花咲く唇

 最初の一歩が肝心で、踏み出してしまえば後は楽だと草壁さんは言った。それは嘘だと思った。
 十二月にもなれば昼だって寒いのに、放課後は言うまでもない。吹きすさぶ風は剥き出しの膝を甚振るように冷たく、セーラー服というものの構造上、首筋は殊の外寒い。一時間も風に晒していれば鎖骨が氷柱にすり替わっていても不思議は無く、詰襟の学ランやブレザー姿の同級生を恨めしく思う程だった。

 校舎と倉庫を行き来して、もう二時間になる。花壇横に打ち捨てられたかのような倉庫の周辺に建物はなく、風を遮るものはない。せめてマフラーをさせてくれと願っても引っ掛かってしまったら危険だと却下され、力仕事は温まるから、大丈夫だと草壁さんは言い聞かせた。それもやっぱり嘘だった。
「……出来るって、何を根拠にそんなこと」
 愚痴のひとつも零れるものだ。しかしそれさえ許されないのか、呟いた拍子に上唇にぴりりと罅割れの刺激が走った。いいかげん手先はかじかみ、じわじわと鈍くそちらの皮膚も傷んでいる。ひどい。堪えかねて荷のつまった段ボールを石段の上に置き、頬に手をあててみるも氷嚢に氷嚢をあてたようで、大した暖をとれぬまま諦めてポケットに手を突っ込んだ。
 せめて軍手を持ってくればよかった。玄関に入ってすぐの引き出しの、工具棚のところに父の使っていた軍手が入っていたことを思い出す。指先どころでなく掌のところまで黒ずんでいて随分年季の入った代物だが、無いよりはましだ。なんなら、重ねてやる。防寒目的にはもってこいだ。登校してすぐに昨日の日誌の不備を指摘されても、蚯蚓がのたくったような字にはならないはずだ。これで委員長に殴られなくて済む――軍手を二枚重ねで登校する姿を浮かべたところで、悲しいやら情けないやら、なんともいえない気持ちになった。軍手って。父親が使いふるした軍手を欲するって。確かに作業するには持ってこいだが、なぜ手袋という発想が出ず軍手に思いをはせてしまったのかと、力が抜けてくる。

 冬の放課後、委員会活動の一環として、一人黙々と力仕事に勤しむ女子中学生がこの瞬間、どれほどいるだろう。草壁さんにも、何故私一人に頼んだのかと問い詰めたくなる。頼まれたからにはやるしかないが、釈然としないものが心の底に沈んでいる。

 つかれちゃった。

 下校を促すチャイムがグラウンドに反響する。部活に勤しんでいた生徒達は片づけをはじめ、駐輪場からは自転車に跨った生徒の群れが飛び出し、ぽつぽつと歩いて下校する生徒の姿も見えた。ポケットで慰め程度に手を温めてぼんやりとそれらを眺めていると、何人かがこくりと会釈するものだから、同じように会釈して返した。
 彼らが誰だか知らない。彼らも並中で旧服を着用している人間がどういう人間かは知っていても、私個人をよくは知らないだろう。

 我が校において旧服を纏う委員会が特別なものであるというのは周知の事実だ。特別なのは委員会というか、正確には委員長なのだけれど、幸か不幸か末端の人間まで特別視されているのは、滑稽なことだと内心で笑ってしまいたくなる。
 風紀委員会とは鬼門である。忌みと清浄の二つを備えた鬼の出入りする委員会である。となれば、大将鬼は言わずもがな、下っ端の小鬼だって恐るべき鬼の髪の一房として一線を置かれるのは道理である。近寄る物好きなどそうはいない。
 平たく言えば、友人らしい友人がいない。同姓からも異姓からも、別の生き物として捉えられている節がある。恋人などもってのほかであった。

