タロッコと朝食

 口の中にじわじわと味噌の風味が広がっていくのを、黙って受け止めていた。見開いた眼前には不満ありげに寄せられた眉間の皺と伏せた瞼があり、艶のある睫毛が呼吸の度微かに揺れていた。……近い。いや、近いなこれ。なんだこれは。眺める時間が一秒一秒長くなるにつれて、思い出したように心臓がうるさく喚きだし、背中をつうと変な汗が流れていった。
 何してるの、いったい。
 いつもは向かいに座る食卓の席を、わざわざ横に変えてきたからおかしいと思っていたのだ。寝起きでぼんやりしているのではなく、朝っぱらから考え込むように押し黙って箸を進めていたから、自分が何かやらかしたのではないかと思ってハラハラしていた。
 爽やかさとは程遠い重苦しい空気。それをどうにか払拭しようと何気ない風に味について尋ねると、恭弥さんは何も言わず箸を置いた。ぱちん、と心なしか高く音が響いて、いやに喉が乾いていく。
 これは最悪離婚届か。と出汁巻きを咀嚼しつつ平静を装っていると、知ってか知らずか、恭弥さんはわざわざこちらへ向き直るとじっと双眸をあわせた。おそるおそる箸を置き、私もまた体を向ける。
「……え?」
 おもむろに伸ばされた腕が後頭部を捕えた時、朝っぱらから首をひねられるんじゃないかと思っていた。
 それなのにまさか。
「っ」
 まさかまさかまさか、唇を重ねてくるなんて。
「……っ、は」
「……はっ、え? あ……」
 突然の奇行がなんだったのか答えを導き出す前に、気づいた時には唇は離れていた。
 口づけを終えた恭弥さんの表情に浮かんでいたのは酷く詰まらなそうな、なんというか、口に含んだ牛乳がいたんでいた時のような顔で、また私は困惑してしまう。
 沈黙を横たえた後、恭弥さんはただ一言告げてまた箸を取った。
「……おいしかったよ」
 嘘だ。と思った。どう見てもおいしさを伝える時の表情ではない。そもそも何がおいしかったというのか。現在出汁巻き風味の私の唇か、それともインスタントで出汁をとった味噌汁のことか。
 はぁ、へぇ、と不明瞭な返事を返し、私も再び箸を進めた。恭弥さんも黙って、何事もなかったかのように白米を口に運んでいる。
 ……いやいやいや。一体何が。
 食べながら夢を見るなんて――しかも妙な夢だ――そんなに欲求不満だったのだろうかと、少しばかり恥ずかしく思いながらオレンジを噛む。
 少し前に頂いたシチリア産のオレンジは薄皮に沿って赤く、オレンジ色と相まって目の覚めるような鮮やかなコントラストをしている。ぷちぷちと口の中で弾ける果肉のジュースを飲みこんで一息ついて、ちらと横を見れば、恭弥さんはやっぱりそこにいて正面の席はずっと空席だ。
 夢ではないのか。
 口の中を目の覚めるようなオレンジで洗っても唇の感触は消えず、未だ熱を抱いているようにじんわりと震えている気さえする。一度それを意識し直してしまうともうダメで、目の奥まで熱くなってきてしまう。
 おちつけ、おちつけ。
 おさまりかけた心臓の鼓動は激しさを徐々に取り戻し、今更耳の先までかっと熱が宿る。誤魔化すようにぱくぱくとオレンジの切り身を口に運び続けていると、そんなにおいしいの、と声が投げられた。食べながら頷きまた含もうとすると、唇まであと一歩というところでぐきりと首が寝違えたように痛んだ。
 恭弥さんが挑むような目で私を見ている。
 デジャヴだ。
 二度目だからか、先ほどにくらべて躊躇なく近づいてきたそれに抗議の声をあげる。すると音と共に果肉果汁が散り、その甲斐あって、恭弥さんは僅かな隙間を残してぴたりと制止した。滅茶苦茶に不快そうな表情を浮かべたその顔には、しっかりと汁が付着している。
「汚いんだけど」
「だ、いだっ、いだだだだ……っ」
 恭弥さんが顎を掴む手に力をいれるたび、口の中からぽろぽろオレンジの残骸が零れてゆく。汚いな、とまた呟いて恭弥さんはようやく手を離し、手拭きで口元を拭いはじめた。
