もういいよ

 壁沿いのフローリングには灰色の綿埃がうっすらと積もっていました。ベッドの隅には特別こんもりと、度々神隠しに遭うヘアゴムと捨てたはずの漫画の帯が、鳥の巣のように折り重なっています。ナマエはベッドの下に潜り込んで頬をぴったりと床につけながら、それらをじいと眺めていました。
 月曜日のことです。
 空はよく晴れて、ちいちくと小鳥が囀っていました。日差しは陽気にあたたかく、部屋の中もぽかぽかとしています。こんな日は外に出て、軽快なステップでも踏めば気持ちの良いことに間違いありません。けれどナマエは今日一日、一歩たりとも外に出る気はありませんでした。
 どうしてかって?
 なにも「部屋の隅に堆積する埃と陰鬱の親和性について」というテーマの論文を書こうとしているのではありません。この有様に、興味なんてこれっぽっちもないのです。強いて言うなら、こうしてベッドの下に入り込むことでようやく「掃除しなきゃ」とは思いましたが、それだって「あとでいいや」に流されてしまいました。あとでいいや。そのあとが翌日なのか一月後なのかはわかりません。とにかく、ベッドの下の有り様はナマエの人生の中で些細なことなのです。

 ナマエがこんなところに身を潜めて息を殺し、耳をそばだてていたのは、家の中に母親の気配があるからでした。
 ナマエの母親は、自宅から自転車を漕いで五分程のところにある、並盛スーパーでパートタイムをしていました。朝八時から働いてお昼の休憩に自宅に戻り、そうしてまた夕方の四時四十五分まで働くのです。
 一階のリビングで、鳩時計が鳴きました。クルッポーは全部で十二回でしたから、それを元にナマエは、今後のことを考えます。玄関のドアが開いたのは、三十分は前のことでした。するともうそろそろ、また開閉音が聞こえ家中が静かになるはずです。そうなればナマエはこんな埃っぽい床からおさらばして、平日の昼間に堂々とふかふかのベッドに寝転んだり、昼ドラを流し見ながら、好きなだけお菓子を貪ることが出来るのです。

 ナマエが誰にも内緒で学校を休んだことに、人の同情を誘い情状酌量を求めるような理由はありません。いじめられているだとか、テストがあるだとか、そういうことはまったくありません。ただなんとなく、人と話すのが億劫で、髪がうまくまとまらなかったのがいやだと思ったのです。だらだらだらだら支度をするうちに時間が過ぎて、「ホームルームギリギリに教室につきそうだな」と気付いてしまったのは決定的でした。滑りこみセーフで教室に入り皆の注目を集めるのは、なんとなく気恥ずかしくって、考えただけでもぞもぞとしてしまいます。
 そもそも遅刻者として登校すると、うるさく目をつけてくる風紀委員会というものが学校にあります。ただの風紀委員会ではありません。「並中の風紀委員会」なのです。並中生にとって、風紀委員会に背くことは正しく死を意味するのでした。
 「だったらもう、休んじゃおっかな」出掛けた振りをして靴を隠し、そうしてナマエは、母親が家にいる間はベッドの下に身を滑りこませました。ナマエにとってこれははじめてのサボタージュでしたが、実際にやってみると、「サボるのってたいへんだな」と思いました。今日はこんなですが、ナマエはもともと「普通に」まじめなほうです。自由と引き換えに後ろめたさやバレた時の顛末を考えると、きりきりと息苦しくなってしまいます。誰かをやり過ごす時は静かにしていないといけませんし、その間、することもありませんでした。ナマエは気晴らしに意識の半分を、むかしむかしの幼い日にとばします。

