問うも愚か

 入学したばかりなのに、クラスメイトの髪は春色に染まっていた。ピンクベージュなのかアプリコットなのか、色の名前はわからないけれど、教室で一際目に鮮やかなそれが、頭髪規定にひっかかることは間違いない。当然生徒指導の先生に小言を言われるのだけど「無理やり染め直すとか、できるわけないし」と笑いながら豪語して、当人の髪色はいつまで経っても明るいままだ。

 入学して一月も経てばクラス内のグループ分けはある程度定まってくるが、決まり切るにはまだ早い。放課後の公道では、明るい色と暗い色とが、五つ六つと混じり合いながら道を横に広がってのろのろと歩いている。
 ファッション誌を貸してくれたのは、先頭を歩く、集団で一番に制服を着崩した子だ。指定されているものとは違うブランドのベストは、今まさに読み歩いているそれの表紙を飾っていた。新作のネイルに、話題のサプリメント。凝ったヘアアレンジの手ほどき。性のあれこれに、恋愛に重点を置いた占い。どこから目を通そうかと迷うのは私ばかりで、クラスメイト達は皆、呪文のようなカタカナを交えて雑誌の中身について振り返っている。

 はじめてのテストを終えたその日の昼過ぎ、私はクラスメイトの女の子達に誘われて、市内へ遊びに出掛けた。彼女達に限らず、高校生にもなればほとんどの同級生たちは、私と比べて遥かに遊び場所について心得ていた。
 魔法染みたプリントシール機が揃い並ぶゲームセンターに、凝った趣向のカラオケボックス。人気モデルがプロデュースするブティックを冷やかし、ファミリーレストランではドリンクバーだけを頼んだ。どこへ行っても落ち着かずに右へ左へと目をうつす私を面白がって、随分とからかわれた。

 そうして並盛町の駅に降りたのが、かれこれ夜の九時時分だった。
「ばいばい、ミョウジっち。また来週ねー」
 ミョウジっちとは、ついたばかりの渾名だった。
 手を振り返して別れると、ぞろぞろと連れ立った集団は途中で枝を分け、幾人かは別のファミリーレストランに消え、また幾人かは薄暗い路地に溶け込んでいった。遠く、小さくなってぱたりと見えなくなると、途端、糸が切れて脱力してしまう。帰路へつく足取りは重い。
 こんな時間まで出歩いてしまうなんて。
 鮮やかな黄色と淡い桃色をした空気は、離れた途端にぱちんとはじけ飛んで、後悔を運んでくる。もう少しだけこの夜を味わいたいと思う気持ちはあるのに、冷やかな薄暗闇が覆いかぶさるように背後に迫っているのを、無理やり知らないふりをしてやり過ごすのは難しい。

 進学先、黒高で本当によかったのかな。
 並盛町から電車で一本。隣町の黒曜町には大きなショッピングセンターが入り、遊ぶ場所は並盛町よりも多い。町内の子どもが多く通う黒曜中学校は校舎が荒れ、近隣では嫌煙されている。高校だって集まる生徒は「それなり」で、偏差値は並盛高校よりも低い。
 地域で一番の進学校である緑高。商業科のある至門高。並高はその名を体現するように平均的な学力をもったごく普通の高校で、制服もそれなりに可愛い。黒高の利点といえば、距離が近くて通いやすいことくらいだ。

 生まれも育ちも並盛町で育った人間にとって、黒曜町に漂う独特の気配は気晴らしの悦楽に浸るものであり、毒でもある。並盛町はとかく、公衆道徳を守ろうという意識が強い。清掃ボランティアに参加する町民が多いだとか、商店街が活性化しているだとか、それだけの話ではない。日が暮れると、先生が辺りを見回っているだとか、補導されるだとか、そういう事でもない。健全とはいえない公徳心を持った権力者が唯一人、この町には君臨している。そうして少しでも問題が起きようとすれば、制裁が下るのだ。
「そこに婦女子、今何時だと思っているんだ」
 こんな風に。
 ぼやっとした街の灯りに、番人のように佇む男がいた。そのシルエットは独特で、体格はがっちりと厳めしく、前髪は高くそそり立っている。夜に同化した黒の学ランに、赤地に金糸の腕章が鈍く視界を刺激する。
「すみません、少し遅くなってしまって。でも、今帰るところです」
「家はどこだ」
 この威圧的な風体の男が、並盛中学校の風紀委員であるということは、並盛町民なら誰でも知っている。中学校のみならず町ひとつの風紀を司っていることもまた、周知の事実である。
 それから、もうひとつ。
「神社の、辻のあたりです」
「……ああ、神社の」
 厳格さを保っていた男が、ふと表情を崩した。
「そうか。その辺りに住んでいるのか」
「はい」

 並盛神社の辻に、わるいものは近づかない。
 それもまた、並盛町民であれば誰でも知っている言い伝えじみた話だ。古くから在る民家が立ち並ぶ辻の辺りには街頭が少なく、昼間でもひっそりとした雰囲気を漂わせている。店という店もなく人通りも少ないのに、わるいものが近づかない、というのは、わるいものが裸足で逃げ出してしまうような生き物の巣穴が、ずっと昔からあるからだ。ここ数カ月になって、殊更真実味を帯びて。
 並盛病院の院長よりも、町長よりも、この風紀委員よりも、それはずっと、もっと、比べるのが愚かしいほどに絶対的な存在としてこの町に君臨している。鈍い光を放つ牙を持った、肉食の獣が。
 目の前の風紀委員は、どこか憐れむような視線を私に向けている。その辺りに住んでいて風紀を乱すなど、本当に愚かしいことだと。
「引き止めてすまなかったな。速やかに帰宅するように」
 男があっさりと切り上げ、踵を返した。
「ありがとうございました」
 腰を折る。ただ、内心で気は急いていた。
 風紀委員に遭うなんて、これはますます早く帰らないと。
 男の姿が闇に紛れていくよりも早くに首を上げ、息を吸い、家路を急いだ。足は重い。重いけれど、それでも前へ前へと踏み進めなければいけなかった。昼の暖かさの名残もなく、夜風は冷え冷えとして、夕餉の香りも漂ってはこない。早く帰ろう。早く、早く。それにしても、どこかで見たことのある娘だ。と、風に紛れて小さな呟きが耳に届いた気がした。
 
 タバコ屋の角を曲がって細道を辿り、寺のある通りに出ると、墓に沿って延々と月光も届かない梢が連なっている。そのまま墓の中を通り抜ければ三分は近道になる。何の躊躇もなく入り込めば、通り過ぎていく、名前も知らない墓石に見守られているかのような錯覚さえ覚えた。
 早く、早く、気をつけてお帰り。
 鼓動が速いのは息を切らしたせいと、こんな時間帯まで一人外に出ているのが、はじめてだからだ。しかも、ただ遅いのではなく市内に遊びに出掛けてしまった。みんな、みんなと。クラスメイト達と長い時間連れだって、他愛もない話をして、流行を学ぼうとファッション誌まで借りてしまった。みんなのうちの何人かは髪を染め、制服を着崩し、規定に引っ掛かっても平気な顔をして過ごす生き物だ。それを知れば彼は――弟は何と言うだろう。

 誰が相手だろうと、己の風紀を乱すものを狩る。
 私の弟こそが肉食の獣だ。

 一月前に中学校に入学して早々、並盛中学校の風紀委員長の座についた弟は、血を分けた姉に対しても容赦というものを知らなかった。
 弟が好きなもの。風紀を守ること、強い生き物、戦闘。嫌いなものは、風紀を乱されること、群れる草食動物。それから、眠りを妨げられること。
 気に障ることがあれば、弟は呼吸をするように暴力をふるう。姉弟喧嘩にはならない。喧嘩にすらなれない。
 あれは昨年の十二月だったか。私の卒業と入れ替わりに、弟は中学入学を控えていた。その弟が、どこからか入手してとっておいた委員会活動記録を、私が捨ててしまったのだ。その時は手首の骨が折れた。全治三カ月だった。激高した弟に、衝動的に骨を折られた? ――違う。大事なものが捨てられたのだ。確かに弟はイラついてはいたけれど、それでも至極冷静な態度だった。その上で、赤子の手をひねるようにして私の手首を折ったのだ。ぽっきりと。そうしてただ一言だけを残し、自室へと戻って行った。
「次は気をつけてよ、姉さん」
 床板を踏む音が遠ざかる。遠ざかる。扉が閉まる音がして、ようやく呼吸が出来た。
 一度目で骨を折って、次はどうするの?
 喉の奥から背中にかけて、ひどく冷たいものがある。抑えた手首からは、熱がうるさく突き上がっていた。歪んで開け放した口からは笑いが込み上げて、時折、塩辛いものが口の中に流れ込んできた。
 以前は、喧嘩したって文句を言ったり、軽くモノを投げる程度で済んでいた。ずっとずっと小さい頃は、身長も腕力も、私のほうが勝っていた。それなのにここ何年かで弟は急速に幼さを無くし、いつのまにか男の人に成長してしまった。口をきくことも少なくなったし、喧嘩になりかけると、弟のほうから切り上げることさえあった。冷めた様子で、相手にしている暇はないという風に。
 それから私は、弟の目をまともに見ることすら出来ないでいる。ここ最近は、顔すら見ていない。だって弟は、なかなか家に帰らないから。

 のんべんだらりと女子中学生をやっていた私には、委員会活動の何がそんなに弟を夢中にさせるのか、さっぱりわからなかった。今でもわからない。
 弟が風紀委員長になり、私が高校生になって一月が過ぎた。朝は弟のほうが家を出るのが早いし、夕方帰宅しても姿が見えない。土曜日曜だって同じことで、あまりにも会わないものだから、もしかすると弟は、私が黒曜高校に進学したことすら知らないんじゃないかって、時々思うほどに。
 黒曜高校ではまだ「並盛中学校の風紀委員長」の話が行き届いていない。たまに、上級生が眉唾の話として囁いている程度だ。今日は三年生がヤキをいれに行くなどと嘯いていたから、そう遠くないうちに、教室の隅々にまで噂は伝染されるだろう。

 ねぇ恭弥、今なにしてるの。

 小さな頃、お箸をうまく使えずにフォークを握りしめて、口いっぱいにハンバーグを頬張っていた弟が、朝晩何を食べているのか知らない。夜はまだ冷えるのに、暑いと言い張ってタオルケット一枚で眠りについて、翌朝うつろな目をして咳込んでいたいた弟が、ちゃんと寝ているのかも知らない。大事にしていた鉛筆を誤って捨ててしまった時、顔を歪ませてこぶしを押しつけるだけだったのに、何時の間にあんなに力強くなったのかと、本当は驚いていた。

 恭弥、私がなにしてるか知ってるの。

 髪を明るく染めたあの子は、中学生だった頃はいじめられっ子だったという。
 私も変われるだろうか。姉に戻ることが出来るだろうか。

「なんでそこにいるの」
 傍らの闇が揺らいだ。
 家まで、あとひとつふたり角を曲がってすぐというところだった。大通りからは既に遠く、街頭もまばらにぽつりぽつりと佇んでいるだけで、視界は狭い。考えに耽っていたせいか、影がどこから現れたのかはわからない。姿も、その表情も。
 それでも誰だか、すぐにわかる。
「姉さん」
 顔を持ちあげると、数歩先に恭弥がいた。月明かりを背負って、眼も髪も黒々としている。羽織った学ランも闇に溶け、左腕について腕章だけが、赤く揺れている。
「きょう」
 咄嗟に出た声は、全てを紡ぐことなく飲み込まれた。
「群れてたんだってね」
 やにわに、腹を蹴飛ばされた。二、三歩よろめいてへたりこむと、太い鉄の棒で突かれたような痛みは、徐々に腹全体に鳴り響いていった。痛い。痛い。痛い。歯を食いしばり見上げた先で、弟は変わらず、冷めた顔に苛立ちを孕んで見下ろしている。腹を押さえて座り込む私の傍らで、月夜に晒された雑誌を一瞥しては、苛立ちを濃くして。
「黒曜高校って、何の施設なの。群れて囀って、求愛行動でも学んでいるのかい」
 黒曜に行ったこと、知ってたんだ。
 舌はもつれていたし、言葉になっていたのかはわからない。
「何かおかしいことでもあった?」
 それでも、笑ってしまったのだろう。今度は横っ面を殴られた。唇は動いたけど、口の中は柘榴のようにただれているようで、今度こそまともに人の言葉を口にすることが叶わない。
 あーあ。やっぱり恭弥、怒ってる。遊びになんて行くんじゃなかった。規定に引っ掛かるような子達と遅くまで群れて。高校もわざわざ黒曜にして。怒らせることばっかりしてる。
「本当に、気に障ることばかりするね」
 だってそうすれば、恭弥は気にしてくれるから。
 雲雀の家は、並盛町に長く続く名家だ。私を知らなくても、雲雀と聞けばピンとくる人は多く、親の入れ知恵か、窺うように接してくる人ばかりに囲まれて幼少期を過ごした。遊び相手は、弟の恭弥くらい。だけどその弟も、年を重ねるにつれて世界を広げ、姉一人など構わなくなった。喧嘩ひとつも碌に出来ないほどに。

 弟は飽いたように再びこちらに目をやった。
「じゃあね。さっさと寝なよ」
 どこに行くの。
 問いかける前に、踵を返し黒い影は少しずつ遠ざかっていく。一人きりになってからふっと息を吐き、かばうように腹部に手をあてながらゆっくりと立ち上がった。
 痛い。痛い。痛〜い。
 口の中に溜まった血を吐きだすと、乱れた髪に付着して、べたべたとする。どうすれば髪の色を変えた、あの子のようになれるだろう。通りに放りだされた表紙は笑うばかり。


(110214)(141217 改稿)

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