君はいくつかの罪でできている

 どこか知らない世界に迷い込んでしまって、どうしてアリスは泣きださなかったのかな。
 うらのやま。
 本当はそんな名前じゃないと思うけど、みんながそう呼んでいたから、あの場所のことはそう呼んでいる。……みんなって誰? 誰だろう。わからないけど、そこはどんぐりを落とす木がたくさんはえていて、昼も夜もなく、いつもうす暗い場所だった。風もいつだって冷たくて、葉がこすれる音はしたけど、車の音は聞こえなかった。
 長い長い、石でできた階段をのぼるのは、ちょっとたいへん。でも、くすんだ赤色のトリイをくぐると、ゴールテープをきったみたいに気持ちがよかったし、その先にある神社は、ほんとうに別の場所だなって感じがして、いやな気持ちはしなかった。水がためてあるところで手を洗って、こけのはえた石をなでると、指の先からしっとりと熱がにげていく。ところどころ色のはげたシーソーとブランコは、いつもすみっこで落ち葉につつまれている。あそんでいる子は他にいなかったから、私だけのとくべつな場所。

 いつもそこで    をまってた。

 思い出すのはそこでおしまい。そこまでくると、いつもドォンと大きな音がいっぱいにひびいて、目の前はけむたい桃色のあぶくで何も見えなくなる。ぎゅっとつむっていた目をあけると、そこはもう、知らない場所につながっていた。
 私はあの時、誰をまっていたんだろう。聞いてみても、みんな知らないと首をふる。誰も近くにいなかったのかな。ぼんやりしていると、手をひいてもらった。やさしく私を呼んでくれたから、ほっとして、ぎゅっと手をつないだ。そうやって今、ここにいる。

   *

「ナマエ」
 聞き慣れた声に顔上げると、ナマエはぱっと相好を崩した。どこか乱雑に切ったようにも見える短い黒髪に、同色の細身のスーツを着た青年。名を呼ぶ声は深々と落ち着き、冬の闇を満たしたような目つきをしていても、ナマエはそれが雪解けているのを知っている。広げていた図鑑を閉じて駆けよれば、青年は慣れた手つきで後ろ手に襖を閉め、小さな体を受け止めた。
「おかえりなさい、恭弥くん」
「うん、ただいま。今日は何をしてたの」
「図鑑を見て、あと、漢字の書き取りしてた」
「他には?」
「数学もすこしだけ」
「ふうん」
 聞いておいて、さして気のなさそうな返事をしながら、中学一年生用、と表示された書き取りノートをぱらぱらとめくる恭弥に、まとわりつきながらナマエはどきどきと見上げた。
「ちゃんとできてる?」
「見てるから、急かさないで」
 昔、園の先生に、遠足の絵を描いて見せて下さいと言われた時に似てそわそわとしてしまう。先生はよくできましたと花丸をくれたが、実のところナマエは、絵があまり得意ではない。自分でもそれを知っていて、何年か前に恭弥の似顔絵をかいた時も「似てない」とはっきり言われてしまったことを、実はまだ根にもっている。
 恭弥はひとしきりノートを見終わると、黙ってナマエの頭を撫でた。
 よかった、ちゃんとできてたんだ。
 言葉少ない恭弥の行動で、心は容易く曇ったり晴れたりを繰り返した。
「笹川京子とは何を話したの」
 恭弥が畳の上にどっかと腰を下ろすと、視線がぐっと近くなる。いつも見上げるだけの恭弥のやわらかそうな髪が、眼下にくる時がナマエは好きだった。未だ自分の頭に残る感触にふわふわと心を浮きたてながら、同じように男の頭を撫でると、眩しそうに恭弥は目を細めた。そうして、ぐいとナマエの薄い腰をひきよせる。恭弥もまた、自分よりもひとまわりは小さな少女の愛情表現を受けるのを、不快とは思わなかった。
「あのね、ナミモリーヌのチョコレートケーキがおいしいんだって。あと、期間限定のアップルパイも」
「へぇ、他には?」
「他は、京子ちゃんが行ってた、中学、の話。ツっくんて人の話を聞いたよ」
「会ったのかい?」
「ううん、話で聞いただけ」
「……そう」
 一瞬鋭くなった恭弥の瞳がやわらいだのを見て、ナマエはこくりと、静かに唾を呑みこんだ。
 中学という言葉を口にしたナマエの視線が一瞬泳いだことを、ナマエは自覚していたし、恭弥も見逃さなかったけれど何も言わなかった。
 ナマエの周囲にいる人間というのは、恭弥と、時々話相手に顔を出す京子と、恭弥の腹心である草壁の、三人程度しかいない。
 ナマエは自分がもう、十三歳になることを知っている。普通であれば中学校に通う歳のはずだが、小学校にすら通っていなかった。そのことが普通でないということも知っていたけれど、それは幼い日に身に起きたまぼろしのような出来事が理由のひとつなのだとやはり知っている。
 ナマエはこの世界でかわいそうな孤児だった。身よりもなく、けれど人に言い難い事情を抱えているナマエを普通の子として町に送り出すわけにもいかず、この九年間、ずっと恭弥が保護していた。
 それは恭弥を取り巻く薄ら暗い世界にとって、さほど珍しい話というわけじゃない。一人きりの子どもがいれば、物盗りになるよりも養子にと引き取る夫婦もいたし、鉄砲玉にと育てる組織もあった。珍しいといえば孤高の浮雲と称される恭弥が、下手をすれば親子ほど歳が違う幼い子どもを保護しているという点だ。それは人の興味をそそったが、人付き合いを嫌う恭弥の性格上、深く詮索されぬまま、ナマエはすくすくと成長し、恭弥の傍にひっそりといることを周囲にも受け入れられていた。
 それは恭弥にとって幸いなことだったが、ナマエはしばしば考えてみることがあった。
 普通でないのは、しかたがない。
 幾度も疑った自分の記憶を返りみて、しかし矢張りあれは――エプロンを掛けた女が台所で水仕事をする姿だとか、不格好なプリンの味だとか、同じように幼かった子どもと並んで園を帰る途中、ねこじゃらしが生い茂る用水路を覗きこんだ日のことだとか、小さな記憶の欠片ひとつひとつが、作りものなどではないという結論に至った。あの日々を過ごしていた自分は特別なのではなくて、皆が進む定刻のレール通りに小学校中学校に進学し、ゆるやかな日々を過ごすはずだったと確信している。
 けれど思い出を掘りかえり普通であることを叫ぶのは、絶対にしてはいけない。ただひたすらに無知で幼かった頃と比べ思うことはあっても、自分が手にするはずだったものを恭弥の前で零しそうになる瞬間、ナマエはぎゅっと口を噤んでそれを心の奥底に仕舞い込んだ。
 口にしてしまったら最後、何かおそろしいことが待っている。
 漠然とそんなことを感じてしまうのは、恭弥が己の性格を盾に頑なに名前の交友関係を制限し、水彩絵の具を滲ませるように、恭弥の持つ筆で幼い日の記憶を夢のように曖昧にさせようとする気配をいくつも感じてきたからだった。
「そうか。もう、十三になるんだね」
「……うん、十三歳」
 時折、何かを懐かしむように、恭弥がナマエの年齢について口に出す。よくわからないまま、ナマエも頷いて反芻した。切れ長の瞳を意味ありげに伏せ、腰に置いたままだった手をするりと滑らせると、恭弥はそれきり沈黙した。「じゅうさんさい」と再び確かめるように、微かに唇が動いたような気配はしたが音はなく、ナマエはじっと恭弥を見詰めたまま、じわじわと大人の手に熱を孕んでいく腹に、意識をとばしていた。

 ──ナマエ。

 青年の影に未だ幼さを残した恭弥に、手をひかれたあの日から九年が経つという。
 あの場所は、いつでも背の高い樹木が薄暗く辺りを覆っていて、冷たい風がさわさわと木々の隙間を吹き抜けていた。いっそ毒々しいほどに真新しい赤の先に立つ黒は、手招いて知らぬ筈の名を呼んだ。
 鏡の向こう側のようなちぐはぐと見覚えのある世界で、見知らぬ大人は迷い子の手を一番にとり、何食わぬ顔で新しいレールを用意した。
 はじめこそ四六時中傍にいて仔犬をしつける時みたく、粗相をすればその場で矯正し、示された事にうまく従えばやさしく頭を撫でてくれた。ケージの中だけだった世界は共に時を過ごすにつれてみるみる広がり、部屋の一室を自由にし、フロアを自由にし、庭で放し飼いにするが如くとなり、その頃にはもう、恭弥が片時もナマエから目を離さないということはなかった。
 けれどそれは、手綱が切れたというわけではない。
 恭弥はナマエが自分の元を去ることはないと知っていたし、ナマエもまた、恭弥の気配がないところに行こうなどと、考えたこともなかった。

 ――恭弥くんは何故、あの時名を呼ぶことが出来たのかしら。

 今でこそ「だいすきな恭弥くん」であるが、はじめからナマエは恭弥を知り懐いていたわけじゃない。恭弥だって、ナマエを知らないはずであった。……それなのにどうして恭弥は容易く名を呼び、この性格で保護しようなどと思い立ったのか。
 考えようとする頭を、無理やり首をふってとめる。
 与えられる筈であった普通を求めることがいけないように、この言葉もまた晒してはいけないものだと、誰に零したわけでもなくナマエは思う。
「何を考えているの、ナマエ」
 ぶるり。
 恭弥の長い指先が下腹部を掠めると、そのまま秘した想いも暴かれてしまいそうな気がして、息を呑んだ。微かに震えたナマエを見上げる恭弥は、高熱を出す子どものような目をしていた。
「笹川京子は、君に何を教えたの」
 恭弥の声色はいつも通りだったけれど、どきりと、ナマエの心臓は大きく波打った。恭弥の熱が一瞬にして移ったかのように頬に血が集まった。意図したことかそうでないか、恭弥の指先に力がこもり、腹の内側のほうで鈍い痛みが生まれる。
「近頃、調子が悪かっただろう。隠していたようだけどわかるよ。……初潮がきたんだろう? それで、笹川京子に相談しに行った」
 返事をする変わりに胎の中からどろりとしたものが落ちたのを感じ、ナマエは恥ずかしさと後ろめたさに俯いた。
 恭弥の言うことに嘘はなかった。
 恭弥と過ごす九年間、ナマエはほとんどのことを恭弥から教わって生きてきた。それなのにこの事ばかりは恭弥に告げず京子に相談を持ちかけた理由を、はっきりとは自覚していなかったが、打ち明けた時京子は、恭弥にそれを告げられなかった事を深く頷いて理解を示した。初潮は、恥ずかしいことではない。女の子なら誰もが通る道で、母親になるための準備をしているのだと、京子はやさしくナマエに説いた。
 母親とは、どのようなものだっただろう。
 最早遠景に揺らぐ点のような存在。恭弥と出会う前まではずっとそれにすがっていただろうに、断片的な記憶に残る母親の姿は、散り散りの写真でしかなく、ぬくもりがなかった。
 恭弥はナマエにとって父親のようでもあり、兄のようでもあり、肉親でない男の人でもあった。恭弥にはぬくもりがあるけれど母親の影を感じることはなく、そればかりか近頃は、恭弥の目を見ていると「肉親でない男の人」というのが強く重なって見えた。ナマエには、それが何なのかわからない。けれどやっぱりそれも恭弥本人には言えず、ツっくんの話を自分と同じような目をして話す、京子に答えを求めたくなるような事だった。
「……笹川京子には感謝しないと」
 独り言のように遠くを見詰め、恭弥が小さく呟いた。目の前のナマエに笑いかけるでもなく、口元は微かに弧を描いていた。
「自分が子どもを産める身体になったということは、理解したかい?」
 いつもはそんなこと無いのに、しっかと己を掴み離さない恭弥の熱に、今日はぐらぐらと頭の中が揺れるようだった。恭弥がおかしいのか自分がおかしいのかと戸惑って口を開くことが出来ず、ナマエは怯みながらも頷いた。身を固くしているナマエを見ても、腹の底にある薄暗い欲望が冷めることはなく、恭弥は頭の隅でかわいそうな少女を想いながら、けれど口のとまらぬ己の姿を黙って見下ろすだけだった。
「赤ん坊が出来れば当然母親になる。図鑑を眺めていたようだけど、赤ん坊のつくりかたは知っているかい? キャベツ畑でもコウノトリでも無く、何を経て、一人の女になってゆくのか」
 恭弥の視線が卓上に移ったのにつられ、ナマエはそこで、少し前まで物思いに耽るように眺めていた図鑑を見た。
 紅梅色に似たヒトの中身が描かれた、重たげな表紙。一枚一枚が厚いページをめくった先に、洋梨のような形をした器官があった。己の中にも在るあの肉々しい果実の中で、子は育つのだという。それは俄かには信じ難い話だったが、京子は遠まわしにもそう言っていたし、図鑑だって同じことを記していたから、本当のことだとナマエは思う。それに恭弥も、洋梨のぐずぐずとした皮をむきたそうに指先をすべらしているのだ。その行動に意味など無いのかもしれない。けれど、今にも細く長い指がずぶりと肉に沈みこんでしまいそうで、ナマエは縫いとめられたかのように目を逸らすことが出来なかった。
 視界の外で、獅子脅しがひとつ鳴いた。閉ざされた庭に吹く風は無く、不自然なほど穏やかなみどりの空気が深く薫っている。ふいに、聞いたことのある音で、泣き叫ぶ女の声が聞こえたような気がした。けれど内緒話をするみたく恭弥の唇が誘ったものだから、空耳のせいにして目を瞑った。
「……教えてあげる」

 きみはいくつかのつみでできている。



 XXXX年X月X日、並盛町在住の岡田よう子ちゃん(仮名)当時4歳が、この日の夕方、突然姿を消した。
 町内の会社に勤めていた父親は朝八時に出勤し夕方から夜にかけて帰宅する生活。母親も当時パートに出ており、町内の園に通っていたよう子ちゃんは午後3時過ぎに園から友人と帰宅後、祖母と留守番をしていた。
 午後4時前に母親がパート先から電話を入れ、この時よう子ちゃんが電話に出ている。母親は今から帰ることを告げ、よう子ちゃんは「おむかえする」と応えた。よう子ちゃんが母親の出迎えを玄関先ですることは珍しいことではなく、母親の通る、家から徒歩二分ほどの神社でよう子ちゃんの姿を目撃したことがあるという証言は多数寄せられていた。この日も、午後4時5分、自宅の隣にあるコンビニエンスストアで、よう子ちゃんがひとりで通りを歩く姿が、防犯カメラに記録されている。
 午後4時15分頃、母親が帰宅してよう子ちゃんがいないことに気が付いた。祖母もよう子ちゃんがいないことをその時知り、テレビはよう子ちゃんが好んで見ていたという教育テレビを映し、二階の窓は開いたままだった。その後父親も帰宅するが、夜になってもよう子ちゃんは戻ってこなかった。午後7時には警察に連絡し、近所の人や園の関係者らと付近を捜索したが、見つからなかった。


(121127)(141217 改稿)

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