 幼いころ、ナマエは隠れるのが人一倍得意な子どもでした。母親を誘ってかくれんぼをすると、身体の柔軟性がここ一番できらめきます。大陸の雑技団のように四肢を折りたたみ、人が目もくれないような隙間に身体を押しこむのです。それはベッドの下であったり、クローゼットの上の棚であったり、引き戸の中だったりとさまざまでした。母親は気まぐれで覗いた隙間の中にナマエがいると、自分で覗いたくせに、たちまち「わっ」と吃驚とした表情になります。その大人一人をやりこめた愉快さといったらありません。洗濯機の中に隠れた時は「なにやってんの!」とひどく怒られもしましたが、ころころと笑って、少し得意げに這い出るのでした。
 そのかくれんぼが優越感に浸れる楽しい遊びじゃなくなってしまったのは、幼馴染の男の子と遊ぶようになってからでした。
 その男の子はナマエ以上に、かくれるのが得意だった? もっともっと身体がやわらかかった?
 いいえ、そういうことではありません。しいていうならそれは、遊びではなかったのです。ナマエはその子とのかくれんぼを通して、幼いながらに鬼という言葉の意味を考えましたし、緊張感というのは、今の比ではありませんでした。
 ヒーロー? 逃亡者? 忍びの者? あの頃のナマエをなんて言ったらいいでしょうか。具体的に何がどうというわけでもありませんが「毎日よくがんばったなぁ」とナマエは、しみじみ左の手首に指をはわせました。するとぷつぷつと、微かに隆起した皮膚を人差し指がとらえます。思い出話ついでの古傷で痛みはありませんが、なんとなく、手持ち無沙汰になると触ってしまう癖があるのです。

 無理な体勢にいいかげん首が痛くなってきた頃、ガタッタタンと自転車を動かすような音が聞こえてきました。一応用心して耳を澄ませていましたが、それっきり、家の中から物音は何ひとつ聞こえません。母親が職場に戻ったのでしょう。これでもう安心です。
 峠を越えたことに息を吐くと、辺りの埃がぶわりと舞い上がります。ナマエは咳込んで、眉をひそめてまた息をとめました。そのままじいと待っていると、ふと、瞼の隙間に鈍い光を捕らえました。「なんだろう」とナマエは、気まぐれににじりにじりと手をのばします。埃に埋もれた塊を、ちょいと指先でつまみ引き寄せました。
 おや、ブレスレットです。
 それはコガネムシの羽根のような翠色をした、七宝焼きのブレスレットでした。いくつかの玉をつないで、一際大きな玉には金の縁をかこってくずし文字に「寿」と描かれています。中学生のナマエはプチプライスのきらきらとしたアクセサリーには興味がありますが、いかにもおばあちゃんくさい、七宝焼きには興味がありません。つるつるとした飾りの面を指の腹で撫でながら「こんなもの、どうしたっけ」と首を傾げました。祖母のものでしょうか。母親が使うものが紛れ込んでしまったのかとも思いましたが、ナマエは母親がこういったブレスレットをしているところを見たことがありませんし、ドレッサーに仕舞い込んだ真珠のネックレスや銀のブローチに混じって、これが置いてあった覚えもありません。自分の部屋の、自分しか寝転がらないベッドの下に落ちていたというのですから、ひょっとすると自分のもののような気もします。
 「捨てていいのかな」とブレスレットの処遇について考え始めたころ、トン、という音が微かに聞こえてきました。
 トン、トン、トン。
 もちろん、ろくに身動きがとれないナマエがたてた音ではありません。
 トン、トン、トン。
 一定のリズムを刻み迷いなく階段をあがる音は、少しスリッパを引き摺って歩く母親のそれとは違う音をしています。父にしても、もう少し足音がしっかりとしたものです。頭の隅で、パトランプがくるくると点滅しているようです。「どうしよう。隠れようかな。あっ、もう隠れてたっけ」そうやってうろたえるばかりです。こんなにも狭い空間では、方向転換だってできません。
 足音は階段をのぼりきった辺りでほんの少し休み、それから、ゆっくりとまた鳴り始めました。間もなく、キィ、と金具が擦れるような音が耳を貫きました。誰かがナマエの部屋に入って来たことはもう疑いようがありません。心臓の音が漏れてしまわないように息を殺して壁を睨みつけていたのに、すぐにそれは意味を成さなくなりました。
「みつけた」
 それは男の人の声でした。父親ではありませんし、父親よりももっと若い男の人の声です。
 父親だって年頃の娘の部屋に入るのにノックをかかさないものですが、迷いなくナマエの部屋にずかずかと入って来る男の人というと、心当たりは一人しかいませんでした。ナマエは気のせいだと願いを込めて、まだじっとしています。
「さっさと出ないと、酷いことをするよ」
 しかしそれすら見こしているのか、今度は少し強い口調で声が降ってきました。しかも声の位置からして、ベッドのすぐ傍に立っているような気がします。「ひどいこととは、それはもうひどいことなんだろうな」とナマエは憂鬱な気持ちになります。過去に築き上げた教訓は、ナマエを容易く従順にさせるのです。早々に観念したナマエは、酷く傷めつけられたトカゲのようにずるずると、這いながらベッドの下から身体を捩りださせました。陽の光にあたって埃がきらきらと舞い、前髪にゴミが引っ掛かっているのか、なんだかすぐそこにもやもやとした蜃気楼の塊がありました。
「君の制服はモップなの」
 けれどそこで、目を細めて己を見下ろしている男の姿は、やっぱり蜃気楼でもなんでもありませんでした。
「母親をやり過ごそうと思ったんだろうけど、詰めが甘いね」
 ギシ、とスプリングが軋む音がします。言いながら我が物顔でベッドに腰掛ける男は、並盛中学校風紀委員の証たる学ランを羽織っていました。男の切れ長の目は馬鹿にしたように緩んでいて、ナマエは所在なさげに前髪をいじります。
「せめて屋根裏にでも隠れてればよかったのにね」
 ナマエの家に屋根裏などありません。恭弥だって──恭弥とは、この学ランの少年のことです──それをよく知っているはずなのに意地の悪いことを言います。
 ナマエはむっとして、腹立たしさをぶつけるように勢いよく隣に腰掛けました。言い返すことはしません。だって「特別勉強が出来る子」なんて言われないナマエが「並中の風紀委員長」である恭弥を言い負かせるとは思えないからです。
 スプリングがギシギシと殊更大きく不協和音を奏でても、恭弥はちっとも気を悪くした素振りもなく、それどころか愉しそうに、プラスチックのキーホルダーをつまんでチラチラと鍵を揺らしました。ナマエは目をまるくしました。
「東側の庭、右から二番目の鉢植え。君の母さんがこの前、教えてくれたよ」
 先週までは玄関マットの下でした。「うらぎりものめ」とナマエは小さく舌打ちします。ナマエの母親は昔から恭弥に甘いのです。

