花売り娘

 石畳が扇調に敷き詰められた街の広場。南に要塞の如きカテドラルを見据え、東から西にかけての大通りには、観光客向けの露天がひしめいている。赤や黄色のまぶしい果実に、艶やかな陶器。極彩色がひしめきあう異国の街も、一転すれば昼間でも薄暗く、垢の塊をかき集めたような場所がある。北側に位置する小路はいつも、焼けた肉と湿った苔とを混じり合わせたような臭いがした。夜の帳が落ちれば酔客の盛り場と化すそこは、陽ののぼる内は、あれだけ通りを賑わせていた人々の群れは無く、けだるさだけが緩慢と燻っている。
 この街に住み着いて幾度か季節が変わった。うまく仕事をこなして帰路につけば、ちょうど群れがひいた頃合いに東西を通ることを覚えている。きまぐれに西日が眩む先へと時間をずらし、婀娜っぽい女の手招きに誘われ北を通ることもあった。
 焼きたてのパン。香辛料のきいたスープ。焼けた肉に混じり時折強く香る、アルデハイディックのフローラル。ニオイスミレ。

 東西の通りには、キョウチクトウの街路樹が立ち並んでいた。その中ほどにあるストックの花壇の前には、雨の日を除いて、籠にいくらかの花を詰めた花売りがいた。まだ若い娘だったがコケティッシュな風貌をしていて、花とは縁のなさそうな男が、籠を覗きこんでいる様子を幾度か見掛けた。横切れば声をかけられることもままあったが、さして気を惹かれず立ち止まることはなかった。

 雨上がりの春の日のことだった。その日の用も滞りなく済み、報告用のインクを切らしていたことなどを考えながら東西を歩いていると、ふいに涼やかな甘い香りが鼻を掠めた。湿った空気と混じり合い、匂い立つそれについ視線を落とすと、自分でも内心驚くほど、吸いこまれるように目を奪われてしまった。籠の縁をかこうように広がる緑の葉。顔をのぞかせる鈴なりに、ぽってりとした星のような白。小さな小さな常世の国。
「花束はいかがですか。すずらんとジャスミンの花束です」
 まるで歌でも口ずさんでいるようだった。僕はそこではじめて、その娘がいつもの花売りではないのだと気が付いた。
 世の中の酸いも甘いも知らぬような、見た目にまだ幼く、全く清らかにあどけない顔。日が高いうちであれば、少女らしい無邪気な桜色をしているであろう頬が、夕暮れの街角で緋色の絵具をとかしこんだように染まっている。
 僕はついふらふらと近づいて、娘と花とを数度見比べ、口に出した。
「……いくらなの」
 娘が真っ直ぐに指を立てる。その本数より多く硬貨を握らせると、娘は困ったような顔を見せた。後に美しい面持ちを頬に浮かべ、黄色のリボンが結ばれた小さな花束を籠から引き抜き、迷うように指先を空に彷徨わせてから、飾りであろう小鳥のオブジェを差し入れた。子どもでありながらいじらしくも律儀な様子は、心地よい純潔を心にもたらす。受け取った小さな花束に目を細め、鼻先にあてた。水に溶けるような甘い香りがする。
「今日からここが、君の縄張り?」
 娘は、何のことかと驚いたように目をぱちぱちとさせて、ややあってから恥じらうように頷いた。花を売るための決まり切った台詞だけは練習を重ねていたのだろう。対照的に、意をつかれた言葉には慣れずに初心な様子を見せる。

 出先にも部屋にも、花が溢れるのにそう時間はかからなかった。通り掛かるたびについ足を止めてしまうものだから、女の趣味を変えたのかと勘繰ったり揶揄する奴もいたし、スーツからは嗅ぎ慣れない匂いが染みついた。闇を闇とも思わないような生活をしているものだから、常世の香りが染みつく事は、なかなかに愉快だった。

 国の記念日が重なると、朝方せっせと作りこんだであろう残りひと束を、娘は大事そうに抱えたまま隅のほうに座りこんで待っていた。僕は娘のいいお得意様だった。おとなしくしていたのに、主人が近づけばぱっと瞳を輝かせて駆け寄ってくる様は、犬のように愛嬌がある。
「旦那さま」
 僕は娘の名を知らなかった。娘も僕の名を知らず、舌足らずな声で旦那さま、と呼びかけた。
「旦那さま、旦那さまの好きなお花はなんですか?」
「さぁ、なにかな」
「旦那さまはローズマリーの、しなやかでやさしい薄紫のようです。焼けた砂のような香りに混じって、すんとしたいい香りもします」
「犬にしては、随分可愛い鼻をしているみたいだね」
 ぶわっと耳の先まで赤く染めて、娘は見当違いに頭を隠すよう縮こまった。花を売って生計を立てているだけあって、娘は花のことならよく知っている。しかしそれ以外のことに関してはまるで赤子のようだ。無垢な娘は硝煙を纏う僕の素情を疑おうともせず、からかわれたことも、花売りの別の意味もきっと知らない。

 ひまわりの花が一輪咲く頃、曇天の下に緑はぼさぼさと見えた。花穂をたわわに揺らせていたストックの代わりに、ブーゲンビリアの彩色が街を覆う。
 数日雨が続いた後、娘の姿はそこになかった。縄張りを変える気配などなかったから、風邪でにひいたのかと思った。けれど次の日も、その次の日も現れなかった。
 石畳は扇調に。北の小路は肉のにおいがして、花売り娘は其処にいなくてはならない。それは「そうあるべきこと」として僕の中に根をはっていた。
 生きるにはルールがいる。獣にさえそれなりのルールがあるのだから、守れないのなら生き物ですらない。僕は妙に腹立たしくなった。そして最後に逢った日のことを、後ではっきりと思い出した。

 その日、娘は籠にいくらかの大切な商品が残っていたというのにくたびれた様子で花壇の縁に座りこんでいた。人を呼びとめる声はあがらず、僕の気配に気づく様子もない。気難しげな娘に近付くと、残り二、三歩の距離でようやく、娘ははっとしたように顔を上げ、作ったような顔をして笑った。気付かぬふりをして花を買い、天気の話をして、その場を離れた。変だとは思ったが、そういう事もあるだろうと、別に驚きもしなかった。
 考えるに、あれに何か深い理由があったのだろう。病気か、遠くへ越すのか……或いは。

 不満が淡く浮き上がり、次第にいてもたってもいられなくなってきた。誰か何かを知らないかと、とうとう向かいの雑貨屋に声を掛けると、店主はじれったく首を傾げて空を見上げた。
「娘? ああ、花売りの娘か。そういえば最近見てないな」
「アレはいつもどこから来てるの」
「ほら、そこの通りさ。アンタが通り過ぎたすぐ後ぐらいに、北の通りに向かって帰るのをよく見かけたよ。なに、すぐにまた会えるさ」

 暢気な店主が言った通り、娘に再会したのは間も無くのことだった。付近に根回しをしたり、駆けずり回って探してはいない。懸命ぶるのは癪だったから、辺りを注視しつつ、わざと、通いなれた道順を組み替える程度に留めた。
 僕に知らせもしないでいなくなるなんて、どんな嫌みをぶつけてあげようか。意地の悪いことを考えたものだが、しかしとうとう花を籠に詰め佇む娘の姿を目にした時は、瞬間、胸に湧き上がったもので息がつまり、容易く言葉を忘れてしまった。
 それは愛だの恋だのというものではない。僕はもう二十をとうに越え、娘は十かそこらだった。愛に年齢は関係ないと嘯く輩も世の中にはいるが――少なくとも僕が、娘から花を買う度に感じていたあの感情は――もっと淡く、心に純潔さやなつかしさを感じさせるものに違いなかった。
 ゆっくりと靴底を鳴らし、娘との距離を縮める。橙色の電灯から少し離れたところで、花籠を手に佇む娘はどこか妖しく、これ以上近付けばひどい幻滅を味わうのではと急に嫌悪感が沸いてくるのを感じた。眉根は寄り、歩みは鎖が巻き付いたように遅くなる。僕の目の前で、娘の前に男が立った。小奇麗な身なりで努めて紳士そうにゆるく口角をあげているものの、瞳の色が女に熟す前の肢体を見定めているのは遠くからでもよくわかった。娘は動かない。男が革の財布を取り出しながら娘の腕に手を触れた。大仰に揺れた籠から、ばさりとひと束花が落ちた。
「久しぶりだね」
 娘は、気づいた瞬間盗みの現行をおさえられたかのように、小さな体を震わせた。男が怪訝そうに眉を顰め、何事かをわめこうとしたものだから、冷ややかに一瞥したところ、そそくさと歩き去った。
 娘は俯いている。夜の掃き溜めに花籠は満たされ、僅かにしおれたガーベラとローズマリーの花束が楚々として香っていた。石畳に落ちたひと束を拾い、籠に戻す。

 これを必然だの運命だのというのだろうか。僕はあの花が落ちなければ、恐らく何も見なかったことにしてこの場を立ち去り二度と娘を探そうとはしなかっただろう。この哀れな娘が今にも泣きそうな顔をして立っているのではなく、媚び笑いながら花をすすめていたら幻滅もいいところだ。裏切られたとすら思う。そうして忘れるともなく忘れていって、僕はまた西日の眩む時刻に東西を通り、婀娜っぽい女が手招く時刻に北を通ってはきまぐれに誘いに乗り、帰路につくことを繰り返しただろう。花の一輪も、買うことはなく。
「顔をあげて」
 静かに促すと、ようよう、娘がそうっと面差しをあげた。花をたくみにあしらう審美眼は変わらず澄んでいて、娘は、それまで僕が心の中で育てていた娘と違っていなかった。
 なにやら僕は安堵していた。部屋の中を好きに飛び回らせていた小鳥が突如窓から逃げ出し、失望した時にまた手元に戻ってきたような、思いがけない歓びの感覚、とでも言えば良いのだろうか。
 僕は娘に問いかけた。
「名前は」
「……なまえ?」
「君の名は何ていうの」
 娘は、戸惑うようにゆっくりと瞬いた。未だ怯える唇が力なげに、けれど親しげな音を短く鳴らす。
「……へえ、そう。いい名前だね」
 味わうように反芻してやると、果実酒を味わった時のような緩慢とした酔いが脳を巡った。娘が窺うように僕を見上げ、遊戯事のように問い返す。
「お名前は?」
 答えず、仄かに漂う喜色に小さく笑った。途端に不安げな顔を見せる娘を花籠ごと抱きかかえ、花々の隙間に膨らんだコインケースを落とした。花籠から溢れたガーベラに何かが触って、花弁が少し散り落ちる。「あっ」と惜しむように短く声があがった。とっさに空を掴むよう伸ばされた指先を制して掌で包むと、小さな体はびくりと張り詰める。すべらかな五本の指は触るに心地よく、この指に幾千もの花々が蹂躙されたのかと思うとたまらない気持ちに抱く腕が火照った。

 籠を。上等な籠を用意しなければならない。いつのまにかひどく心を捕らえた娘を、大切に入れておくための籠を。
 可愛そうな花売り娘。

「僕は、きみの旦那様だよ」


(110507)(141217 改稿)

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