「……」
 だから、校門へ向かって粛々と進む彼らの中で、一番に目をひくのは、ひと組になった男女の生徒だった。女子生徒には見覚えがあったものだから殊更興味を惹かれた。
 黒川さん、だっけ。
 真夜中に波打つ海のような、長くたっぷりとした黒髪の女子生徒。いつも落ちついていて、大人びた少女だった。すすんでいる、とでも言えばいいのか。隣を歩く男子生徒は恋人かしらと見入ってしまう。廊下を歩く時、時々、黒川さんの友人の笹川さんと、例の男子生徒とで仲良さそうに会話している姿を見掛けていた。
 彼氏、彼氏かぁ。
 年頃の女の子に、色恋沙汰に興味が無いものなんていない。スカートを短くしたり、こっそりとパーマをかけたり、透明のマニキュアを塗ったり、淡い香水をつけたり。程度の差こそあれ自分自身にも覚えがある。乾燥する時期にもなれば唇にも気を使って、ルージュでなくリップクリームだからいいのだと、色つきのものを選ぶのがトレンドだった。
 リップクリーム、ねぇ。
 ポケットに入れたままの指先を探り、こつりと爪を叩いたモノをひきあげた。乳白色をベースに、緋色のグラデーションが愛らしいリップクリーム。CMでは今流行りの人気モデルが起用され、恋を呼ぶとキャッチコピーで謳われている。並盛スーパーのレジで二百三十円。無色のタイプもあるけど、このカラーがダントツで人気だ。匂いだってする。蓋をあけると、砂糖をたっぷり漬け込んだイチゴの香り。イチゴ味のキャラメルのような、のっぺりとした色のクリームがてらてらと光っている。少しだけ繰り出しても縁は角ばっていて、新品同然だ。
 そのまま、手の甲にあてて少しだけ滑らせてみた。皮膚に薄紅色の光沢がうまれ、十二月の風に晒されたあどけない少女の頬のように、愛らしく色づいている。
「……無いな。ないない」
 落胆は確信めいたものだ。乱暴にポケットに突っ込んで、封じ込めるみたく二度三度と上から叩く。
 色気なんか出さず、いつも通り薬用のリップクリームを買えばよかった。自分にはあわない。柄じゃない。こんなものをつけるほど女の子じゃないのに、馬鹿馬鹿しいくらいに踊らされている。

 色つきのリップクリームをつけたって、キャッチコピー通り恋は呼ばないし、罅割れは治らない。別に、どうしても彼氏が欲しかったわけじゃない。せめて恋に恋したいというか、よその女の子が羨ましかったのだ。蕾が膨らみ、やわらかく咲かんとする淡くきらきらとした感情を抱いてみたい。恋の話をすれば、友達だって出来るかもしれない。厳つい風紀委員と恋バナをしたって、求める楽しさは期待できない。限りなくこれじゃない。
 けれど何の因果か、ドキドキと胸が高鳴る機会はある。それは委員長による純粋な暴力を目の当たりにする時だとか、季節感漂う氷の冷たさで言動を指摘された時だとか、咲くどころか蕾が固く固く閉じて種にまで還りそうな、穏やかでないことばかりだ。男所帯に身をおいたって男共は委員長を見てキャッキャしているし、委員長は委員長でどこを見ているのかわからない。他の生徒が私を見たって風紀委員会に所属する私を見ているのだし、今更色気づいても珍獣扱いされるに違いない。

「あー、もうっ」
 投げ出したままの段ボールを勢いよく持ちあげた。一瞬腰に鈍い痛みが走り、指先も乾いた唇もぴりぴりと痛んで熱いくらいだった。どいつもこいつもひどい。私だって女の子なのに。悔し紛れに精一杯ストイックを装って背筋を伸ばし、倉庫へ向き直る。
 あーどうでもいい。明日も明後日もそのままポケットに突っ込まれたままになるだろうが、もうどうでもいい。だいたい、色つきのリップクリームなんてルージュとどう違うんだ。そんなものを風紀委員がつけてきてみろ、ただでさえ総大将が風紀とは縁がなさそうな所業をしているのに、余計に風当たりがおかしなことになる。