 恭弥はナマエの家の向かい側、三軒挟んだ十字路から二軒東へ進んだところにある、古い屋敷に住んでいました。幼馴染と言って差し支えない関係でしたが、恭弥はいわゆる「いいとこのおぼっちゃん」です。恭弥自身も名家の子息として、その肩書に恥じぬ堂々たる振舞いを幼いころから身につけていましたので、対等な立場であったことなど一度もありませんでした。
 昔から母親は、恭弥のことでナマエを叱りました。おもちゃをかさなければ「コラッ」と言い、恭弥の靴をうっかり蹴飛ばしてしまっても「コラッ」でした。恭弥に「コラッ」が降ってきたことは一度だってなく、ジュースの量は恭弥の分だけ多かったことも知っています。
 幼心に恭弥が贔屓されていることにナマエは気付いていましたが、「きょうくんばっかりずるい!」と癇癪を起したことはありませんでした。どうしてかというと、週に何度来ようが、恭弥が遊びに来ると「特別な日」になるからです。
 恭弥が来ると、食べ飽きた干し芋とお茶は引っ込みます。カルピスは濃厚でしたし、本物のケーキがおやつにでるのです。ねだっても連れて行ってくれなかった、レストランや動物園にも両親は連れて行ってくれました。それに、県外の銘菓や緑町のデパ地下スイーツ。それら、ナマエが食べたことのない土産を恭弥が持ってくることもありましたので、お腹がすいてくると「きょうはこないのかな」と玄関先でうろうろとすることもあるくらいでした。
 年が近いということもあり、両親は二人を遊ばせたがりました。ままごとに砂遊び、お絵描きにお歌の練習。それらの遊びに快く恭弥が付き合ってくれた記憶はナマエにはさっぱりありませんが、唯一得意と言えたかくれんぼ、この記憶は色濃く今でも残っています。
 恭弥ははじめ、いくらナマエが誘っても「やだ」と言ってかくれんぼに付き合ってくれませんでした。けれど、ナマエが少し頭を働かせて恭弥の靴と一緒に隠れてしまうと、その日から遊びを好むようになりました。
「いいよ、ゲームをしてあげる。五分間、きみが隠れ続けたらきみの勝ち。もし見つかったら、ひどいことをするよ」
 絵本の何冊がバラバラに刻まれ、ぬいぐるみの何体から綿が抉りだされたでしょう。
 権力とは恐ろしいものです。やりすぎた恭弥に恭弥の両親が謝罪にくることもありましたが、ナマエの両親はいつも「子どものすることですから」と恭弥を許します。ナマエはナマエで、最初に靴を隠した自分も悪いと思っていましたから、強く言うことはできませんでした。
 一人でのんびりとお絵かきをしている最中、ふと、そわそわとする瞬間というものが必ずあります。ナマエは扉の向こうをじっと見つめて、「きょうはこないのかな」と外の音に用心深く耳を傾けるものでした。両親の傍でおとなしくしていたのに、次の日になると、獲物を追い詰めたその先で恭弥が恍惚の表情をすることを、ナマエはもう知っています。
 狩りが蜜の味であることを恭弥が知る半面、ナマエの胸には後悔という文字がぎっちりと刻みつきました。たまりかねたナマエがかくれんぼ拒否の姿勢を示すと「それならこうしよう」と、じゆうちょうをコンロで炙りはじめるのですから、もう従うしかなかったのです。

