われて顔が少し火照った。けれどからかわれても怒りなど沸く気配がなく、そっぽを向いて走り去るより、頭を擦りつけたい気持ちでいっぱいだった。これっきりになってしまうと思うと、ひどく胸が締め付けられて痛みを感じる。締めつけられた隙間からはしゅうしゅうと、甘い蒸気が立ち上ってくるような気もする。
「じゃあね」
 彼の爪先が暗がりを向いた。そして年上らしく釘をさすように
「手を掛けさせるくらいなら、寄り道をしてはいけないよ」
 と告げて完全に背を向けてしまった。
 ざくざくと枝を踏みしめる音に焦燥を感じ、何かないかと咄嗟にポケットを探り叫んだ。
「あのっ、これ!」
 指先を掠めたのは飴玉の包みだった。忍ばせておいて存在すら忘れていたような、ちっぽけな飴玉。
 彼は動きを止め、顔だけで少し振り返る。差し出されたものを目を細めて見つめ、今度は身体ごと振り返り切ると、まじまじと掌の中身を眺め出した。
 咄嗟に、私は何をしてしまったんだろうと後悔の念が頭をよぎる。小さい子相手ならまだしも、年上の、中学生の、見ず知らずの男の子にこんな飴玉なんて。
 しかし今更引っ込みはつかない。視線を受ければ受けるほど熱を帯びて溶けてしまいそうな指先に、飴玉までべちょべちょになってしまわないかと不安を抱いてしまう。最早、半ばヤケになっていた。
 深呼吸し、ちょっとだけ息をのんで心を落ち着かせる。そうして今度は静かに言いなおした。
「あの、これ。おれい」
 へぇ、とぼそりと彼が呟く。それがどういう感情の元で零れた言葉なのか、私にはわからなかった。怖くて顔を見ることが出来ず、目を逸らしてしまえば表情を読み取ることだって出来ない。指先は微かに震えていた。
「ありがとう」
 すると、掌の肉をやわらかく押す感触がした。
 骨っぽい指先。失せた飴玉。
 追いかけたその先で、彼はビニールの包装を淡々と解いて半透明のピンク色の飴玉をぽいと口の中に放り込んだ。舌先で遊ばれた飴玉は片側の頬をぷくっとふくらませて、歯に当たってはころころと音を鳴らす。
「ごちそうさま」
 少しだけ舌足らずに彼は言った。
 バカみたいだ。
 私が。
 ごちそうさまと言われただけで、見えない何かに頬をひっぱられているみたく口角は上がって目尻は下がり、何度も何度も首が縦に動いてしまう。おまけにずうずうしい言葉がぽろぽろと口から零れていくものだから、もうどうしようもない。
「明日、明日もまた来ますか?」
「明日……」
 頬の内側で飴玉を転がしながら反芻している。ちょっとでも沈黙が続けば、言った事を後悔するのもまた早かった。
 バカ。私のバカ。
 膨らんだ気持ちはしおしおと萎み、唇を噛み締める。
 彼はじっとして動かない。しかし次の瞬間、堪えるように吹きだした。口元にさっと手をあて、小刻みに震えはじめるほどに。
「えっ、え?」
「なに、君。……バカじゃないの?」
「ば、ばか?」
「……ふふ、あぁおかしい」
 波は越えたのか、彼は長く息を吐く。名残は表情に浮かび、口元も目元も緩んでいてやさしい。
「いいよ。じゃあ気が向いたらね」

 彼の気は向いて、翌日も二人で山道を歩いた。
 もう迷うことはない。先達て歩く彼にぴったりとついていって、時折転びそうになって、鼻で笑われて、笑い返して、またついていった。どんなに道が悪くても、月が隠れていても、もう恐怖心はどこにもない。代わりに生まれたのは彼への尽きぬ興味で、あれこれ聞いてははぐらかされたり嫌みを言われ、真に受けて歩みを遅くするとしょうがないという頭を叩くように撫ぜられた。沈んだ気持ちは途端に浮上する。
 私は恋をしたみたいだった。
 歩き方も、考え方も、仕草も、表情のひとつひとつも支配されている。この人によく見られたい、この人に私を見ていて欲しいとそればかりで、どうしようもなく心が打ち震えている。

 秋は瞬く間に過ぎ、歳は開けて冬は深まった。落葉樹はすっかり衣を脱いで裸になり、ちらちらと雪の化粧をする日が多くなってきた。
 彼、恭弥くんはずっとずっと私の特別だった。気温と共にこの恋が冷めることはなく、あたたかな陽だまりは心の芯で私を突き動かしていた。
「恭弥くん、恭弥くんっ」
 いつもの場所で待つ姿を見掛ければ飛び付かんばかりの勢いで走り寄り、喜びが満面の笑みとなって現れた。寒さなんてなんのそのだ。
「寒い」
 一方で、ただ待っていた恭弥くんは寒そうにマフラーを顔に突っ込んでじとりと私を睨みつけた。そうでしょう、そうでしょう。待っていましたとばかりに笑みを深くすると、恭弥くんは訝しんで眉根を潜め、じゃんっとセルフ効果音と共に突きだされたそれを見るとしばし沈黙した。
「これは?」
「ココア!」
「また寄り道?」
 寄り道の寄り道っ、とバカみたいな訂正を加える私を無視して、恭弥くんはいつか差し出されたそれよりもすんなりと缶飲料を受け取り、迷わずプルタブに指を掛けた。
 ひとくちふたくち飲んで息を吐く。掌のぬくもりを味わうようにして、またひとくち飲む。
「ん」
 そうして、もういいとでも言う風に飲みかけを押しつけてくる。
「……えへへ」
「何笑ってるの、気持ち悪い。行くよ」
「あっ、待って待って」
 ざくざくと雪を踏みしめていく背中に、こぼれそうになった缶の中身をおっとと慌てて流し込んだ。
 ふふふ、と口元が緩む。
 ふふふ。
「恭弥くん。今日ね、六年生を送る会の練習をしたの」
 急ぎ追いかけ背中に言う。ふぅん、と相槌が返ってくる。 「来年は送られる番か」
「そう、 そうしたらもうすぐ並中生」
「六年、すっとばしてない?」
 今度は呆れた声だ。でも、私は知っている。中学校の話題に恭弥くんはとっても敏感だ。
「中学生になったら、君みたいな子は指導対象だよ」
 恭弥くんは愉しそうに言った。
「ええーっ」
「文句を言うなら……ああ、なんだったかな」
「寄り道をすると鬼に食べられてしまうよ?」
「そう、それ。その教訓、全然役に立ってないじゃない」
「恭弥くんだって寄り道してるんじゃないの?」
「僕は風紀委員長だからいいんだよ」
 よくわからない理屈を、もっともらしく恭弥くんは言う。
「ねぇ、どうして風紀委員は学ランなの? それに恭弥くん、学年は?」
「さぁね」
「またはぐらかす」
 私は唇を尖らせた。ちらとこちらに視線をやって、恭弥くんが意地悪く笑った。私も笑い返す。
「中学生になったら勉強、教えてね。英語とか」
「君はいつまで僕に手を掛けさせる気なの」
 ずっと。なんて言えず、やっぱり笑って誤魔化した。
 ずっとこんな日が続いていけばいいのに。ずっと、ずっと恭弥くんがいてくれればいいのに。
「恭弥くん」
「なに」
「あのね」
 恭弥くん、大好き。
 クラスの誰よりも賢く聡明で、意地悪で、わかりにくく優しくて、格好いい恭弥くん。間接キスに飽き足らず、寒さにかこつけて手を繋ぎたいだとか、泣いたふりしたら頭を撫でてくれないかだとか、どうしたらチュー出来るかだとか俗っぽいことを考えて夜も眠れなかった。
 この想いを告げたら、この人は応えてくれるだろうか。子どもだから、女の子として見ていないからこうして甘やかして可愛がってくれるだけで、告げてしまえば終わってしまいそうな関係に思い切ることが出来ない。
 好きだよ、恭弥くん。好きで好きでたまらない。
 ぎゅっとして欲しい。額をこすりつけて、しなだれかかって子猫みたいに甘えたいのにそれが出来ない。
「あのねって、何?」
「……ううん。また明日ね、って」
 歩きはじめたばかりで、さよならを言うにはまだ早い。無理やり捻出した笑顔も台詞も恭弥くんを変な顔にさせる、
「変な子」

 ねぇ恭弥くん。恋ってこんなに変になっちゃうんだよ。

 翌日は戦争の日だった。
 朝から皆そわそわとどこか落ちつきがなく、生徒指導の先生に注意を受けず上級生にも目をつけられない程度にめかしこんだ女子生徒がちらほら。かっこつけた男子生徒もまたちらほら。照れくさそうに、ちらちらとお互いを盗み見てはひそひそと友人に囁き合う男女もいる。 
 二月十四日。年にたった一度だけ、どんな女の子でも少しの勇気さえあれば愛を告げることの出来る魔法の日。直接的な言葉を言わなくても、渡すものさえ渡してしまえば気持ちの伝わるブーストタイム。
 昨晩夜なべして作ったチョコも、数日前から何度も何度も推敲したメッセージカードも、いざ手にしてみるとずしりと重い。これが精いっぱいの最高の出来と自信を持って作り上げても、放課後が近付くにつれぼろぼろと端から綻んでいくようで気持ちは落ちつかなかった。
 好きです。
 受け取って下さい。
 いつもお世話になってるから。
 はい、これ。
 シミュレートを繰り返り繰り返し、ちょっと笑って受け取ってくれる姿を思い描いては溜息が零れる。恍惚と不安がタンゴを踊って私を困惑させ、その日の授業は残らず右から左だった。

「今日はいやに静かだね」
 意を決して挑んだ放課後。いつもの場所で肌寒そうに待っていてくれた恭弥くんといつものように獣道を歩いて帰り、いつものように話しかけていたつもりでまったくそうはなっていなかった。
「そ、かな」
 別れ際、どう告げて渡そうかを必死に考えていた私にその指摘は、ダメージが結構大きい。
 もしも。もし、望まない結果に終わってしまったら。いかにして自尊心を傷つけず穏便に元の関係に戻れるか。その保険が、おかしいと思われてしまったことで脆くも崩れ去る。百戦錬磨の玄人であればなんのその、人生経験も薄いずぶの素人に保険がきかないとなると死刑宣告に等しかった。
 どもって返事をすれば、ますます愛しい人の眉間に皺が寄る。一挙一動見逃すまいと突き刺さる視線に耳に火がついたようになる。
 ああ、もう。もうなかったことに。なかったことになかったことになかったことにしてしまいたい。
 でも、でもでもでもでもでも、玉砕覚悟で砕けるのならば今しかない。落ちるところまで落ちてしまえばあとは登るだけと吹っ切れて、何も告げずに別れてしまうことこそ最悪の展開になり得はしないかと完全に自滅思考に陥った。
「わ、わたし」
 ひっくり返った声はわなわなと震える。耳の先に留まらず内側から燃えるような熱さが全身を駆け巡り、脳味噌をぼうっと酒につかせたみたく麻痺させた。心臓から喉元にかけて、そこだけすぅうと冷気が込み上げている。何の音も最早聞こえない。
「これ、わたし……」

 記憶が無い。

 翌日、とにもかくにも気が滅入っていた。なにも考えずなにも感じず、布団にくるまってただただ現実から意識を切り離してしまいたかった。とはいえ昨日まで挙動不審とはいえぴんぴんしていたしがない小学生がそう簡単に学校を休めるはずもない。
 とぼとぼとと力無く通学路を歩いては溜息が零れた。
 昨日のことは気にしないでと告げたい。想いを告げ直したい。逢いたい。逢いたくない。
 小学生は集団登校が義務付けられていた。アヒルの親子のように一列に並んで一羽が酷く沈んでいると、世話焼きの女の子たちがちょいちょいと突っかかって来る。
「ナマエちゃん、どうしたの。お腹でも痛い?」
 六年生の女の子が、心配そうに顔を覗きこんできた。
 大丈夫です、と力無く首を振る。
「あ、もしかして」
 その様子を遠巻きに眺めていたゴシップ好きの五年生の女の子が、愉しげに声をあげた。
「昨日のじゃない? あれ、チョコあげてたよね」
 え?
「あ、みたみた。ナマエちゃん、昨日の人って誰? カレシ?」
「なになに、なんのはなし?」
「あのね、ナマエちゃんがね──」
 見られていた?
 よりにもよって昨日?
 あの別れ際を?
 きゃあきゃあと色めき立つ朝の空気に、私は真っ赤になって俯いた。からかう子もそれをたしなめる子も、根掘り葉掘り聞こうとする野暮な子もみんなみんな消えてしまえばいいと強く念じて拳をただ握り締めた。
 いやだ。いやだ、もう。
 大切に大切に育てていた感情を好奇の視線に晒されて、引っ繰り返して暴かれる。蓋をした記憶が地の底から這い出るように蘇る。
 バカみたい。
 綺麗にラッピングしたのに、乱暴におしつけてしまったからきっと中身はぐちゃぐちゃだ。メッセージカード、結局渡したかどうかもわからない。恭弥くん、どんな顔をしていたかな。何か言葉を発していたかな。坂を滑り落ちるように逃げ帰って、その先はどうなったか知らない。あれだけどもってしまったんだ。いくらなんでも想いは筒抜けで、今頃どうしたものかと困ってしまっているに違いない。
 やだ、やだ、やだ。
 消えてしまいたいのは私のほうだった。
 感極まってぼろぼろと涙を溢れさす私に、六年生はおろおろと殊更うろたえた。泣かないで、泣かないで、と宥められる度に奔流はますます止まらない。
 チョコなんて渡さなければよかった。そうすれば今日も、明日も、明後日も恭弥くんと一緒にいれたのに。中学にあがったら勉強を教えてもらって、知らないことをたくさんたくさん教えてもらえたのに。
 でも、もう昨日には戻れない。想いは叶わない。
 年生に背中をさすらながら、わんわんと泣き続けた。
 苦い、初恋の思い出だった。

 *

 数年が経った。
 並盛の実家からアパートまで三時間かかる。私は地元を離れ、大学生活を送っていた。近くの親戚もなくまったくの見知らぬ土地は最初こそ不安しかなく、ホームシックに陥りもしたが、大学がはじまる頃にはすっかりおさまった。昔は失恋しただけで毎晩のように枕を濡らしたというのに、あの嵐のような感情の起伏が嘘のようだ。大学での生活も順調に進み、日々の生活は安寧に凪いでいた。
 この町には鬼の噂も酷い獣道も、並盛を我が庭のように知り尽くしたあの人の影もない。それでも、ふとした拍子――例えば、学ランを纏う男の子を見掛けた時――に心に白波が立ってしまう。それがいけないことなのかどうか、わからない。何も知らない恋人には、後ろめたさを抱く。
 私を好いて告白してくれたのは、同じ学部でふたつ年上の、素朴で誠実な人だった。お付き合いは春の日のように穏やかに進み、彼の就職先が決まる頃には、とんとん拍子に婚姻の話まで進んだ。
「週末はきみのご両親に挨拶にいこうか」
 彼は、昔話に出てくる善人のおじいさんみたく、目尻に皺を刻んで微笑む。
「楽しみだな、ナミモリ。中学までそこにいたんだっけ」
「うん、高校は隣町だったから」
 中学に入学しはじめて耳にした恭弥くんの噂は、サイキョーの風紀委員長だとか、群れるものは容赦なく半殺しにするだとか、病院を牛耳って、時に死体の処理まで行っているという、それこそ物騒な鬼の話だった。入学と共に卒業していった恭弥くんと再び言葉を交わすことはなかったけれど、それが幸だったのか不幸だったのかは今もわからず、時々もしもの空想に耽り、しばらく現実に戻ってこれなくなる。
「夢でも見てるの?」
「え?」
「またぼうっとしてたから」
 その無防備な顔が好きなのだと彼は笑う。恭弥くんのことを考えると、いつも私は小学生五年生に戻ってしまう。熱に浮かされ小さな子どもの表情で、ぎゅってして欲しいだとか、チューしたいだとか考えてしまう。ひどい時はその先まで考えて、身体の内側がこっそりと熱くなる。これが数年という歳月そのものかもしれない。
「これからどんどん忙しくなるぞ。招待客のリストアップもしないと」
「もうっ、気が早いよ」
 誠実でやさしい人。ただやさしいだけの人。一般人による一般人のための、一般的なささやかな幸せのワンシーン。これ以上ないくらい御似合いだ。
 だから私は祈るように言い聞かせる。もしもなんてありはしない。現実は現実で、空想上の鬼なんていないのだから。

 彼を連れてはじめて田舎に帰ったのは、奇しくも三月十四日だった。両親に結婚を許してもらえたら君に苗字をプレゼントするのだと、柄にもなくはりきった彼と私を乗せた乗用車は、桜の綻ぶ道路を緩やかに進んで行く。
 六年間を過ごした並盛北小学校は、外観こそ変わっていないものの、生徒の数は激減し近々合併するのだという。並び歩いた通学路はほとんど変わっていないものの、新築の家が建ったり、新しく信号機の出来た箇所がある。百十円のジュースが売っていた錆びた自動販売機。真新しい外装に代わり、きっと中身も値上がりしている。
 天神山は、今はどうなっているのだろう。友人と喧嘩して迷い込み、私の全てとなったあの獣道。前を通りかかると、山道の入口付近は今も人を阻むように草木が生い茂っていた。
「あれ。きみがよく懐かしんでいたのって、もしかしてこの道のこと?」
「わかるの?」
「だって顔にそう書いてある。へぇ、そうなんだ。ここが例の天神山かぁ……」
 恭弥くんとのことは誰にも話したことがない。ただ、友人と喧嘩した時に迷い込み、それから何度か通った道だと曖昧にぼかして伝えた話を、都会育ちの彼は興味深そうに目を輝かせて聞いていた。
 曰く、草木の生い茂る山道には夢があるらしい。手入れがされていない獣道となれば尚更良くて、地域に伝承が伝わっていればパーフェクトだそうだ。迷い込んだら子どもにしか見えない、心やさしい巨大モンスターが居眠りをしていることでも思っているのだろうか。エンジンを切ってわくわくと暗い道の先を見つめている。
「ねぇ、行ってみたいな。ちょっとぐらいいいよね」
「あ、ちょっと!」
 返事も待たずシートベルトを外し、外に出て行ってしまった。しょうがないという風に続けて降りて、後を追いかける。彼は山道入り口から、背伸びして奥を見ようと四苦八苦している。
「うわ、ここって本当に山道? 最初からすごい道だな」
「ねぇ、危ないよ」
 ヒールがアスファルトを打ち鳴らすのをやめても、いつまでも鼓動のような音が響いている。本物の心臓の鼓動だった。
「大丈夫大丈夫」
 軽い調子で言って、彼はおぼつかない足取りでずんずんと奥を目指し突き進む。平均身長はあっという間に木々に隠れ、見えなくなってしまった。
「ねぇ、危ないったら!」
 声を張り上げて叫ぶ。大丈夫大丈夫、と遠くから楽観的な声が聞こえ、言葉尻は風に掻き消され不穏な響き耳に残した。
 大丈夫って、本当に大丈夫かな?
 彼はただ、浮かれているだけなのだろうか。何か目に見えないモノに呼び寄せられてはいないだろうか。聞こえぬ声にも忠実に従う、純粋で、素直な幼子のように。心だけ少年になってしまったのだろうか。聞き分けがなく、いいところだけ見せようと見栄を張るいつかの浅はかな子どものように。

 ──寄り道をすると鬼がでるよ。

 祖母の言葉が聞こえる。
 冷たい風が吹き抜け、弄ばれて蹂躙されるが如く無数の枝がしなった。ざわめきは強烈に鼓膜を震わせ、野太くギャアギャアと鳴き飛んでいくカラスの羽根と同じに黒いものが、心臓を覆い尽くしていった。
「ねぇっ!」
 叫ぶ。親に置いていかれてしまった子どものように叫ぶ。ヒールはやわらかな土にずぶりと埋まり、めちゃめちゃに歩きにくかった。
「ねぇ、どこにいるの?」
 暗い獣道を進む。一人で進む。先導し続けてくれる人はいない。踏み固められるのを忘れた山道は悪いばかりで、正しく獣しか通っていないのだろう。突っかかり突っかかり、何度も転びそうになった。彼の白いワイシャツは見えない。どこまでもどこまでも黒い、枯れ井戸の底のように静かな闇がただ伸びている。小学生だった私が一筋の光明として追いかけ続けたあの色と同じ黒が。

 ――寄り道をしてはいけないよ。

 風が、低い男の声で鳴いた。短く息を吸い、全力疾走した後のように速まる心臓に手をあて、ゆっくりと注意深く辺りを見回す。導くように、また声が聞こえる。今度ははっきりと、たしなめるような色を乗せて聞こえてくる。
「なのに、君はいつも寄り道ばかりして」
 獣道から外れたすぐ先に、男がいる。
 男はゆったりと苔むした幹に背を預け、ちょっと困ったように、それでも口元に微かな笑みをたたえて私を見つめていた。
 カラスの羽根のような濡れた黒髪。涼しげな目元。時を経てなお変わらない、瀟洒な面差し。
「……恭弥くん?」
 戸惑いながら紡いだ名に、男は嬉しそうに目を細めた。
「いい子だ。よくわかったね」
 幼い子どもを褒めるみたく言って、ゆっくりと近づいてくる。
 恭弥くん? 本当に恭弥くんなの? なんで?
 こわい。そう思った。長く思い続けていた人とこの場所で、こんな日に巡りあうなんて仕組まれたような偶然が怖かった。黒が迫る度に腰が引け、ヒールに突っかかった土を引き摺りながら後ろに下がった。素早く暗い木々の間を見回す。あの人の姿はない。
 恭弥くんが笑みを引っ込めて、ちょっと顔を顰めている。大人の男にそぐわないような、中学生らしい、むすっとした顔。
「誰もいないよ」
 誰もいない? 誰もいないの?
 なんで?
 なんで恭弥くんがここにいるの?
「なんで?」
 疑問はそのまま口から零れていた。
「なんでって、君がいつまでも待たせるからだよ」
 恭弥くんは溜息をついて、肩をすくませた。
「バレンタイン、贈り物をくれただろう。だけど君、相当恥ずかしかったのかな、すぐに逃げ帰っちゃったよね。仕方がないから改めて話をしようと、待ってるって言ったんだけど」
 私は記憶を呼び起こした。待ってる、と彼は言ったのか。現れない私をずっと待っていてくれたのだろうか。
「まぁ、わからないでもないよ。気まずかったということは。だから落ち着くまで辛抱強く待とうと思って、待った。長いこと待った。ちょうど君が中学に入学した時、僕が卒業してしまったのは残念だったね。相変わらず君は僕に逢いに来れないみたいだったけど、またパニックを起こされて会話もままならないんじゃ、それこそ話にならない。ずっと僕を想っていたようだったし、もう少し君が大人になるまで期限を伸ばそうと思ったんだ」
 ずっと、見ていたのだろうか。ずっと私を想っていてくれたと、そういうこと?
「進学して並盛を離れて、あぁそろそろ落ち着いた頃かと思ったら男を作るんだもの。あれにはまいったよ。でも、君の目は遠くを見つめていた。遠く遠く。本意じゃなかったんだろうね。君の笑顔はあんなに薄っぺらいものじゃなかったから」
「……わたし」
 どうにか吐きだして、どう続けていいかわからず言葉に詰まり俯いた。
