ピグマリオンの獣

 並盛公園の藤棚を薄紫の花房が果実のように彩る頃。嫡男の誕生日を控えた雲雀の家には、客が訪れていた。若いくせに覇気がなく、生きているのか死んでいるのかわからぬような女だった。
 来訪は予告も無く突然だったが、女は顔を突き合わせたはじめから言葉を忘れたように、ずっと頭垂れたままうんともすんとも言わない。眺めていれば鳩が飛び出すからくり仕掛けもなく、雲雀恭弥はつまらなそうな顔を隠しもせず、見知らぬ女を連れてきた祖父を睨みつけた。祖父は静謐な顔を崩さぬまま、泰然たる声色で不機嫌な孫に言う。
「この娘を、今日から預かることになった」
「ふうん」
 雲雀は別に、驚きはしない。ただし怪訝そうな顔は崩さなかった。

 前線から退いて久しい祖父は、雲雀の家――並盛町の一角にある屋敷――から少し離れた、山のほうの鄙びた庵で悠々自適な隠居生活を送っている。生家まで降りてくることもあるが、雲雀の一族に流れる血か、祖父も孫も他者に干渉されることを好まぬ性質だった。無論家族であっても、互いに干渉し合うことは滅多にない。

 祖父の家で居候が一人増えようが二人増えようが、改まって報告することじゃないのに。
 他の一般家庭では大問題となろうが、雲雀恭弥の見解は変わらない。このようなことに時間を割くなんて馬鹿馬鹿しいと、堪え切れぬ欠伸をそのままに口元に手をあてた。耳の奥に膜が張り、細めた瞳が水気を孕む。応接間をあたたかく包む春の日差しにイ草の匂いとくれば、昼寝するより他はない。そういえば少し小腹も空いたな、と少々意識を飛ばしていると、祖父の声が耳に入った。半分ほど背景音楽として右から左に流していたものだから、聞き取れたのは最後だけだ。
「――と言う。不自由しないよう、よくしてやってくれ」
 よくしてやれ、だって?
 聞き取れた言葉を無言の内にゆっくりと咀嚼する。日差しにほぐされていたはずの己の眉間に、再び皺が刻まれていく。
 雲雀恭弥は馬鹿ではない。超直感などというオカルト染みた才能がその血に流れているわけではないが、目の前の相手が何を言わんとしているか、ある程度察する力はある。だからこの場は嫌な予感しかしなかった。
 言ってしまえば、祖父がこの「いかにも」ワケありである様子の女を連れて来た、その瞬間面倒な未来が脳裏を掠めていた。現実にならなければいいと騙し騙しきたものの、祖父が身を引く未来は訪れなかった。
「……なんだって?」
 馳せた先に益々眉根は寄り、一度は興味の失せた女にいやでも視線がいく。上から下までじろじろ眺めたって、不躾と罵るような輩はいない。女は居心地悪そうに縮こまり、身をぎゅっと硬くして服の裾を握り締めるだけだ。
 祖父は孫の様子を咎めはしなかったが、少々呆れたように――孫の行く末を心配していたように、ともとれる――溜息をついた。
「恭弥、この娘はお前が婚姻を結ぶ相手だ」
「こん……?」
「お前の妻となる娘だ」
「は?」
 流石に瞬きを忘れた。
「私が若い頃、この娘の家のものに世話になったことがあってな。大きな借りであったから返さねばなるまいと交渉していたのだが、好意でやったことだからなにもいらぬと言われ続けて数十年間……」
 懐かしげに空を見上げた祖父は、ふと声色を落とし。
「先日、孫娘ひとりを残して逝ってしまった。もしものためにと残した遺言に、何かあれば頼るようにと私の名が記されていた。……何もいらぬと言っていた割には強かな奴だが、孫娘のことだけは酷く可愛がっていたからな。借りを返すにはもうこれしかないのだし、聞き入れる他はあるまい」
「だからって、僕に押し付けていいとでも?」
 雲雀はムッとして答えた。
「借金が大きく一人の代で返せないなら、子や孫に継がれていくのは仕方のない話。それに、お前も私に借りがあるだろう。それこそ私が生きている間に返し切れるかわからないような、大きな借りが」

 雲雀恭弥に武芸のいろはを教えたのは祖父だった。
 戦時中、敵地に赴き将として奮ったというその腕は歳を経て尚輝きを衰えさせず、幼き日の憧れとして身に染み込ませたのはまず間違いない――間違いないが、なんと乱暴な言い分か。
「勝手な人」
 呆れ半分、雲雀は祖父から視線を逸らし女を見やった。
 小さな女。近頃身辺を騒がしくさせている連中に、これくらい小さいのがいただろう――牛柄の、群を抜いてうるさいアレと同い年ぐらいか。あれよりはずっとおとなしいが、不遜な赤ん坊のように、見ているだけで産毛が立つような、何ともいえぬ気配も感じはしない。
 ごく普通の、ありふれた、哀れな幼い子ども。孫の代までの大きな借りとして此処にいる女。事実上孤児となり右も左もわからぬまま連れてこられ、大きな流れに逆らう術など決して持ち合わせていない、無知で無力なイキモノ。放り出せば瞬く間に濁流に飲み込まれるほど弱いイキモノにどれほどの価値があるだろう。
「僕がこのイキモノの面倒をみると本気で思ってるの?」
「頂点として君臨しているという話は噂だったか」
「……どうあっても置いていくつもりだね」
「まぁ、何も絶対に娶れとは言わない。娶るつもりで育てろと言っている」
 いくらか軽い様子になってきた祖父は、今にも泣き出しそうな娘の頭を皺だらけの手でぽんぽんと叩き、ゆっくりと腰を上げた。腰をさする姿さえわざとらしく見える。逃げる気かと睨みつけても、十分もすれば飄々と庵に帰って行くことは明白だ。
 雲雀は諦めたように女の面倒をみることを決心した。それは
「せっかく四歳か五歳、そこらの娘を傍に置くんだ。光源氏に倣って、己の趣向に合う娘に育ててみるのも一興だろう」
 という冗談とも本気ともとれぬ台詞が、思いの外雲雀の好奇心をそそったからであった。

 雲雀恭弥は王者として並盛界隈に君臨している。雲雀恭弥は己と対等にやりあえるほどの強い生き物を好んでいた。故に、雲雀が一番に描いた構想はこの幼い女を強者として仕立て上げることだった。このいかにも弱々しい、風に煽られればよたよたと足元をおぼつかせるイキモノに、どれほどの可能性が秘められているかは誰も知らない。はっきり言って、見込みはなかった。だが、雲雀のよく知る不遜な赤ん坊は、誰もが気にとめていなかった沢田綱吉という男を、草食動物でありながらハッとさせるほどの強さをもつ男に仕上げた。それに倣えば、あるいは自分を愉しませてくれる存在と成り得るかもしれない。

 季節は五月から七月へ。雲雀が幼い女を引き取ってから……もとい、祖父に押し付けられてから二カ月が経過していた。
「どういうことなの」
 雲雀恭弥は、すっかり騙された気分だった。
「体力も腕力もないし、俊敏さも判断力にも欠ける。幼いことを差し引いたって酷いものだよ。僕が小さい頃はこんな軟弱じゃなかったし、赤ん坊のとこの、あの牛柄の子どもやチャイナ服の子どものほうがずっと優秀じゃないか」
「と言われてもな」
 己の体がすっぽり覆いかぶさるほどのソファに身を寄せ、コーヒーを啜る例の赤ん坊は、どうということもなく言葉を返す。
「少し調べてみたがその娘、血が特別なわけでもないし、死んだ両親もその先祖もどこまでいってもカタギだ。才能があるヤツなんてもともと稀だし、お前を愉しませられるレベルになるかっつーと、それこそ雲をつかむような話だ」
「つまり?」
「つまりそういうことだな」
「……へえ」
「まぁ、痴漢撃退くらいは出来るようになるだろ。お前の歳になれば」
 そのような言葉は慰めにもならない。それに、人を育てるスペシャリストであるこの赤ん坊に言われずとも、本当はわかっていた。
 弱い弱いイキモノが劇的に変わることなど稀である。変わるとしても、長い長い時をかけなければ、その片鱗すら見せない。甘い話などそうそう転がっていないのだ。
 いっそ返品してしまえたら。溜息をついた先で、件の幼い女は眉をハの字にし、どこか申し訳なさそうに縮こまっていた。

 幼子特有のやわらかい肌にはぺたぺたと絆創膏がいくつも貼られ、その様子は痛々しいというよりも、まさに屠られる者としての彼女の存在を確立させていた。自己治癒力に特記したところもない様子を何日も何日も見せられて、雲雀をうんざりとさせる。
「まったく、ひどい拾い物だよ」
「それにしても、こんな小さいの相手に容赦ねーな。一歩間違えたら死ぬぞ。女の体にこんなに傷をつけて……責任はとらねーとな」
「弱いヤツが悪い」
 幼い女は、更に更に俯く。自分の何が雲雀恭弥を失望させているのか、わからないなりに、何も出来ぬ自分を罵っている空気はよくよく感じとっていた。痛いほどに。

 雲雀恭弥がこの幼い女の何もかもを軽んじ、見くびっていたとすればそれは間違いである。
 いくら幼く、特別な才能を持ち合わせていなくても考える力があることを、彼は期待外れの結果に覆いかぶせ、すっかり忘れていた。

 それから数週間後のある日。八月の長期休暇に入ると、並盛町内では夜に徘徊する校則違反者、および迷惑千万な酔っ払いがちらほらと姿を見せた。
 元々町内の治安を自治するために、方法を問わず活動してきた雲雀属する風紀委員会は――己らが風紀を乱していることはさておき――その活動の繁忙期を迎え、日々の業務の他に、朝晩忙しく町内を駆け回っていた。
 風紀委員会の長として立場を全うする雲雀恭弥には、暇がない。何の役にも立たぬ幼い女の面倒をみる時間などあるはずもなく、たまに、副委員長である草壁哲矢やその他の風紀委員が、相手をしているところは目にしたものの気にはしていなかった。
 幼い女が普段、何をしているのか知りもしないし、興味もない。沢田綱吉の周りでうろちょろしている、同じような年ごろの子どもを見れば、勝手に遊んで過ごしているのだろうと、なんとはなしに思っていた。
 厄介事を持ってきた元凶である祖父は、様子を見にも来ない。耄碌して忘れているなら、それはそれで別にいい。

 異変に気が付いたのは、夏祭りの数日前。夏祭りの自治を控え、英気を養おうと久しぶりに自宅でゆったりと過ごしていた時のことだった。
 夕方の六時頃、雲雀は縁側に座って本を読んでいた。夕暮れから途端に空模様が怪しくなり、バケツを引っ繰り返したような雨になったので雨戸を閉めようと立ちあがると、門のところからバシャバシャと水を掻くような足音がふいに聞こえてきた。
「あっ」
 あどけない、幼い女の声だった。まさかここに人がいるとは思っていなかったと、驚嘆している。雲雀は雲雀で幼い女のことなど忘れかけていたものだから、内心で目を見張っていた。
「……外に出てたの」
 旋毛から爪先までムラなく雨に打たれた幼い女を見下ろし、言った言葉に幼い女はおずおずと頷く。一体どういう走り方をしてきたのか、体中に泥が飛び散って、ドブ鼠もいいところだ。こんな格好で畳の上でも歩かれたらたまらない。
 顰めた顔に幼い女は硬直し、視線を地面に逸らして、未だ屋根のあるところに入らず突っ立ったままでいた。めんどうだ、と雲雀は息を吐く。
「いいから、そこを動かないで。勝手に上がったら咬み殺すから」
 言うや否や踵を返し、一度奥の方へ引っ込んだ雲雀が戻ってきた時、その手には大きなバスタオルが乱暴に掴まれていた。そしてそのまま、健気にもその場を動かず雨に打たれ続けていた幼い女を引っ張り、荒っぽく包むと、家の中が濡れぬようにと豪快に担ぎ、そのまま脱衣所に放り込んだ。
「浴槽も泥だらけにしないでよ」
 と言って同時にぴしゃりと扉を閉めると、一仕事終えた妙な疲労感に包まれた。
 どこかに出かけているのだとは思っていたけど、まさかこんな時間まで遊んでいるとは思わなかった。
 思い切り放任している人間が言うことではないが、現状を知ると途端に不快感が込み上げてくる。風呂から上がったらとりあえず説教でもしようと誓い、雲雀は読みかけの綴りを再び開いた。

 どれくらいの時間が経ったのだろう。
 気が付けば、手元の綴りはクライマックスを越え、作者のあとがきにまで差しかかっている。辺りはすっかり暗くなり、いつの間にか夕立も止んでいた。喉が渇いて全く潤いを感じなかったものだから、盆に載せていた葡萄を数粒口にした。なまぬるいが、旨かった。ようやく物語に入り込んでいた意識がハッキリとしだし、汗をかいていることに気が付いた。風呂に入ってさっぱりしようと思い、着替えを引っ掴んで脱衣所に向かう道中、何かをぼんやりと思い返す。何を忘れていたのだろう。頭の隅で影を追いつつ脱衣所の扉を開け、その正体をようやく見つけた。
 ゴンッと音をたてて、たてつけ悪く開いた扉。その足元。
「……何してるの」
 タオルに包まり、吃驚した顔で蹲ってる幼い女。
 あれから一時間は経っている。まさかずっとここにいたというのか。
 流石に泥だらけの格好ではなくタオルの下は清潔に保たれているようだが、それにしたって、いつまでも素っ裸で何をしていたのかと呆れてしまう。
 雲雀は、不快感を隠さず睨みつけ、責めるように言い放つ。
「いつまで此処にいるの。さっさと出て行ってよ」
「ご、め、ごめんなさい」
 今にも泣きそうな声色で、ぱたぱたと走り去っていく幼い女の姿を見送りながら、ひとつの考えがふと頭を過ぎった。……いや、そうだとしても、それぐらいなんとかするのが普通だろう。
 考えは取るに足らぬことだと頭を振り、気を取り直してボタンに手をかけるが、しかしなんとなく、渋い葡萄の皮の後味の悪さが口の中に残る。……何か、あまりいい予感がしない。
 シャワーのノズルを閉じ、耳を澄ませるとひぐらしの鳴く声がする。不定期に落ちる雫に、表に面した微かな雑踏。ごく近いところでそろそろと床板を鳴らす足音に、引き戸を開け、閉じる音。
「──……あの馬鹿」
 忌々しそうに舌打ちし、吐いた言葉に途端に足りぬものを感じる。……そういえば、名前すら覚えていない。

 興味の対象から失せたイキモノとはいえ、この家で一応の面倒は見ているのだから、失踪されては困る。普段は放っておいていてもいなくても構わないと思っていたのに、先の自分の言葉を譜面通りに受け取って出て行ったとなると、歯にものがつまったように落ち着かない。
 これは責任感ではなく、ましてや薄い正義感などでは決してない。祖父から託された幼い女を、このような状況で失せモノにしてしまうのは自尊心が許さなかった。自分からピシャリと言って追い出したのではなく、自分の言葉を間違って受け止めてどこかに行ってしまったなど、アホらしいにも程がある。
 外はもう暗く、何も知らない幼い子どもには、害にしかならぬような輩で町は埋め尽くされてしまう。雨が上がったのだけが唯一の幸いだった。

 とんだ休日だとは思ったが、まさかここまで酷くなるとは思わなかった。
 幼い女は見つかった。駅の近くの、繁華街を泣きながら歩いていたところを警察に保護され、身元をどうにか調べている間に抜け出し、逃げるようにあちらの路地へこちらの路地へと走りまわった挙句、案の定厄介な、それもこの幼い女にとっては敵にしかならない、アウトローな趣味を持った大人に引っ掛かり、いよいよ危なくなった時に風紀委員に保護された。最悪だった。風紀委員長としては失態でしかなく、例の大人を咬み殺してもまだ足りぬ憤りが胸を渦巻いていたものだから、ついでに風紀委員も殴った。いくらか気は晴れた。

 連れ帰った雲雀の家で、幼い女は、玄関から先に結界でもあるような態度で、頑なにその先に入ろうとしなかった。ただでさえ蒸し暑いのに、玄関先でぐしぐしと声を殺して泣かれると、余計に湿度が高まる気がして鬱陶しい。なんとか自制し、勢いに任せて手を下してはいない。しかし既に、何故だか幼い女の頬は紅葉のように腫れていた。目も、頬も、鼻先も真っ赤。そういえばとよく見ると、四肢のいたるところに傷がついていた。数十分前についたような、真新しすぎる傷ではない。数時間、数日前、いや、もっと先まで遡るような傷が無数に。
 聞きたいことは山ほどある。とはいえまずはこの状況をどうにかしなければなるまい。目を離したらまたどこかに行ってしまう可能性も考慮すると、さっさと家の中にいれてしまいたい。
「いつまでそこでぐずっているつもり」
「……ッ」
 背を押すと、例によって足を踏ん張らせたまま、幼い女はぶんぶんと首を振り、嗚咽を漏らしながら何事かを言うがさっぱり聞き取れない。
「君がそこでそうしていると、僕が迷惑するんだ。そんなこともわからないの?」
「ちが……ら、でっ」
「……日本語で喋ってくれる」
 パニックに陥っていると見えなくもない様子の幼い女は、ひゅうひゅうと喉を鳴らしながら、深く深呼吸し、酷く苦しげに息を整え始めた。
 こちらの言うことを聞く気はあるのかと、辛抱してその様子を眺める。と、ようやく理解出来る範疇まで言葉を喋ることが出来るようになったのか、ひとつひとつ、紡ぎ出すように口を開いた。
「て、いって、って。たから、っか、こうって」
 雲雀は、じぃッとしたまま幼い女の言葉を幾度も頭の中で反芻した。
「出て行けと僕が言ったから、その通りにしたのか」
 幼い女はひとつ、大きく頷いた。
「……そう」
 やっぱりね。
 意味が通じていなかったのは、言葉が足りなかったからか。なんと律儀な。
 ただの単純馬鹿とも言える。
「いつまでも脱衣所にいたのはなんで。着替えを用意していなくて、そのままで取りに走るのは悪いことだと思ったの」
 幼い女はまたひとつ頷いた。
「……頭が足りないのは鳥のようで、知らぬ間に出ているのは猫のようだし、犬みたいだ」
 幼い女は、顔を歪めて首を傾げる。
「とりあえず中に入ってくれる。虫に刺される」
 言って腕を引くと、あれほど踏ん張っていた足は魔法にでも掛かったかのようにするすると動き、ようやく家の中へと体をおさめた。

 雲雀恭弥は、この幼い女のことを相変わらず面倒くさいイキモノだと感じているが、同時に好ましさも抱きはじめていた。綿花のふわふわとした塊のような、無垢で、その後どうとでも色を変えてしまう危うさがある。己が望む肉体的な強さは見込めなくとも、その精神はいくらでも刷り込みが効く。……ふと、幼い女を引き取る決心がついた時のことを思い出した。

 後ろ手で戸を閉めながら家に上げ、先を促すように背を押して畳の間へ腰を落ち着かせた。改めて見ると、頬の腫れが酷い。顔ほどの大きさの氷袋を持ってきて当ててやるとびくりと大仰に体を震わせ、それでもおとなしく堪えた。
 赤く充血した瞳は白兎のようで、改めて小動物らしい。考えてみればこうして長く会話をすることさえ久しぶりの気がする。
「痛むかい」
 幼い女は首を振る。
 一時は見棄て、その後は干渉などしなかった。それなのに今こうしているなんて、少なくとも今朝は想像すらしていなかった。
「その頬は、どうしたの」
「たたかれたの」
「どうして?」
「いやって……おそわったのとおなじにしたの」
「教わった?」
「……おじいちゃん」
 この幼い娘の祖父は、早くに他界したという。
「いつ教わったの」
「きょうとか、まえ、いつも」
 祖父か。様子を見に来ないと思っていたが、知らぬところでしっかり世話を焼いていたんじゃないか。しかもその教えはほぼ無意味であり、今回に限ればむしろ逆効果ともいえる。しかし
「……ねぇ、それは」
 育てる気があるのなら、祖父はこちらに送り込みはしなかっただろう。そもそもこの才能の無さを、好んで高めてやろうとは思うまい。
「君が望んだのだろう?」
 投げ込まれた未知の縄張り。生きたいのならば期待に応え、情を掛けてもらわねばならない。それが如何に不条理な課題でも、頼るべきものは他にない。行政の存在など知らないだろう。無知な幼子の、世に痛ましくなんと滑稽なことか。
 幸い学習意欲は高く、矯正してやればスラム街の花売りにも淑女にもなれる。娶ろうと思えるほどに仕立て上げることが出来たなら面白い。
「僕が楽しめる強さを君は持てない。でも、やる気だけはあるようだから、あるいは別の愉しみを提供してくれるのかな。うん、いいよ。追い出すつもりはない。君が何者になるか、見てみようか」
 幼い女は、眉をハの字にさせて頭をひねった。


(110813)(141217 改稿)

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