「なに。今日は何しにきたの」
 そういう経緯があって、ナマエは恭弥が来るとお菓子に期待するよりも先に、警戒をあらわにすることがずっと多くなりました。
「進路希望調査、昨日までなんだけど。提出してないのは君だけだよ」
「どうして恭弥が催促しに来るの?」
「僕も目を通すからに決まってるでしょ」
 恭弥はさも当然のようにいいました。ナマエは少し眉をしかめましたが「それもそうだったか」とつまらなそうな表情でうつむきます。「並中の風紀委員会」で風紀委員長ともなれば、そういうことは普通なのです。「せっかく疎遠になったと思ったのに」と不満をこねくりまわして、鼻からそっと吐き出します。ナマエはまた、左の手首を無意識にさすりました。それまで平坦な道が続いていたのに、そこだけ地割れが起きたみたく、微かな亀裂が走っています。ひきつったようなその痕はその昔、慌てて恭弥からじゆうちょうを奪い返して、火傷した思い出でした。

 その日のことを、ナマエは両親に何も言いませんでした。「火なんか使って!」と怒られはしましたが、恭弥のことを口に出したって、きっと両親は「子どものすることですから」を言いだすに決まっています。
 包帯がとれるまでの間はおとなしくしていたものですが、恭弥に振りまわされる日々は変わらずに続きました。もう火を使うことはありませんでしたが、思い返すとその後も、記憶の端々に恭弥の姿があります。
 水撒きついでにホースの先を向ける恭弥に、似顔絵を慈悲もなくまるめて捨てる恭弥の姿。昼寝を起こすと不機嫌に爪を立てる癖に、ナマエが熟睡している時は蹴り起こしにきました。小学五年生の時だったでしょうか。側溝に突き飛ばされて足を骨折し、しばらく歩けなくなったこともあります。
 ナマエはこの時既に、己の人生はそういうものなのだと悟っていました。たとえこの先どんな人生を歩もうとも、この縁だけは切れることはありません。だって家が近いのです。道路が寸断されて行き来が困難になる可能性など、ちっともありはしないのですから。

「進路希望調査……あー、鞄に入れっぱなしだった」
「記入欄は埋めたの」
「うーん……まあ」
「回収してくから」
 歯切れ悪く答えても、恭弥は何の躊躇いもなくベッド下に手を突っ込み、引き摺りだした鞄を漁りはじめました。まな板の鯉。袋の鼠のようなものです。ナマエが恭弥に対して自分の人生を諦めている分、恭弥は同じくらいにナマエの扱いを心得ていました。ナマエはそわそわと落ち着かない気持ちを隠すよう、窓の外に目をやりました。
 お隣の家の、限りなく白に近いブルーの外壁が梢の向こうで静かにしています。ナマエが小学三年の時まであれは生成り色をしていましたが、すっかり綺麗に塗り替えられたのです。当時は窓の外に海が見えたような新鮮さを運びましたが、今ではすっかり当たり前に目に馴染み、昔の色が何だったのか、意識しないと忘れてしまう程です。

 並盛中学に入学して、もう二年が過ぎました。
 中学に入学する頃にはすっかり体格差がつきましたが、ナマエは骨折騒動を最後に、怪我らしい怪我をすることはなく穏やかに日々を過ごしています。というのも、恭弥が「風紀委員会」を身命を尽くすものとして、一生懸命になりはじめましたからでした。それはナマエにとって、エゲツないほどに喜ばしいことでした。
 なにがどうなってそうなったのかはわかりませんが、恭弥は風紀委員会に入り、日々せっせと並盛の風紀をいじくりまわしはじめました。規則の見直し。風紀検査の徹底。町内の見回り活動に、素行不良の生徒への指導。通学路を点検し、見通しの悪い道路にカーブミラーも設置しました。それは風紀委員会という枠を既に超えていましたが、誰も突っ込みはいれません。
 なにしろ恭弥は、有り余る若さといっそ瑞々しいほどの凶暴性を、素行悪く町を歩く輩だとか、生意気だと恭弥に喧嘩を売ってくる相手だとかにぶつけては喜んでいるのです。「咬み殺すよ」という口癖をうたうように呟いて、屍の山を築きあげる恭弥は決して「良い」ものではありません。でも、ナマエはとめることはしませんでした。だって、せっかく恭弥の牙が別の獲物をとらえているのです。哀れに思い合掌こそすれ、内心では小さくガッツポーズをしていました。自分の身がいちばん可愛いに決まっています。
 ナマエはこれ幸いと、なるべく恭弥から離れて暮らすようにしました。精悍に育った恭弥を尚のこと気に入った母親により、夕飯の行き来という幼馴染らしい付き合いもありましたが、ひそやかなものです。朝夕の登下校を共にしたことはありませんし、同じ学年でも、恭弥とナマエが幼馴染だということを、知らない者のほうが多いくらいでした。
 家の距離こそ変わりません。けれどもう、ナマエは世界が広いことを知っています。バスや電車にも一人で乗れますし、大人になってお金を稼げるようになれば、海の向こうへ行けることも知っているのです。
「ねえ、ナマエ。高校に進学するつもりみたいだけど」
「うん」
「ここに書かれている学校名、並盛近辺のものではないね」
「……うん」
「ふうん、英語科」
 ナマエはドキッとして、「ううん」と曖昧にうなりました。否定も肯定もあらわさず、出来ることならこれ以上立ち入って欲しくない時の「ううん」です。
「絶対っていうわけじゃないんだけど、ちょっと、興味があったから」
 聞かれてもいないのに、ナマエは自分で答えました。
 どうせ恭弥のことです。「成績大丈夫なの」とか「海外にでもいきたいの」とか、いやみったらしく聞くに違いありません。ナマエの成績は母親を通してとっくに筒抜けでしょうから、ナマエの学力で狙える高校かどうかということもお見通しでしょう。ナマエは静かに身構えました。
「じゃあ、回収してくから」
 だけど恭弥は、あっさりとプリントをたたみポケットにしまいました。そうしてあっさりと立ち上がってしまったので、つい拍子抜けして、「あっ」と声をあげてしまいます。
「なに」
 恭弥は少し、怪訝そうに眉をしかめました。ナマエも眉を寄せましたが、その形はハの字にそっくりです。「あー」だの「えー」だの声を漏らし、視線をうろうろと彷徨わせます。自分でもどうして「あっ」なんて声を出してしまったのかわからないくらいでしたので、困ってしまったのです。ナマエはいくらか考えてから、首をかしげました。
「恭弥は進路、どうするの?」
「さあ。少し外で調べたいことはあるけど」
「外って、海外に行くってこと?」
「それもあるね」
 恭弥は恭弥で曖昧に答えます。それなのに堂々として聞こえるものですから、ナマエはひるんでしまって、それ以上聞くことは憚られました。「そうなんだ」とうった相槌も、恭弥のためではなくて、自分自身に言い聞かせるようなものでした。「そう、そうなんだ」とまたお腹の中で呟いて、頷きます。「恭弥、出てっちゃうんだ」それは、そう遠くない未来のことでしょう。