 空は茜色をとうに飛び越えて暗く、心なしか風は冷たさを増している。黒川さんと男子生徒の姿は既にない。片づけに取り掛かっていた運動部は既にぞろぞろと部室の方へ消えてゆく。駐輪場からは相変わらず不定期に自転車が飛び出し、校門から――ヘッドライトを照らし大型バイクが飛び込んできた。
「……」
 本当にあの人は何歳なんだろう、と溜息を吐きかけて口を噤んだ。バイクの主、委員長が応接室に近い出入り口付近にバイクをとめることを知っている。それはつまり今自分がいる場所そのもので、事実バイクもスピードを緩めてこちらに近づいてくるからで――。
「ミョウジ」
「……おつかれさまです、委員長」
 聞き慣れたエンジン音をゆっくりと消し、顔をあわせるが否や早々に眉根を寄せて己を呼ぶ委員長からは、よからぬものをはっきりと見てとれた。
「まだやってたの、それ。荷物運びに何時間掛けるつもり」
「えー、あー」
「あとどのくらいで終わるの」
「二、三往復ほど、だと思うので、三十分以内には」
「二十分」
「でも」
「十五分」
「ハイ」
 今までの倦怠な動作が嘘であるようにキビキビと足を動かして倉庫へ荷を置き、またキビキビと戻り新しく段ボールを抱えて再び倉庫へ足を向けた。委員長はバイクを背にじっとこちらを目で追っている。手伝う気配は無い。
「……委員長はさっきから、何をしてるんですか」
「君がさぼらないように見張ってる」
「……さぼってないですよ」
 委員長が来る少し前、物思いに耽った記憶が蘇り、目を見て答えることが出来ない。さぼってはいない。さぼってはいないのだけど、キビキビと動いていたわけでもない。こんな適当に誤魔化せばいいのに、先人達――(委員長相手にうやむやにしようとし、病院に送られた先輩方――を見ているせいか、嘘をつくことが出来ない。
 委員長は、あからさまに余所余所しい様に白んだ目をした。
「どうだか。僕が戻った時呆けていた顔をしていたけど」
「あれは少し、寒くて、手が痛かっただけで」
「手袋でもすればいい話でしょ」
「手袋……」
 見れば今の今までバイクで風を切っていた委員長の手には、グローブというのだろうか。防風か、あるいは防寒対策のものが黒く艶めいている。出たな手袋。
「手袋なんてそんな、作業するには向いてないじゃないですか。軍手だったらまだしも」
「だったら軍手をすればいい」
「軍手をしろっていうんですか?」
「……。何言ってるの、君」
 何を言ってるんでしょう、私は。
 おかしなことを口走ったのはわかっていても、ぶすっと口を噤んでしまう。あれもいやこれもいや。駄々をこねる幼子のようだ。聞かされる委員長の身にもなってみろ。機嫌が急降下していくのはよくわかる。
 色濃くなる夜の気配に身を震わせる。相変わらず唇は痛い。何もかも色つきリップクリームのせいだ。
「――仕事、するんで」
 ほとんどの感覚の無くなってきた指先に力を込め、自分でも驚くほど険しい声が出た。同じく険しい表情を浮かべていた委員長が瞬きをし、少しだけ自己嫌悪に陥った。

 あーあ。なんて可愛げのない。
 もう少し自分に可愛げがあれば、例えば草壁さんはもう一人手伝いを残してくれたかもしれない。雲雀さんもこんな会話で機嫌を損ねず、ひょっとしたら、グローブを貸してくれたかもしれない。風紀委員だからといって線を引かれて見られることもなく、そうしたら彼氏も――だいたい、可愛げって、何。女の子らしいということなのだろうか。淡い花の香りが漂って、冬は愛らしいふわふわの手袋をして、色つきリップクリームがよく似合う女の子。そんなものに可愛げという魔法が掛かっているのだろうか。錆びた鉄の臭いと埃の化粧を施す私にだって、そんな魔法さえかかれば、少しは女扱いされるのだろうか。やだやだ。あーやだ。

 終わった。

 なるほど、見張りがいればやればできるものなのか。
 喉元過ぎればなんというか、身体を動かすことでいくらか気は晴れていた。へとへとだしすっかり指先は動かなくなってしまったけれど、そう悪い気持ちばかりではない。
 ただ、立てつけの悪い倉庫の引き戸を閉めるにはコツがいる。普通にしていたって開け閉めしにくいのだから、皮膚に触れる金属が冷たいのかどうかもわからない今は尚更だ。指だけで駄目ならば、と身体を使って戸を押そうと肩をつけると、にゅっと背後から腕が伸びてきた。
「そういう横着をするな」
 甲高い悲鳴をあげて引き戸が見る間に閉まる。行き場を失くした身体は冷たい外壁に寄りかかり、南京錠が掛かる音を聞いていた。すっかり闇色に染まった空に学ランが溶け、委員長の肌だけが白く浮かんでいる。
「君、女子らしくないって言われるでしょ」
「ありがとうございますご忠告痛み入ります」
 ぶすっと言葉を吐いて鼻を鳴らすと、白い息が眼前に浮かび消えた。委員長がくつくつと笑っている。自分だって鼻の頭を赤くしてる癖に。
「十五分」
 委員長の口元が白く濁り、消える。
「出来るならさっさと終わらせなよ。使えない人間は風紀にはいらない」
「承知しています」
「内容が何であれ、仕事が出来ない人間に任せるなんて事はしない。それに君も女子なら、こんな暗くなるまで残りたくないでしょ」
「それはそ……女子?」
「冬に下校時刻が早まる意味、わかってるの。身を守る術のない草食動物は群れることで自衛の役目も果たすけど、それが出来ないのならさっさと帰るしかない」
 委員長らしい言い回しの、けれど中身はもっともな台詞に口を噤んだ。鍵が掛かったのかどうか確かめている委員長を見詰めながら、先ほどの黒川さんと男子生徒の残像をぼんやり浮かべると、委員長の視線が再びこちらを向いた。まじまじと。何か確かめるみたく、距離まで縮めて。
「い、委員長?」
「ねえ、唇、切れてるけど」
「え? あ……ええ、はい」
 言われて唇を舌で濡らすと、錆びた味がじんわりと広がった。染み込んだ反射で、つい薬用リップクリームを求めてポケットに手を突っ込んだものの、そういえば、とそこでまた失態に気づき顔を顰めた。
「リップでも塗ればいいのに」
「あるにはあるんですけど……その、間違えて買ったっていうか。色がついてるっていうか」
 くだらない自尊心に意味らしい意味もない。幸運なことに、さして追及することもなく委員長は適当な相槌で返した。そうして続けて、事もなげににこう言った。
「つけてみなよ」
「えっ」
 素っ頓狂な声が飛び出る。手の甲に試しにつけたことしかないのに、似合わないと実感したのに、今この場でつけてみせろというのか。
「いや、でも口紅みたいになるかもしれませんよ?」
「……何、そんなに濃いものを持ってきたの」
 委員長の視線が鋭くなり、失言だったかと視線を逸らした。
「口紅といったのは君だよ。君が持っているくらいなら、他の女子生徒は言うまでも無さそうだね。確認もしておきたいし、さっさとつけて」
 なんとなく馬鹿にされた気がする。
 最早命令だ。間違えて買ってしまったと言った手前、こうなってはもう似合わないから、柄じゃないからつけたくない、などという理由を盾に抵抗することも出来ない。そもそもそんなことなど委員長にとっては知ったことではない。結局のところ総大将を前に残された道はひとつしか無く、諦めて、封じたはずの色つきリップクリームをポケットからひきだした。

