九月の暗部

 コスモスが秋風に揺られ、野山もにわかに秋色を帯びてくるようになった今日この頃でございます。
 立春から数えて二百二十日目は、二百十日目と同じく、嵐がやってくる日として恐れられています。古人が指折り数えて挑んだこの日は平成の世となっても変わらず、ニュース番組も教室内を流れるトピックスも台風情報一色に染まっています。
 台風十一号接近中。川沿いの家は河川の氾濫に注意して下さい──。
 学生たちの間ではもっぱら授業が休講になるかならまいかという議論が交わされ、普段と違う物々しい天気も相まって、皆どこか浮足立って目に映ります。
 並盛においては法の番人である風紀委員の一員とはいえ、それは肩書だけで内側も外側も一般人な私だってその気持ちに変わりはありません。そわそわと胸をはずませながら席に着き、校内放送の一言一句を聞き逃すまいと耳をそばだてる様子に頷きこそすれ、「まったくみんな子どもなんだから」などとクラスメイトに指を指して笑える立場ではないのです。
 夏の日のアブラゼミのようなノイズが一瞬流れると、教室内は驚くほど静寂を敷き連帯感をいっそう感じさせます。そして、
「──本日は台風の影響で、午後の授業を休講とします。なお、──」
 などと校内放送から声がしようものなら、わああああっ!と漣が押し寄せるように声を殺しての歓声が室内を満たします。それがひとクラスふたクラスと続くものですから、肝心の伝達内容は渦に飲み込まれ耳に届き難くなります。
 休みだ!休みだ!数学の授業がなくなった!やったぁ!おまえ今日暇?遊ぼうぜ!
 もはや何のために早く帰宅するのかわかりません。そのような突っ込みをいれたくなる声があちらこちらであがり、「静かにっ」と苦笑混じりに教師の制する声が聞こえました。みな早く帰りたいのでしょう。こういう時ばかりはチームワークのよさを見せつけ、あっという間にお喋りをやめ姿勢を正しました。堅苦しい姿勢だというのに頬ばかりはニヤついています。まったくしょうのないやつらだなぁ。教師は苦笑した顔をそのままに、やれやれとセリフを続けます。
「……そういうわけだから早く帰ることになるが、間違っても河川や海に近付くなよ。家でおとなしくしてること!明日については、八時までに警戒が解除されなければ───」

 だというのに、これは一体どうしたことでしょう。
 どうして私はせっかくのこの日にこうして学校に残っているのでしょうか。
 昼間だというのに空はどんよりとした灰色の雲に覆われてごおごおと唸り、打ちつけるように降る雨粒を受け止め、窓ガラスは頼りなさげに始終ガタガタと鳴いています。この時間帯、騒がしいほどに校内を埋めるはずの生徒の影は欠片も見当たりません。この長い廊下で、意志を持って頼りなげにぽつりと歩く姿は私ひとりきりです。
 どうして。この異質な状況下で、どうして私はこんなことを。どうして一人校内の施錠確認なんてことを。
 これは私が風紀委員で、彼の雲雀恭弥が風紀委員長であることがすべてと言ってしまっても過言ではありません。たったそれだけの事実で完全下校が敷かれても私は校内にいることが許され、あるいは義務付けられることは容易なのです。
 今頃自宅に帰って、悠々とタモリさんを見ているであろうクラスメイト達がうらめしい。
 そのようなことを思いながら、三年教室最後の鍵をつぅと指でなぞり、ようやっと点検を終えました。
 さて、ここで定時連絡のお時間です。施錠確認が半分を超えたら一度連絡を入れるようにと委員長に指示されているものですから、平風紀委員である私はもちろんそれに従わなければなりません。いえ、そもそも委員長が相手では逆らう人間のほうが少ないに決まっていますけれど。
 ごそ、とスカートのポケットに手を忍ばせて間もなく。
「あっ、携帯……」
 なんというか、時にはこんなこともあるでしょう。ほとんど習性として日頃から肌身離さず持ち歩いていたとしても、学校では鞄に駐屯、なんてことはざらにあるものです。人気のない校内を一枚レンズに収めたかった悔いもありますが、ないものは仕方がありません。
 気がついてからは不自然に軽くなったスカートの気配を気にしては、私の足取りは知らず知らずのうちに早まっているようでした。

 カチッ、パチッ、カチッ、パチッ。
「……」
 私は煤色の霧の中に立ち尽くしていました。相変わらず窓の外ではグロテスクな造形をした雲が街を覆い、今まさに消えんとする電球のように、時折ばちりばちりと閃光が走ります。心中は梢が勢いよく葉を揺らすのと同じようにざわついて、一向に落ちつくことが出来ません。たいそう居心地が悪いのです。先週取り替えたばかりの白熱灯だけは力強く応接室を照らしていましたが、生憎とこの空気を浄化する作用は持ち合わせていないようです。ただひとつ言ってしまいたいのは、
「…………」
「……」
 ───委員長。委員長の眉間にはどうしてそんなに皺がよっているの?
 カチッ、パチッ、カチッ、パチッ。腹立たしさの捌け口に開閉される携帯電話は鳴りやみません。委員長の機嫌が悪いというのは珍しいことではありませんが、今回は少しばかり、凶悪性が感じられず陰湿な風であるのが気にかかります。とはいえ下手に口をはさんでは事態がややこしくなりかねないのであくまで深入りせず、おとなしく日誌を書きながら嵐が過ぎ去るのを待つのが得策でしょう。無論、頭の中でつらつらと仮説を組み立てることは忘れませんが。
 まず最初に浮かぶのは、私が何らかの失態を犯してしまったことが気に喰わずあのようになってしまったのだということ。
 誠に遺憾ですが心当たりがあるのです。そう、例の定時連絡の件。携帯が手元になかったとはいえ、あれを怠ってしまったことが未だ気に喰わないのではないでしょうか。未だ、と申しますのは、この件に関しては施錠確認から戻って真っ先に謝罪した事実があるからということです。しかし委員長は「そう」と相槌を打ってそのまま、私の過失も手際の悪さも責めることはせず執務に戻られたはず。……では別の件でしょうか。もしかすると気がつかぬうちにまたテレビの話題が口に出ていたのかもしれません。あるいは……。
 カチッ、パチッ、カチッ……パチッ。
「夢川」
「えっ、あ」
 思考の迷路に差しかかった私をぐいと引っ張り上げた委員長は、近寄りがたい気配を漂わせたまま猛禽類の瞳で睨みつけてきました。
 ───これは、まずいかもしれない。
 何が悪いのかの見当はついていませんが、間違いなく私の何かが悪く、委員長を苛立たせてしまったことを本能的に理解し生唾を飲み込ました。悪寒がジリジリと這い寄って、ヒィヤリと氷にように冷たい刃物が臓器にあてがわれました。
 ……知ってる?腎臓がふたつあるのはどちらかひとつを売るためなんだよ。
 そのような囁きが耳を掠めた気がします。
 いえ、いえ、違うんです。なにをしでかしたのか覚えがなくて申し訳ないと思いますが、悪気があったわけではないのです。ほんとうです、ほんとうです。だから、どうかそんな目で私を見ないで下さい。
「ひとつ君に聞きたいことがあるんだけど」
「いえ、あの」
 たじろいだ声と殺気さえ掻き消すようにして、ドォンというような音響が突然鼓膜をうちました。同じくして視界が白みチカチカと辺りの景色が点滅して見えたものだから、おやっこれは近くに雷が落ちたな、ということは容易に想像がつきました。とどめに、あれほど鮮やかな白さで発光していた電球が一斉に黙り込んでしまったのでなおさらです。突然の暗闇に両目がじわじわと眩む中、このような時でも平静な委員長の声がぽつりと聞こえました。
「……停電か」
「そ、のようですね」
 助かった。不幸中の幸いというのはまさにこのことを言うのでしょう。
 話の腰を折ってしまいたいのなら、この転機にすがりつくのが間違いないはずです。こう真っ暗では何も出来ませんし、まずは光を得るべきだと鞄の中に手を突っ込み手さぐりで携帯電話を探しました。つるんとした携帯電話の塗装は紙媒体と比較しやすく、指先を掠めてしまえばあとはもうこっちのものです。きっと隅のほうに───ここまで、一分と掛からなかったはずです。
「ねぇ」
 ギシリ、と軋むスプリング。迫りくる勢いでなまあたたかい人の体温が触れ、心臓がひゃっ、と縮こまりました。呑みこんだ息は喉元の素早く通り過ぎ、どくりどくりと心臓の音が聞こえるようになってそれからは、ゆっくりと速度を緩め胃の中に落ちていきました。え、委員長。そんな、この人は、どうしてこう、暗闇でもしなやかに動けるのか。
「は、はい?」
「なにをするつもり?」
 幼子に尋ねるようで、甘やかす気配は一切感じられませんでした。私の硬直した四肢の、指先だけを紐解くようにゆるゆると骨ばったそれが重ねられ、状況が状況であれば男と女が交わす艶事の一場面のようでもあるのでしょう。口調はあくまで優しく、けれど絶対的ななにかを感じさせて問い詰められてしまうともはや何も考えられません。なにをするつもりだったのかという問いひとつも満足に答えられず、私はただこの場をどう逃げ出してしまうか、みっともなく足掻く他ありません。
「……………………や、あの」
 おかあさん、
「…………その……」
 これは、
「…………」
 どうすればいいのかな。
 気がつけばそっと絡む程度だった指先は喰い込むように強く、いっそう逃がすまいとして包まれていました。喉元まで出掛けた声を辛うじて呑みこみ瞬き、必死に言葉を探します。うろたえて彷徨った視線、目と鼻の先にある爛々とした双眼にまともにあわせることなど出来ません。
「君はまともに目をあわすことも出来ないのかい」
 今は無理です。辛うじてかぶりを振ると、む、と息をつく音が聞こえました。
「どうして」
「や、喋りにくいじゃないですか……」
「……そんなに隠したいのかい」
「隠す?いえ、そういう問題では」
「じゃあなんなの」
「だから」
「なに」
「なにっ、て」
 触れ合いました。
 密着した体の距離を更に縮めるよう、近付く端正な顔に大げさなほど体を震わせてしまいました。と同時に委員長の目に暗澹とした色がやどり、すぐにまた、それを覆い隠すように消えて見えたのは気のせいだったのでしょうか。
 そのようなことが気にかかりつつも、耐えかねて視線をそらし──顎を掴まれまたその目とかち合いました。
「い、いいんちょう」
「君、どうして僕と付き合ってるの?」
「はっ?」
 なぜ今更になって。そしてこの場面で言うのでしょうか。迫られるような体制でみせた恥じらいは嫌悪と変換されてしまうものなのでしょうか。ここ数カ月で雲雀恭弥という造形物には以前にもまして見慣れたものになったというのに、至近距離の更に至近距離で拝むことになるとそうはいきません。滅多にない状況に抱くのは嫌悪と好奇心などではなく、あるのはただ、熱暴走する頭を必死に冷却せんとする気持ちだけというのに。
「場合によっては君もただじゃ済まさないけど、単刀直入に聞こうか」
 委員長の場合、五体不満足になりかねない恐ろしい前置きです。
 頭の中に燻っている熱をどうやり過ごすかでショートしかけていた私は更にフリーズという恐ろしいものを背筋に感じました。相変わらず顎の拘束は外れず、上向きの顔でそれをするのは苦しいものがありましたが、飲み込んだ生唾はするすると落ち───。
「“山下武”って、誰」
「…………」
 携帯を忘れたまま見回りに応接室をでたこと。苛立ちを隠さずに開け閉めされていた携帯電話。未だ山下武の名で登録してある雲雀恭弥のアドレス。
 きっと心配して電話をかけてくれたのでしょう。興味本位でのぞいた携帯に見知らぬ男の名が連なっていて顔をしかめたのでしょう。十一桁の番号よりも表示された名前のほうが気になって気になって仕方がなかったのかもしれません。
 彼の一言からひとつひとつを組み合わせて出来あがった答えに不思議とプライバシーを侵害された怒りは湧かず、一見聡明な顔立ちをした凛々しい犬が、階段から転がり落ちたり壁にぶつかっているのを目の当たりにした時のような、生温かい目で見守りたい気持ちを胸に抱きました。
 ああ、今なら。今なら暴露してしまっていいかもしれません。互いの肌がモノトーンに近い今であれば、火照るであろうその頬を隠してしまうことが出来るかもしれません。この目が暗闇に慣れ切ってしまう前の今であれば。どうしますか。


(101025)

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -