虫除け

 隣町の男子生徒が「あの」雲雀恭弥の後ろ盾を得たという噂が立ち、それが並盛高校にいる私の耳にまで伝わってきたのは、昼過ぎのことだった。放課後になってから隣町まで向かい件の男子生徒をやんわり問いつめてみると、さもありなんという表情で、「それがなかったら付き合う意味ないじゃん」と薄い唇で呟き、ぼんぐらとでも言いたげな目で私を見下した。
 ブリーチしたぱさつく髪に、ピアスのみっつ開いた耳。クロムハーツのネックレス。改めて見ると、あんなにも胸を高鳴らせた恋の熱が急速に冷めていくのを感じた。同時にあからさまな考えを見抜けなかった悔恨に、男を責め立てる言葉も私にはなかった。

 振り返るとこの十数年間、全寮制の女子高に通っているわけでも深窓の令嬢というわけでもないのに、異性というものにとんと縁が無かった。縁が無いと言っても、「このプリントまわして」「うん」などという、簡単な受け答えをするくらいはある。かなしいのは色恋沙汰で、多感な中学生時代には、月に一度たりともクラスメイトの男の子とプライベートの会話を楽しむことがなく、きっかけさえつかめぬまま季節が巡るという寂しい青春時代をおくった。
 原因が何なのか、自分でもわかっている。
 積極的とはいえない気性、からかわれるのがいやだという恥じらい、夜も眠れぬほど想う相手に巡りあえなかったこと、エトセトラエトセトラ。
 それらはほとんどが心の持ちようでどうにか解決出来るものと言えるけれど、最も厄介でどうしようもないのは弟の存在だった。

 私の弟、恭弥くん。

 家族の贔屓目にみても、眉目秀麗という言葉がぴったりくる見目のよい顔立ちをしていて、賢い弟だった。小さな頃は私よりもうんと背が低かったのに、いつの間にかぐんぐん伸びて男らしさを匂わせた。細身で一見華奢な癖に喧嘩の才にも恵まれて、今ではへたなゴロツキが何十人束になってかかっても敵わない、とても血の繋がりを感じさせない、私の弟。
 嘘みたいな話。町一番の権力者じゃないかと噂されるほど出来すぎた弟は、昼行燈の姉にとって、目が眩むほどに燃え上がる太陽だった。
 この町にいる限りどこに行こうと付きまとう弟の存在は、加護がある一方で時に重く、弟を恐れる多くの人間は腫れものを触るように私を見た。ここでよろしくないのは私の性質で、特に、顕著に私に触れなくなったのは学校の男の子たちだった。
 あいつの傍にいると雲雀に目をつけられる。いや、もしかするとあいつだって凄まじい性格をしているのかもしれない。
 そのようなこと、勘違いも甚だしい。
 私が友人と連れ立って遊ぼうとすると憮然と顔をしかめたりもしたが、弟が積極的に、姉の人間関係に口出しすることはなかった。言うまでもなく、私が百戦錬磨の猛者であるわけもない。

 あれこれ説明する間もなく中学校時代は幕を引き、憧れていた初恋もままならぬまま高校に入学することになった。新たな環境と出会いに「今度こそは」と胸を躍らせ、友人の紹介で出会った男の子に「付き合って欲しい」と告白された時、どれほどうれしいと思ったか。そしてその動機が私を好いたのではなく「雲雀恭弥の力を借りたかったから」と知った時、どれほどかなしく情けないと思ったか。
 凡人とは一線を画した弟に、こんな気持ちがわかるはずない。わかってもらうことを期待してもいない。
 弟の存在は言ってしまえば疎ましいが、己の信念に基づいて行動する誇り高い生き様を、わあわあと責め立てるほど愚かではない。私の男運の無さは何もかも弟が悪いわけではないのだから、理不尽な怒りをぶつけては私がより無様になるだけだった。
 そもそも、姉として情けなくはあるが弟に文句を言う度胸が私にはない。今まで、弟が私に対し手をあげることは無かったけれど、何が弾みとなって新聞の三面を飾るかもわからない。下手に刺激することは正しく死を意味する。幼い頃、もみじのように小さな手をいっぱいに伸ばし「おねえちゃん」と舌っ足らずな声で愛くるしい頬笑みを向けてくれた情景など欠片もないのだ。

 リズミカルに玉ねぎを刻む間、過去の記憶に引き摺られ、長く溜息が零れた。
「ふーん」
 と、背中から聞き覚えのある声がする。一体いつ来たのだろう。知らぬ間に帰宅していた弟は覗きこむようにしてまな板周辺に並べられた食材を眺めていた。
「……あ、おかえり」
 知らぬ間に独り言はしていないよなと冷や冷やしながら言うと「今日は姉さんのか」と返ってきた。私の家では両親が不在の日も多く、そういう時は、出前を取るか手ずから夕飯を用意する。弟は忙しいのか、夕飯を作っても「外で済ませてきた」なんて言ったりもする。それでもラップをかけて冷蔵庫に置いておけば、翌朝つついて片付けてくれるけど。
「今日はまた、どこか行くの?」
「ああ」
 弟はグラスを取り出し、浄水器をひねる。水を半分ほどいれてから一気に煽り、シンクに置いた。私は手を止め、自然に続く筈の「どこに行くか」の答えを待った。が、弟はそれきり黙っている。件の男と弟の因果関係について思い出し、次第にジリジリと気が急いてきた。
 不自然に苦しい気が喉元まで込み上げてくるのを感じ、ぐっと堪える。口を引き結んで、休めていた手を機械的に動かした。
 なにさ。聞いてるのに。
 一度、この弟を口汚く罵ってやったらどれほど気持ちが晴れて、どれほど自己嫌悪に陥るだろう。
 弟は罵詈雑言を吐く姉を前に、一体どんな顔をするだろうと想像し、真っ先に浮かんだのは冷え切った表情だった。今でさえ興味の対象にあるのかわからないというのに、そうなっては弟は間違いなく気持ちを離してしまうだろう。
 玉ねぎを刻み終えて息をつくと、いやに両肩が強張っていた。両肩だけではない。肘も首筋も表情筋も、凝り固まっているようだった。
「意外」
「え?」
「そんなに好きに見えなかった」
 何のことか。問う前に、弟は何故か急に、
「あの男」
 と、声を低くした。
「聞いたよ、昨日から付き合い始めたって」
「まあ、でも」
「今日破局したんだってね」
「…………まあ、うん」
 歯切れ悪く答え、掘り返したくないことを毒に薬にもならないような話題に変えてしまいたかった。
 この様子では、あの男子生徒が後ろ盾を得たいがために私に目をつけたというくだりも勿論知っているのだろう。ただ振った・振られただけならまだしも、この弟が関わっている事案なだけに、気まずいことこの上ない。
 持て余すよう、充分に刻み終えた玉ねぎに再び手をつける姉を哀れに思う程度の配慮はあるのか、弟は具体的な事情を交えず続けた。
「悪い虫だったね」
「あー……結局、お互い好きじゃなかったけど」
「お互い?」
「ある意味私だって利用していたようなものだし……恋人っていう飾りが欲しかったっていうか」
「庇うんだ」
 僕なら骨の二、三本折って野晒しにしておくのに。
 十分実現可能な制裁では、冗談か本気かで笑うことも出来ない。庇っているわけじゃないよと首を振ってみせたけれど、弟の表情は渋いものだ。
 ふと、好いていた頃の彼の笑顔が脳裏に浮かんだ。悲しみや怒りよりも、深い憐れみをもって。
「どうしてあなたと僕が姉弟なんだって、時々思う」
「恭弥でもそんなこと考えるんだ」
「でもって何」
 むすっと唇を尖らせる弟に、少し口が軽くなってしまったかと慌てて唇を結び、なんでもないと首を振る。
「またそうやって黙る。僕に話すようなことは何もないっていう風にしてるから、先手を打ち難いのに」
 なんの話だ。
 ちらっと戻した視線の先で、つんとそっぽを向く弟がいる。まるで子どもみたいに。
 よくよく考えてみると、弟が私を突き放したわけではない。歳を重ねるにつれ甘えなくなくなるのは、別段珍しい話でもない。巷で悪鬼の如く暴れまわる弟の話を耳にするたび、それを理由に壁を作ったのは私のほうだ。友達が離れていくのがいやだ、彼氏のひとりふたりできないのがいやだ。皆が私にしたように、腫れものに触るように接していたことこそ、弟だって何か思うことがあったのかもしれないのに。
 感傷に浸りかけた私をどう捉えたのか、弟は、急になんて顔をしているのと小馬鹿にしたように、鼻で笑った。
「血縁関係はどうやったって崩れることがないから、今後も痛い目には遭うだろうね。そのうち嫁にいけなくなるって嘆くんじゃないの」
「えっ、やだ。縁起でもない」
「いざとなれば、あなた一人を養うくらいの稼ぎはあるから安心しなよ。といっても、タダ飯は御免だから料理の腕は磨いておきなよ」
 なんだそれは。
「じゃあ僕、いくから。ハンバーグでしょ? 夕飯は残しておいて」
 軽口を叩いて飄々とかわし、弟はさっさと台所を出て行った。玄関の戸が閉まるのを聞き届け、コンロに火をつける。フライパンを熱する間やりとりを思い返し、嫁に行けず弟の世話になるという、世間では恥とされるような未来をふわふわと思い描いた。……姉として情けないにも程がある。しかし、時に優越感さえ抱く強力過ぎる虫よけが傍にあるというのは、言うほど悪いことではないのかもしれない。
 不思議に高揚した気分を抱いたまま、はじめての失恋の痛みは一日ともたず霧散していった。


(110215)(141217 改稿)

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