 最初の一歩が肝心で、踏み出してしまえば後は楽だと草壁さんは言った。それは嘘だと思った。
 蓋を開け、片側だけ微かに角のとれた筒をじいと睨みつける。唇に直接塗るのははじめてだった。
 ……よし。塗るぞ。塗ってやる。
 意を決し、唇にあてがう。イチゴを模した甘ったるい香りがすぐ傍に漂った。鏡が手元にないことが酷く不安で、縋るようにスカートを握り締めた。僅かばかり晒された太腿に冷えた風が突き刺さる。
「……つけました、けど」
 おそるおそる、委員長を窺う。つけましたけど。
「言う程濃くはないようだね」
 委員長が、しげしげと唇を眺める。
「それにしても汚い」
 感想は率直且つ辛辣だった。馬鹿にするでも蔑むでもなく、ただ淡々と目の前の事象について述べたという風に涼しい顔をして言われたものだから反論すら憚られ、こっそりと睨みつけながら無言で擦り落とした。当然のことながら血の滲む唇を更に痛めつける行為となり、もうすっかり熱を抱いて、別の何かが自分の顔にくっついているみたいだった。早く帰りたい。
 雲雀さんはと言えば、また笑っている。そのまま朴念仁面していればいいのに、本当に失礼な人だ。こんな人に恋人が出来たら、その人は相当物好きだ。
「何ですか、何が可笑しいんですか」
「ああ、そういえば。これ」
「? ……やくようリップ」
 素っ気ないモスグリーンのパッケージに、白のロゴ。クリームは乳白色で、味もそっけもない香りしかしないのを知っている。
「いつもいつも塗りたくっていたから、そんなに良いものなのかと思って、試しに買ってみてね。……やっぱりいらないから、あげる」
 それだけ言うと、立ちすくむ私に真新しいリップクリームを置いて、委員長は背を向けた。じゃりじゃりと砂を踏む音が少しずつ遠ざかるのを聞きながら、まじまじとリップクリームを見詰める。プラスチックの筒はほのかに温かかい。落としてしまわないようにと動かぬ指で慎重に蓋を開けると、思った通り、乳白色の固体がのぞいていた。縁は丸みを帯びて、既に角はない。表面に漣のような痕跡が浮かんでいる。未だ痛む唇に、ゆっくりと滑らせる。唇は未だ熱を帯びているのに、メンソールにすうすうと温度が下がった。そうかと思えば今度は内側から、それこそ胸や頭の奥から、赤々と燃える熱が沸き立ちはじめた。
「……」
 なぜだか、胸が痛い。
「…………」
 我ながら単純なものだ。
 彼女達だけが持ち得ると思っていた胸の高鳴りなんてここでも手に入るし、色つきリップクリームでなくても、呼べるものは呼べる。
 この想いが咲く種であるかどうかもわからない。どっちつかずの体温を持て余しながら、私は私らしくやるしかないのだと、夜に薄れていく背中を砂を蹴って追い掛けた。


(121125)(141217 改稿)

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -