六月の距離

 しとしとと降る長雨に、紫陽花の花がますます美しく見える今日この頃でございます。
 我が並盛中学校も衣替えを終え、真白なシャツが校内を染めすっかり夏らしくなったというのに、待ち構えている夏がこうもじめじめとしたものではやっていられません。朝方は晴れていたのに夕方になると空模様が崩れているということはざらにあり、学校に傘を持ってこなかった一部の人間による置き傘の借りパク行為はとどまるところを知らず、風紀委員会に所属している身としては毎年手を焼いている次第であります。
 委員会の都合で下校時刻が遅くなる私は、コンビニのビニール傘を持ち込むと被害にあう確立がなかなかに高まります。そのため、キチンと名前の入った紺色の傘を持ってきたり折りたたみ傘を鞄に忍ばせたりと涙ぐましい努力はしていたのですが、人間誰しもうっかりすることはあります。何もこれは珍しいことではないのです。
 朝はよく晴れたその日、夕方から天気が崩れると天気予報で情報を得た私は長い傘を学校に持ってきました。しかしながら出掛けは急いでいたために、その傘はよりにもよって、透明の、105円の、ビニール傘でした。安価で何のデザイン性もないその傘が例の被害に遭う確立は格段に高いものです。
 天気予報通りに泣き出した空に、変わることなく長引く委員会活動。ようやく全ての雑務を終えた頃、時計は十八時を指していました。下駄箱で私の傘がどうなっているのか、その展開は言うまでもありません。現状をこの目で確認してはいませんが、今日は濡れて帰るしか無いだろうと私は見当をつけていました。
「そういえば君、傘は」
「無いでしょうね」
「この雨なのに?」
「はい。この雨だからと言ったほうが正しいかも知れませんが」
 除湿の空調が効いた応接室は、この時期でもとても快適に過ごせます。
 委員長は謎掛けのような物言いに眉をひそめましたが、こんなことまで懇切丁寧に解説する気はありません。私も暇ではないのですから、委員会活動を終えたらさっさと帰宅してやるべきことを済ませたり、休息をとりたいのです。
 委員長がそれ以上言葉を紡ぐ気配がなかったものですから、私も黙って窓の外を眺めていました。雨は当然ながらやむ気配が欠片もなく、一定の水量をガラスに叩きつけています。
 とても静かな時間が、少しだけ続きました。
 委員長は溜息もそこそこに不意に立ち上がると、そのまま淀みない足取りで出入り口まで近づき、応接室のドアを開けました。室内を出る直前、ちら、とこちらを見ていたような気がします。しかしながら何も言葉を発せず廊下に消えてしまったので、委員長の真意など私にわかるはずがありません。
 時計の針は、十八時四分を示しています。昨日の今頃はきっと、下駄箱で靴を履き替えたあたりでしょうか。今日の仕事が終わったことは委員長に伝えてありますし、帰ってしまっても問題ないでしょう。いざとなれば携帯電話があることですし、構わないに違いありません。
 主のいなくなった応接室で私は一人ペンを持ち、さらさらと備えのメモ用紙に言伝を書き留めました。
 ――お先に失礼します。夢川日名子――
 これで完璧です。私はとうに荷物を詰め終わった鞄を持ち、意気揚々と応接室を後にしました。

 突然ですが、私と彼・雲雀恭弥はいわゆる恋人同士というやつです。
 あれは確か、桜の葉が青々と茂っていた頃のことでしょうか。
 その頃も今と代わり映えなく風紀委員会での業務を済ませ、さて帰ろうかと帰り支度をしていると、私は体の一部が凝り固まってしまいそうなじっっっとした視線を身に受けました。放課後の応接室にいるのは事務処理担当の私と、並盛中学校の主である雲雀恭弥その人だけです。
 アフターファイブはとにもかくにもさっさと帰って自宅でゆっくりしたかったのですが、委員長のあからさまな視線を無視してまで帰宅してはいささか面倒なことになりかねません。無言で何かを訴えかけるこういった時の委員長を相手にするのもまた然りですが、どうせ「お疲れ様でした」と頭を下げて退出しなければならないため、会話をすることは必至です。
 すっかり鞄を閉じてしまってからようやく委員長を見やると、彼はまっすぐな視線をこちらに向けたままどことなく思いつめたように「夢川」と私の名を呼びました。少しばかり違和感を覚えつつも「はい」と答えると、委員長はしばしまた沈黙します。
 窓の外の夕日が綺麗です。室内はやわらかな橙色に染まり、どこもかしこも赤く染めています。
 明日は晴れだろうかとぼんやりと意識を窓の外にとられていると委員長がようやく口を開き、ただ一言だけ言いました。
 ――付き合って、と。
 今日の仕事は終わったはずなのに、サービス残業なんてあんまりです。
 めんどうなことこの上ないと思いつつも、普段と様子の違うこの状況を私情で蹴るのもどうかという思いもあり、帰宅後に放映されているテレビ番組と天秤にかけた後、私は「はい」と答えました。委員長は私の言葉を聞くと珍しく邪悪でない、見ているこちらがドキリとしてしまいそうなやわらかな笑みを浮かべましたが「そう」と言ったままどこへ行こうとしません。
 猫のように気まぐれなところがある委員長のことです。きっとまた気が変わったのだろうと納得し改めて帰ろうとすると、委員長もまた席を立ち、なんとなくそのまま途中まで下校を共にしました。放課後の見回りということで時折そのようなことはあったため、私は何の疑問も持たず帰路についていたのだろうと思います。
 その日は私にとって、何事もなく終わる一日にしか過ぎませんでした。その次の日もその次の日も同様で、私たちの関係に特別な変化が訪れることなどありません。そのため、委員長のどこへとも知らぬ「付き合って」という気まぐれの発言などすっかり忘れていたのですが、少しずつ少しずつ校内に浸透していたのは、私と委員長が恋仲であるという噂話でした。
 私が風紀委員に勤めてからしばらくたちますが、いったいぜんたいどうしてこの時期になってそのような噂話が校内のトピックスとして囁かれたのだろうと頭は疑問でいっぱいです。しかしながら、火のないところに煙はたたずという言葉を思い返し記憶を探ってみると、どうやらあれが告白の言葉だったようでした。
 まったくわけがわかりません。先に述べたとおり委員長は「付き合って」の発言の後もごくごく普段通りに過ごされていたのです。
 そのため、何かの間違いだろうという考えが頭の大半を占めていたのですが、決定打となったのは委員長の腹心である草壁くんの言葉です。草壁くんはあの日から数日後、ハッキリと委員長の口から聞いたと言います。「僕は夢川日名子と付き合っている」と。
 委員長のことであれば嘘などつくはずもない、草壁くんが言うのであれば間違いはありません。あの言葉がやはりそうだったのかと納得し、それならば確かに告白に応じたことになるのだろうと思いましたが、肝心の委員長の態度に目立った変化はありませんでした。そのため、今更恋人らしく振舞うのも妙なものであるしこの様子なら放っておいても問題はないだろうと判断した私は、委員長と同じく何事もなかったかのように、ただただ代わり映えのない毎日を過ごしてきました。
 私は何も、間違ったことをしているわけではありません。告白らしきものを受けた私が、律儀に恋人らしい振る舞いをするなどという道理はないのですから。

 そのようなとりとめのない事を考えて歩くと、一人の時間でも存外時間と言うものは早く流れ去ります。時間は一定ではないというようなことを語った哲学者がいたと思うのですが、あれは誰だったでしょうか。それこそとりとめのない話です。
 今はただ、早く家に着くことだけを目的とすればいい。
 降りしきる雨の中、傘も差さずに足早に道を行く女子中学生の姿は異質なものとも言えるのでしょうが、幸い家までの最短ルートを辿る通学路は日頃から人気がありません。大通りに面することもありますが、それはほんの少しのことです。
 昨日よりもいくらか早いペースで、小学生時分に通っていた書道教室の前を過ぎました。それでも、あたたかい湯の待つ我が家までまだまだ時間は掛かります。水溜りにぱしゃんと右足がつかり、雫が左足まで濡らしました。じっとりと湿る靴底になんともいえない不快感を感じ、眉をしかめ視線を下におろすと、視界の端で味気のないストラップがゆらりと揺れました。
 ふと、大した期待もなく引っ張り出して携帯電話をポケットから出してみると、鮮やかなランプが目の奥を焼きました。どうやら知らぬ間に着信が入っていたようです。流石に精密機器を濡らしてしまうのは忍びないので、シャッターの降りた豆腐屋の軒先にお邪魔してディスプレイを確認します。すると、狙い済ましたようなタイミングで再び着信を知らせる光が手の中で瞬きはじめました。画面には「水道局」と表示されています。
「はい、もしもし」
「僕だけど」
 この電話は一時期流行したオレオレ詐欺の亜流ではありません。電話口から聞こえてくる危うさが含まれた冷たい声色は、事故をおこした息子でも水道局の人でもなく、雲雀恭弥のものに他なりませんでした。
 雨音が強くなってきました。濡れに濡れた指先が滑り、機器の安定感が気になりだします。手のひらで覆いこむようにして携帯電話を持ち直しているうちに一言二言委員長が何か言ったような気がしましたが、結局聞こえたのは最後のあたりだけです。
「――、何してるの」
「はい、帰宅しています」
「……迎えでも呼んだの?」
「いえ、普通に帰宅しています」
「……傘、無いとか言ってなかった?」
「正確には無いと思う、です。予想通りありませんでした。ですけど、今日はもう帰るだけなので濡れても構わないかと」
「は?」
「それに、明日は休みですし」
「…………」
「…………委員長?」
 通話口から声が聞こえてきません。
 呆れられているのだろうかとある程度の予想はつきましたが、顔が見えないこの状況ではどう対応するべきかわかりかねるものです。休む間も無く波紋を作りあげてゆく水溜りをじっと眺めながら応答を待っていると、前触れも無く通話が途絶えました。
 通話時間、三分十五秒。もしかしたら、また掛かってくる可能性もあります。
 先ほどから掛かっていた不在着信を念のためチェックしてみると、「水道局」は着信履歴の画面に表示される最大六件の番号の内実に五つの枠を占めていました。どれも十分以内に掛かってきたものばかりです。
 並盛を支配する人間の電話番号をダイレクトに入れることは危険を呼ぶかも知れないと思いこうしたカモフラージュをしているのですが、いかんせん水道局では現実味がありません。水道局から週に何回も・一日のうちに間をおかず着信が来るなど、普通に考えてありえないことだからです。我が家が水道代を滞納していると思ったら大間違いなのです。
 少しばかりいくつかの案を巡らせた後、私は電話帳から登録内容の変更項を選択しました。水道局から、山下武に名前が様変わりです。誰の事かは知りませんが、これならばいくらか現実味が出てきました。
 さて。
 ある程度待ってみたものの、これ以上山下武から着信が来る気配はありません。気を取り直して帰路につこうと軒先を出ると、歩いてきた道の先に黒い物体が蠢いているのを視認しました。あれは何かしらと目を細めてみると、どうやら人間であることがわかりました。それも、真っ黒な傘を差した制服姿の男性。見れば見るほど見慣れたシルエットで、委員長だと確信した時にはそのお顔がよく拝見出来ました。たいそうたいそう、不機嫌なご様子です。すれ違う買い物帰りのおばさまがぎょっとした目で見ているではありませんか。もしかして私は何か、仕事で不始末をしでかしてしまったのでしょうか。
「どういうつもり」
 私との距離が数メートルまで縮んだところで、委員長は地を這うように低い声色で、静かに問いかけました。
「申し訳ありません」
 頭を下げると、雫が鼻先を伝って唇の中に流れこみます。六月の生暖かい雨は、少しだけ塩気を含んでいるような気がします。
「何か書類に不備がありましたか?それとも、そもそもまだ仕事が残っていたのでしょうか」
「……いや、」
「では、許可を取らずに帰宅したことが問題だったのでしょうか。そうだ、書き置きはご覧になりましたか?」
「そういう意味じゃない」
「ご覧になっていないのですか?……そうですか、それじゃあ仕方がありませんね。もっと目立つところに置くか、メールでもしておけば」
「……君」
「はい」
「…………」
「……はい?」
「……いや。そう、だよ。書き置きなんて知らない」
「やっぱりそうでしたか。申し訳ありません」
「次からは気をつけてよ」
「はい。申し訳ありませんでした」
 何度目かは数える気にもなれない謝罪の言葉をもう一度口に出しましたが、委員長は複雑な顔をしています。静かな怒りに燃えるといった表情ではなくなりましたが、納得いかないことが燻っているのはなんとなくわかります。
 しかしながら、それをドストレートに聞いたところで素直に教えて下さるような委員長ではありません。きっとはぐらかすか、拗ねているのに拗ねていないとそっぽを向き、事態が余計に悪化してしまうに決まっています。私にもう少し能力があれば委員長を拗ねさせることなく問題解決への糸口が見えてくるものかと思いますが、今回は見送ってしまいましょう。触らぬ神には祟りがないのですから。
「それでは委員長、私はこれで。ご足労様でした。注意はしっかりと心にとめましたので」
「は、」
「え?」
「傘は」
「持っていませんが」
 先ほどもこのような会話をしたな、と思いつつも答えると、委員長は表情をかたくしたまま黙り込んでしまいました。
 六月とはいえ、夕方は冷えます。旋毛から爪先まで満遍なく濡れた体を長いこと野ざらしにしていては、流石に鳥肌だってたつものです。
 鼻の奥にむずむずとした感覚が襲い、禁じ得ずくしゃみをひとつ。反射的にそむけた顔を鼻をぐずぐず言わせながら戻すと、むっつりとした表情のまま、差していた傘を少しだけ私のほうに差し出す委員長の姿がありました。入れ、ということなのでしょうか。目がそう訴えているように思えます。
「……でももう、濡れてますよ」
「それ以上濡れて体調壊しても、君の仕事を肩代わりする人間なんていないよ」
「そこは責任を持ちます。それに、明日明後日は休みなので風邪をひいても月曜までには治してきます」
「根拠は」
「大丈夫ですよ」
「………………」
 委員長は眉をいっそうひそめ、口をへの字に閉じてしまいました。見る人が見ればこの顔もたいそう恐ろしいものに違いないのでしょうが、私から見れば拗ねた餓鬼んちょのようで生暖かく微笑ましい様子に見えます。もちろんそんな感想を口に出すことはしません。委員長が私に手をあげることはまずありませんが、いっそう拗ねるか不機嫌になることは火を見るよりも明らかなことだからです。
 ぱたぱた、ぱたぱたと前髪を伝った雨粒はむき出しの肌に新たな雫を残してゆきます。兎にも角にも、こうして雨の中突っ立っていては本当に風邪を引きかねません。一時的に軒先に身を潜めていても、後頭部にはまだまだ雨粒が潜んでいるのです。
「とにかく、大丈夫ですから。委員長こそ早く戻って下さい。私よりもずっとすることがあるでしょうに」
「君に言われるまでもないよ、そんなこと。……僕がわざわざ外に出て来た意味、わかってて言ってるの?」
「……あっ」
「……」
「なるほど、見回りの仕事を兼ねているわけですか。いえ、私への注意のほうがついでかもしれませんね。お仕事の邪魔をして申し訳ありません」
「………………」
「では今度こそ失礼します、委員ちょ」
 軒先から出ようとつま先を動かすと、半身が出るよりも早く委員長が歩き出しました。ちょうど、方向は私の進路と同じになります。失礼しますといった手前同じ方向というのも気まずいような気がしましたが、そんなことはさっさと帰って風呂に浸かることを考えれば些細なことに過ぎません。
 委員長はいくらかゆったりとした足取りで進み、私はいくらか早足で進みます。距離が近付き横に並ぶと、傘の端から覗き見えた委員長の瞳はいつかのようにじっっっと私を見つめていました。視界の端から端へフェードアウトしていった仕事帰りのサラリーマンは、不可思議なものを見たとでも言うように委員長の隣を擦れ違っていきます。
「……」
「……」
 終始無言のまま、しっかり傘を差した男子学生と濡れネズミの女子学生が歩く組み合わせは集めなくてもいい視線まで集めてしまいます。プライドの高いこの人のために、ここは私が折れるべきなのでしょうか。私は意地をはって好意を避けているのではなく、ただ単純に今更雨避けをしたところで意味がないと考えているだけだというのに。
 たばこ屋の角を曲がり、人通りがいくらか増えてくる箇所に差し掛かる前になりました。
 これ以上好奇の目に晒されるのはごめんです。走ったところで今更この委員長がひくとも思えず、私は歩くスピードをやや緩めて一歩彼に近付くと、ついと差された傘に三分の一ほど体を差し入れました。肩が触れあい、袖が濡れたからでしょう。委員長はびっくりしたように目をまるめ食い入るように私を見つめています。まさかそこまで驚かれるとは思わずこちらも一瞬言葉を忘れてしまったのですが、気を落ち着かせゆっくりと口を開きました。
「お邪魔しても、よろしいでしょうか?」
「……別に」
 いかにも興味無さそうに視線をはずしたところで、ほんのりとやわらかくなった目元の変化は横顔からでも充分にわかります。普段はなかなか構ってやれない猫に、猫じゃらしを見せて視界の端でふってやったような情景です。なんて不器用なのでしょうか、この人は。昔祖母の家にいたずんぐりとしたブス猫を思い出し、ふわふわと心の中があたたかくなりました。
 言いたいことがあるのなら、もっとはっきり言えばいいのに。そうすれば煙にまいてやりすごすことはずっと少なくなるでしょうに、プライドの高い猫というのは本当に困ったものです。このまあるい頭を撫でくりまわしたら、一体どんな反応が返ってくるのでしょうか。引っかかれるか仏頂面のままいいようにされているかの二択ではないかと思いますが、そこのところはどうなのでしょうか。ねぇ、恭弥さん。


(100605)

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