 なんだか胸がどきどきとしてきます。「おかしいな?」と思って、ナマエは知らないうちにうつむいていた頭を、そっと持ち上げて上目に恭弥を見ました。
 少しつり上がった目が、静かにナマエを見下ろしています。記憶の中で恐ろしくナマエを追い詰める恭弥の瞳は、もう少しぎらぎらと熱をもっていたのに、今はすっかり醒めた色をしています。醒めたとっても、冷たいのではありません。まだ手をつけていないスープのように、波打たないばかりか、時折水面にうつるものを追いかけもしないのです。恭弥はこんなだったでしょうか。「おかしいな?」とまた思って、ナマエは気持ちを落ち着けるよう、ふいと外を眺めました。カーテンの向こうは、よく晴れた青空です。ちいちくと小鳥が囀っています。
「恭弥、今から学校に戻るのかな」とナマエは思います。「こんなにいい天気なんだから、昼寝でもしていればいいのに」とも思いました。だけど声に出して、伝えることはしません。そんなことを言って恭弥にここに残られてしまったら、せっかくの自主休講が台無しになってしまいます。それがわかっているのならさっさと「それじゃあね」と一言でも言ってしまえばそれで終わりなのに、その言葉だって声に出ません。本当におかしな話です。良い日和なのに、どうしてでしょうか。ナマエの心にはもやもやと雲が集まってきています。そのうち、すっぽりと身体まで覆ってしまうのでしょうか。

 ナマエはいじいじと、左手首の凹凸をなぞりはじめました。
 思えば、かくれんぼの遊びをして、恭弥が隠れたことは一度だってありませんでした。いつもナマエが隠れて、恭弥が鬼の役をするのです。母親相手には連戦連勝だったというのに、ナマエが恭弥に勝ったことは一度だってありません。ベッドの下も、クローゼットの上の棚も、引き戸も、洗濯機の中にも隠れました。けれど、どんなに身体を小さくして息を殺しても「みつけた」が聞こえない日はありませんでした。
 ナマエよりもナマエの家を知りつくした恭弥は、並盛の町のことだってよく知っています。「並中の風紀委員長」が務まるのも、それがあってのことです。その恭弥がナマエの元──いいえ。並盛を離れていなくなってしまうというのは、とんでもなくへんな響きとして聞こえるのでした。
「痛むの」
 とんでもなくへんな響きがまた聞こえてきました。ナマエは「えっ?」とバカみたいな声を出して、ぽかんと恭弥を見上げます。恭弥は眉をひそめたまま、片目をぴくりと細めました。バカでも見ているような顔です。
「それ、さっきからずっと触ってるから気になるんだけど」
「それって?」
「手首の傷。まだ残ってるでしょ」
 ナマエはようやく合点がいって、「ああ」と左手首の火傷の痕を眺めました。すぐに冷やさなかったせいか痕は残ってしまいましたが、古傷が痛むという経験はありません。ついつい触れてしまうのは、かさぶたが気になったり、妙に口元が寂しくて、飴をなめたくなる時と同じようなものでした。
 ナマエは再び恭弥を見上げて、不思議そうに首をかしげました。
「覚えてるの?」
 恭弥は唇を噛んで、いやに険しい顔をしました。ナマエは「なにか間違ったかな」と慌てて居ずまいを正しました。するとギシッと、またベッドが軋みます。「あっ、バカ」とナマエは内心でスプリングを叱咤しました。機嫌を損ねた恭弥を前にすると、物音ひとつ立てるだけで心が擦り減るものです。

