小社の不可思議

 ナマエにとって、狐は特異な存在であった。幼い時分に狐憑きと霊媒師に言われて以来、付かず離れずの関係にある。
 小学生の頃、霊能力があるという同級生はその背に轢死した古狐の霊がみえると言い、はじめて狐狗狸さんに参加した時は教室の窓が割れた。それが母の耳に入ると妖しんで遠くの寺に連れていかれ、一週間学校を休んだ。嗜好品のひとつもなく、大勢の人が集まって、暗い情念をたぎらせながら経を読む日々はまったく気が滅入るものだった。
 家の裏には稲荷の小社があった。樹木が鬱蒼と茂り、一見小高い丘のように見えるところだ。祖父母が死んでからこっち、ほとんど手入れをされていないせいか、いつ足を運んでも──ときたま、供物はあったが──人気がなかった。
 暗い緑の中に仄白い肌目を見せる鳥居は鮮やかで、四月から八月まで、緑の中に朱色は光って見える。雨が降ると肌目は黒く濁った。社の端の辺りはいつも土色をしていて、植物が隙間から芽を出す。夕暮れには鳥の鳴き声が頭の上から降ってくる。猫が置き石の上で毛づくろいをする。その昔祖父が拾ってきた老猫も、姿が見えないと思えばそこにいるものだった。

 猫のうしろには狐がいて、狐のうしろには狼がいるのだという。

 ナマエの母は猫嫌いで、「稲荷には猫が寄る」という何処其処かの訛言をも信じ込み小社には近づかない。母と諍いをすると、ナマエはそこに逃げ込み、猫を撫でながら衝動をやり過ごした。
 小社では母の甲高い叫びも啜り泣きも、見知らぬ大人達の単調な呟きも聞こえない。むせかえる程の香の煙もない。土草と石の湿った匂いがして、老猫が白の毛並みをところどころ銀色に光らせて欠伸する、たったひとつのナマエのよりどころ。
 日が暮れて猫の毛を袖につけて家に戻ると、母は誰にともなく眉をしかめて口にした。「あの子、ちょっとおかしいんじゃないかしら」

 ナマエが中学校にあがったある日、老猫が三日四日と家に帰らなくなった。
 そのうち何食わぬ顔で戻り、鈴を鳴らして足元にすり寄るなり、玄関の日溜まり、あるいは小社で居眠りを決め込むに違いない。ナマエはそう思っていた。老猫は老猫だったが、死期を悟り身を隠してしまったのだと諦めがつかないのは、母もまた、三日四日帰らなかったからだ。
 いつからか、外には母が親しくしている男がいた。狐狗狸さんをやって連れていかれた寺で、ナマエも一度だけ見たことがある。凡庸とした顔立ちだが、瞳の奥はギラギラとしているものだからちぐはぐとして、獣の皮の臭いがするようだった。父はもうずっと帰らず、皮の臭いは家にまで流れ込み、母と余所の男がなじめば境はあやふやとなる。ナマエはたちまち「よくある不幸話」の主人公になった。
 母は、老猫は両俣となって人をたぶらかす上、狐と交わり狐を産むという大昔の話も何処からか仕入れてきた。「此寺に十数年経し斑猫の有しが、つねに山に入て遊ぶ。明和元年春子をうむに、猫に異なり。毛色は猫のごとく白黒まだらにて、姿は猫にあらずして狐なり」──ナマエとしてはそれよりも、娘の身を案じるがあまりにたがが外れて怪しげな宗教にのめり込み、家庭が崩れていく昼ドラのような話のほうが、よっぽど真実味がある。第一、ナマエの老猫は雄だったし、尾はふさふさとしていたが、いくら数えたってひとつだけだ。

 稲荷には猫が寄る。猫が姿を晦ませてしまった時、立願すれば猫は必ず戻ってくる。

 誰そ彼、とある稲荷に肖り猫を探しに小社へ向かうと、鳥居の向こうに何かがいた。何度となく小社には足を運んでいるが、はじめて見る姿だった。人の形をしているが、見たままに「年若い男がいる」と処理するにはあまりにも妖しさのある、不思議な男だ。
 まず目をひくのは銀色の髪である。珍しくもない少年らしい髪型なのに、色が違うだけでこうも見え方が変わるらしい。瞳は作りものめいた金色をしていて、目元を彩る紅の隈取りに神々しさが見えた。これで着物を着ていれば、場所が場所だけに間違いなく稲荷の化身と信じ込んだだろうが、身に付けているのは洋装染みた軍服のようであり、腰に刀を佩いている。口元は黒漆の面頬に覆われてよく見えない。そして肩には、小狐の襟巻きがあった。
 ぼうと佇んでいた男は、ナマエに気がついたのか声をあげた。
「おや、こんなところに娘さんが」
 声は高い。しかしソプラノ音域に恵まれた青少年の声というには聊か滑稽な響きをしていて、男の持つ妖しさとは異なる不可思議があった。
「あなたはこの小社のお稲荷様ですか」
 何を言うべきか。口にするかどうかも迷いながら問うと、
「稲荷ではございませぬ。これなるは粟田口派、左兵衛尉藤原国吉が打ちたる打刀、鳴狐でございます」
 と言われた。
 ナマエは、とうとう自分がおかしくなってしまったのだと思った。よく見れば男の口はぴくりとも動かず、口を開いていたのは襟巻きの方だったのである。
 驚きのあまり口をつぐんでいるうちにも、襟巻きの口はよく動いた。
「しかし此処は何処でしょう。困りましたね、鳴狐。どうやら我々は見当違いの場所へ飛ばされてしまったようで、仲間達も傍にいない」
 襟巻きの言うことはちっともわからなかったが、ナマエは男のほうを窺いながら、おそるおそる尋ねた。
「あなたも迷子なのですか」
「私達の想像と異なる場所であったというだけで、儀礼の順序通りに呼び出されたのが此処であるのなら、迷子とは言い難いでしょう。主殿に聞いてみなければと思いますが、今はその声が聞こえませぬ」
 やはり襟巻きの言うことはちっともわからないので、この不可思議ははじめからわからないものなのだと思った。ひょっとすると今この出来事は夢なのかもしれないとも思う。
 全てが全て、夢の話。
「あなたもとおっしゃいましたが、娘さんも迷子なのですか?」
 襟巻きに問われたので、小さく首を振った。
「猫を探しているの。もう何日も家に帰って来ないから」
 襟巻きはほうと頷き、男の肩で器用にもすくと立ち、小社を振り返った。ナマエは襟巻きほど面妖な狐を生まれてはじめて見る。
「なるほど、迷い猫の願掛けに。ここで会ったも何かの縁、願うだけであれば差し障りありません故、共に願おうと鳴狐も言っています」
「鳴狐──」
 ちら、とまた男の方に目をやった。角度を変えると緑がかっても見える金目が、ゆらゆらと光を散らしながらナマエを見下ろしている。甚だ作り物めいているが、恐ろしさはなかった。母や見知らぬ大人達がする目のほうが、一様に濁った赤色をしていて恐ろしい。
 ──うちの猫と同じ、綺麗な目をしてる。
 気付いた時、そう呟いていた。鳴狐が微かに首を傾け、面頬の飾りが小さく音を立てた。

 それからどのくらいの時が経ったのかはわからない。立願した後も鳴狐から離れ難く、小社に寄りかかって、いくつかのことを話した。猫を可愛がっている話、祖父母と小社に足を運んだ話、母がよく作ってくれた料理の話──。もうどのくらい前の話だろう。母は、祖父母がいた頃は肉を苦手とした彼らを気遣って、魚や煮物ばかりを食卓に並べた。それが食べ盛りには不満で残しもしたが、ただそれも今にしてみれば懐かしい味となり、魚などもう随分と食していない。脳裏のどこかに潜り込んだあの味を引き出そうとしたが、本当は食べたことなどなかったかのように記憶は横滑りして、腹が苦しくなるだけだった。
 鳴狐の傍にいると、時の流れが歪に感じた。たった数分の事でも何時間も何日も経ったようで、何十年何百年にも思えた。過ぎ去りし日々が帯となりチラチラと瞼裏に瞬く。時は淀み、奔流となり、渦巻き、行きつ戻りつする。そのうち、うとうとと眠りに落ちた。

 ふいにナマエが目を覚ました時、辺りは真っ暗だった。葉影の闇は蹲る身体を覆い尽くし、鳥居の朱色も暗く濁った。鳥の鳴き声は一羽も聞こえない。声に出してみたが、襟巻きも鳴狐の姿もなかった。
 みんないなくなってしまった。
 ナマエは蹲りながら、ぼんやりと小社を見上げた。かつて祖父母に手をひかれて見上げた小社を、幼い頃はどんな気持ちで見上げていたのか、いまひとつ思い出せない。今や訝しむだけの存在となった母も、いったい何であったのだろうか。
 狐狗狸さんをして窓が割れたのはふざけた男子生徒が箒を振り回したからで、古狐の霊が見えるといった同級生は、中学に上がってからは霊の話など一言も口にしなくなった。霊媒師は、いつだったか詐欺罪で新聞の隅に取り上げられていたから、母の揺らいだ情緒は馬鹿馬鹿しいものである。
 ずっとそう思ってきたが、こうしてひとりきりになってしまった。この目は人と違っていたのかという考えが胸に生じて、途端に心細くなった。小社には誰もいない。そのうち朽ち果て、次々に芽吹く草木に覆われて忘れ去られていく。
 ナマエは母親の名を呼んだ。それから父の名を呼び、祖父の名を呼び、祖母の名を呼んだ。しかし誰の返事もなく、わずかに上体を伸ばして、最後に老猫の名を呼び、狐の名を呼んだ。本当にひとりきりになってしまったのかと。
 するとどこからかのそり、杳として知れなかった老猫が木々の隙間から姿をのぞかせたのだった。金目に、毛並みは月のように白々と鮮やかにひかっている。ナマエは老猫を見返す。ようやく見つけた。お前がいなくなってしまうだなんて本当に信じていたわけじゃないけれど、ずっと探していたんだから。
 老猫が微かに首を傾け、首輪の飾りが小さく音を立てた。それから稲穂のような尾をくゆらせて、また木々の向こうへ行ってしまう。ナマエは弾かれたように立ち上がり、老猫を追いかけて消えてしまった。

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