「だっ、誰のせいだと思ってるんですか!」
 僅かに残ったオレンジを急いで飲みこんで吠えれば、責めるような目を向けてくるのだからたまらない。
 なんだなんだ、私が悪いっていうのか。悪くない悪くない、私はなんも悪くない!
 負けるものかと睨み返してやると、恭弥さんは目を伏せ、ふぅと長く溜息を吐いた。そしてやっぱりぶすっと顔を歪め、吐き捨てるように呟いた。
「君のせいだよ」
「は?」
「跳ね馬から聞いた」
「……ディーノさんから?」
 何をだ。
 私の知る限りではたった一人しかいない跳ね馬ことディーノさんをぱっと頭に思い浮かべた。今まさに食べていたオレンジみたく、明るくさわやかなイタリア人。向こうも忙しいのか、なかなか会うことはない。最近では電話で一言二言話したのだったか。内容だって、とるにたりない些細なことだ。オレンジが空輸で届いたことに御礼をして、結婚生活について軽い近況を話して、ヨーロッパ方面の新婚さんの話をちょっとだけ聞いて――。
「あっ」
 あれはどこの国の話だっただろう。おはようおやすみにいってきますにただいま、食事ひとつをするにしても、幾度も幾度も、おいしいよハニーありがとうダーリンと口づけを交わす夫婦の話を聞いたのだった。日本では聞いたことのない愛情表現過多に、わーすごいですねーうらやましーなどと社交辞令をぶちかました記憶がうっすらある。
「あー……えっと」
「忘れたなんて言わないだろうね」
「……はい、忘れてないけど、も」
 ディーノさん、一体その言葉をどう受け取ってどう解釈し、どう恭弥さんに伝えたのだろう。
 朝食時の恭弥さんの様子を見るにろくな伝わり方はしていないのだろうが、あの恭弥さんが、プライドが高く人の話を聞かないような恭弥さんが、嫌々ながらも試してくれたのだ。恭弥さんがおそらくは私のために。あるいは負けず嫌いな気性によって。
「……何その顔」
「いや、だって、でも……ふ、ふふ」
 恭弥さんが? 恭弥さんがしてくれたっていうのか。いい歳して。嫌そうな顔をして、でもやってみたほうがいいんじゃないか、だなんて。
 胸の奥から甘く瑞々しい感情が込み上げてきて、とめようにも、くすくすと笑みが零れてしまう。恭弥さんはむっとしたままだ。引っ込んでいた手が頬に触れ、軽く抓りにくる。
「くだらないことさせないでくれる」
「で、でもうれしかったですよ」
「間抜け面晒して人に食べカスふきつけて、何が嬉しいっていうの」
「す、すみません。でも、びっくりしちゃって」
「僕もそう思ったよ。女はこんなので喜ぶのかって」
 跳ね馬の言うことはもう信用しない。そうぼやいているのに、大人しくしていると頬の肉を伸ばしていた指先は、徐々に、やさしくとろけるような色を帯びてゆく。くすぐったさにうっとりと目を細めれば、眼前の唇が弧を描き、いつもの不敵な笑みが恭弥さんの顔を支配した。きれいなお顔。諺なんて意味を成さない程に飽きはこず、見惚れてしまうことを誰が笑おう。
「つねって撫でるだけなのに、随分とよさそうな顔をするね。安上がりな女」
 そうやってまた馬鹿にする。
 だけど頬は膨れない。だらしなくゆるんでしまって、頭は胸に寄り添いたがっている。
「たまには、朝食の時に遊んでやってもいいよ」
 喉の奥で少し笑って顔を近づけ、口の周りについた汁の名残を、舐めとる舌にぞくぞくと爪先がはねる。首をすくめ勝手に逃げようとする身体は、大きな手がきちんと引き寄せてくれた。続けざまに噛みついてきたものを唇で受け止めれば、口内に広がるオレンジの香りがどくどくと脈打つようだった。
 閉じた瞼の裏に、燃える赤が見える。
 糸をひく名残を感じながら瞼を開けば、目元をほんのりと染める朱に幸福な溜息が零れた。


(120412)(141217 改稿)

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