 暗い。土の色は暗い。足元をすくうように風が起こり、崩れ落ちてしまいそうになる。それをついと拾い上げて、勝手に顎が上向いた。目と鼻の先に恭弥くんがいる。暗い双眸。水の膜が、月明かりに照らされた水面のようにたゆたい、その中に私が閉じ込められている。
「君が最初だったんだよ」
 恭弥くんは語る。
「最初に僕を好きになった」
 昔話でもするみたく、穏やかに。祖母の語る昔話のように、戒めるように。
「飽きたからといって一抜けするほど、もう子どもじゃないよね。それなのに駄々をこねて、ほんと昔から手が掛かる子だ」
 この現実に、頭はまだ対応し切れていなかった。ぼんやりと、されるがままになっている。
 恭弥くんって、こんな人だったっけ。無邪気に羽根を毟る子どもみたいな、そんな人だったっけ。意地悪だけど意外とやさしくて、文句を言いながらもずっと遊びに付き合ってくれたのに。……それとも、恭弥くんにとっては遊びじゃなかったんだろうか。遊びだったとして、私の思う遊びと違う「遊び」をしていたのだろうか。
 狂っていると決めつけるのは簡単だった。だけど。だけどだけど、壊れものを扱うみたく大事に大事に肌を撫でてくれる恭弥くんを、拒絶することはどうやっても出来なかった。
 それは逃げ出したことの、恭弥くんに対する罪悪の念だけじゃない。ずっと、ずっと叶わぬことだと思って望んでいた空想が此処にあるということが、信じられないくらいに手放し難かった。
 もちろん、恐怖心はあった。触れる指先は抜き身の刀で、いつ切りつけてくるかわからない冷たさを秘めていた。もはや無事ではないだろう、彼の行方も気になっていた。それでも身体の芯からじわじわと捨て去ったはずの想いが溢れ出してとまらない。
「……恭弥くん」
 ひとつこぼれる。
「恭弥くん、恭弥くん、恭弥くん」
 するとぽろぽろぽろぽろ、滑り落ちてしまう。あの日流した涙みたくバカみたいにとまらない。
 宥めるように、唇がそっとあわさった。冷たさが心地よくて泣きだしそうになると、唇をあわせたままの恭弥くんの目元が緩くなった。触れるだけのキスなのに、薬にとっぷりと脳を浸したみたく、余韻が長引いている。
 ねぇ、哀しいのにうれしいの。私は薄情者なのかな。
「……彼は」
「彼?」
「彼は、どこにいるの?」
「……ああ」
 私の瞳を捉えていた恭弥くんの視線が、ふと焦点を遠くにした。
「鬼にでも食べられてしまったんじゃないの」
 恭弥くんは薄く笑う。
「そう」
 と私は頷いた。
「そっか」
 言いつけを破って、この山を一人で歩くから鬼に逢ってしまう。だったら、仕方がないことだ。

 恋って変になっちゃうんだよ。

 昔、恭弥くんのことが好きで好きでたまらない時に同じことを思った。恋をすると、正常な思考回路ではいられない。人の道理が通じない世界に入り込んで、その人が身体を構成する全てになる。
 私が恋をした相手は最初から獣道にいた。荒れ放題で手のつけらない獣道。迷い込んで、後は好んでついていった。何度も何度もついていった。祖母の言いつけを守らずに、鬼の居る場所に通い詰めて心を喰われ、中途半端に引き摺りだされたままの内臓を道標に、鬼は再び牙を向けている。
 彼はもう、きっともう見つからない。鬼に喰われた人間として昔話の信憑性に一役買い、これから生まれてくる子ども達の教育の礎となるのだろう。
 息を吸って、深く吐く。胸がきりきりと痛む。背中をやさしく撫でる衣擦れの音に安堵して、それから静かに目を閉じた。


(111005)(141217 改稿)

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