 小学五年生の時の、側溝に突き飛ばされて骨を折った時もそうでした。あの日だって思いつきで歌を口ずさみながらぷらぷらと歩いていたら、いきなり後ろから、ドーン! でした。ひどいものです。側溝に放りだされたナマエはぽかんとして、足がへんな方向に曲がっていることにも気付かないまま、恭弥を見上げました。
 天気はちょうど、今日みたいな青空でした。晴れていたのに、暗かったような気もします。見上げた時、ちょうど影がかかったのでしょうか。わかりません。恭弥の口元が動きましたが、ごうごうと強い風が吹き抜けて、それも聞き取れませんでした。恭弥はどんな顔をしていたでしょう。恍惚と笑っていたでしょうか。毛虫を見るような目で、見下ろしていたでしょうか。その時の恭弥は──「あれ、どんな顔をしてたっけ」ナマエは思い出すことが出来ず、喉に小骨がひっかかったような、苦しい顔をしました。苦しい顔をしていると、目の前にいる恭弥の顔まで、段々と苦しそうな顔に見えてくるから不思議です。なんだか自分が悪いことをしているような気になります。
「痛くないよ」
 ナマエは恭弥を見上げたままそう言って、手首をぷらぷらとさせました。
「もう痛くない。ちょっと気になるだけ」
 痛くないと言っているのに、恭弥の表情はまだ変わりません。「どうしてこう頑固なんだろう」とナマエはますます困ってしまいました。頑固、というの適当かどうかわかりませんが、とにかくナマエには、今の恭弥が何か、意地をはっているように見えたのです。
 「どうしようかな」とナマエは、唇をもぐもぐとさせます。いっそ見えなくしてしまえば、恭弥の執着は切れるでしょうか。視線を彷徨わせたナマエはふいに「あっ」と声をあげました。ブレスレットの存在を思い出したのです。「そっか。そうだった、そうだった」ナマエは心の中でうんうんと頷いて、お尻の辺りにひいていた、七宝焼きのブレスレットを引っ張り出しました。「このブレスレット、恭弥がくれたんだっけ」そう尋ねる前に、恭弥が目をまるくして見ていますから、間違いありません。
「それ、まだ持ってたの」
 ナマエは「さっき見つけて、たった今思いだしたのは内緒にしておこう」と思いながら「うん」と頷きました。「そう」と恭弥の返事はそっけないものでしたが、醒めきっていた瞳の色はほんのりとあたためられています。夕餉を共にする恭弥のために、ナマエの母親がハンバーグを焼いた時も同じ目をしていました。

 ブレスレットを左腕に滑らせながら、ナマエは「あのおまんじゅうはおいしかったな」と遠い記憶に思いをはせました。恭弥とひと悶着あって火傷した数日後、並盛庵のおまんじゅうとブレスレットとを持って、恭弥が訪ねて来たのです。火傷をした箇所はまだぴりぴりと痛んでいましたが、おまんじゅうを前にすると、そんなことはすっかりとんでいってしまいます。きっとその流れでブレスレットのことも忘れ去ってしまったのでしょう。
 だけど今ならなんとなく、恭弥がどんな気持ちでいたのかがわかります。だってブレスレットは、傷跡をすっかり覆う形をしているのです。
「サイズ、今がぴったりみたい」
 ナマエはしげしげとブレスレットを眺めました。「それはそうだろう」というような顔をして、恭弥もブレスレットを眺めています。
「他にいいのがなかったからそれにしたけど、小学生にはゆるかっただろうね。祖母が結婚してからもらったものだというし」
「おばあさんの?」
 そう言ってからナマエは、「どうしよう」という気持ちでいっぱいになりました。恭弥のおばあさんは小学校にあがるかあがらないかの頃に亡くなっていますから、これは形見ということになります。そんなものを恭弥がくれたということも「どうしよう」ですが、今の今まで埃で包み、捨ててしまおうとまで考えてしまったことも「どうしよう」でした。
 ナマエはおずおずと恭弥をうかがいました。
「これ、返したほうがいい?」
「いらないなら捨てれば。……そんなの、とっくに捨てたと思ってたけど」
 恭弥はそう言って、つまらなそうにそっぽを向きました。「そんなことできるわけない」と、ナマエはぶんぶんと首を振ります。出所を知ってしまった以上、捨てることなどもう出来ません。
「大事にする」
 これは本心の言葉でした。
「学校にはつけてこないでよ。校則違反だから」
 学校につけていく気はありませんでしたが、ナマエは素直に「うん」と頷きました。恭弥も「うん」と返します。だいたいは仏頂面をはりつけている恭弥ですが、今は少し、ゆるんでします。ナマエを追いまわしていた鬼の笑い顔とは、また違う笑い方です。

「じゃあね」と踵を返し、恭弥は今度こそ部屋から出て行きました。トン、トン、トン。と階段を下りる音が聞こえ、ガチャッと玄関のドアが開く音がします。それきり、家の中は静かになりました。窓の外では相変わらずちいちくと小鳥が囀って、時折、風にのって表の道路を車が走る音が聞こえてきます。
 ナマエはしばらく耳を澄ませていましたが「うーん」とひとつ伸びをして、勢いよく立ちあがりました。埃にまみれた制服をぱたぱたと叩いて、床に放りだされていた鞄をひっつかみます。五時間目の授業は美術だったでしょうか。美術の先生は臨時講師で、移動教室です。授業中、ずっと席についている子はそうそういません。誰がどんな絵を描いているのかだとか、単純におしゃべりをするためにだとかで、教室はひっちゃかめっちゃかになるのがいつものことです。それだったら「まぁ、いっかな」とナマエは思います。しんとした数学の時間に入室するよりは、はるかにマシというものです。

 陽はすっかり高くのぼっています。住宅地はひっそりとしていて、誰も見ていないのをいいことに、ナマエは軽快にステップを踏んでみます。くるりスカートを翻して自転。ちょっとだけ、ハミングも刻みました。トラックとすれ違う時だけは咄嗟に横に寄りましたが、余所見をしながら歩いたって、側溝に落ちることはないので大丈夫です。だってすっかり、蓋がついているのですから。
 ナマエは連なっている蓋の隙間と隙間を踏まないよう、結果的にひとつ飛ばしで、おおまたに歩きます。飛ぶように歩きながら「いつ設置されたんだったかな?」と考えました。小学五年生の時は、もちろんありません。六年生の時もなかった気がします。そうすると中学にはいってからということになりますが、すっかり目に馴染んでしまうと、それ以上はなかなか思い出せないものでした。
 角の所まで来ると、真新しいカーブミラーが突っ立っています。これも、いつの間にか設置されたものです。ナマエは鏡を覗き込んで、前髪をちょいちょいと整えました。じっくり眺めていると、ブレスレットが光に反射してきらきらしているのが見えます。きれいにはきれいですが、七宝焼きのブレスレットは、ナマエにはまだ早いのでしょう。外で見ても、どこか馴染まずにちぐはぐとしています。
 校則違反だなんて言われてしまいましたし、校門をくぐる前には外さないといけません。そもそもつけてくる気はなかったのですが、ナマエは外すのは「あとでいいや」と思います。あとでいいのです。ブレスレットは似合わないけれど、もう嫌いとは思わなかったからでした。
 カーブミラーから離れて、ナマエはまた学校に向けててくてくと歩きだしました。日差しはやわらかに混み合いながら、頭のてっぺんをじわじわとあたためていきます。ちょっとだけ眠くなりながら、ナマエはぼんやりと、白髪頭に七宝焼きの簪をさす自分の姿を思い浮かべました。縁側でお茶を飲んで、並盛庵のおまんじゅうを食べたら、きっと素敵な昼下がりになるでしょう。飲み込む力は弱くなって一人ではもう食べきれませんから、隣には「誰か」がいます。
 「きっと恭弥かな」とナマエは思いました。「いい」とか「悪い」とかではありません。「恭弥」がいるのです。
 それはナマエにとって、なにひとつ「おかしくない」光景でした。体格差が広がっても、恭弥が風紀委員長になってナマエが離れても、進学先を遠くにしても、海外へ行ってしまったって、最後に行き着く場所は変わりません。だって家が近いし、恭弥は探すのがうまいのです。どこで何をしていたって、また聞こえてくるのでしょう。
 ──「みつけた」って。


(140208)

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