03

 母の生家は県境の山間部に位置し、遠い古代大和より豊かな自然を残す山村の中にひっそりと佇んでいた。大正に建てられた瓦葺の家には白壁に囲まれた四角形の土地蔵があり、裏庭には柿の木があった。すぐ傍を流れる清流に沿って山を登ると一角に竹藪があり、季節には竹の子が採れた。猪は勿論番いの雉も其処此処を歩き、今になって考えてみれば、いわゆる「田舎のおばあちゃんち」から想像するそれよりも遥かに田舎にあった。
 まだ片手と少しの指で歳が数えられる頃、ひと時をその家で暮らした。夏は窓を開け放していればそれだけで涼しかったが、虫は休むことなく一晩中鳴き続け寝苦しい日もあった。
 まだ遊び足りず一日を終えた日などは、床に入って一時間二時間と経っても夢の影すら見つからず、こっそりと寝床を抜け出して夜の集落を散策に出掛けた。
 夜の一帯には街灯がひとつもなかったが月は煌々と白く、山林に入っても自分の影を見つけることだって出来た。明るい空の下ひとしきり遊んだ後は、また元通り道を辿り、行きと同じくこっそりと寝床に戻りぐっすり眠る。
 明け方、勝手場から漂う味噌汁の匂いにつられて目を開けると、黒光りする木目の天井が眼前にただ広がっている。場合によっては化け物の目にも見えるものだが、寝起きのぼうとした頭では恐ろしさはない。眺めながら、今見ていた夢は何だったかしらとちらちらと夢の尾を辿ったものだが、無事思い出した試しがない。そのうち朝食に呼ばれ布団から這い出ると、もうすっかり辿ったことすら忘れているのだった。

 だというのに公園からの下りをすっかり覚えているのは、よく似た色の木目を目にしても正しく化物の目がそこにあり、あれは夢ではないと告げていたからだろうか。
「気づかれましたか。御加減はいかがですか」
 起き抜けの判断能力がおぼろなうちに、死ぬかもしれない、と悲鳴を飲み込んだのははじめての経験だった。あるいは飲み込んだというより、名状し難い奇態な光景に、咄嗟に声が出てこなかっただけかもしれない。
 気を失う前に声を聞いた緑の化物の姿がそこにある。ありふれた八畳間を背景に、そっとこちらに水を差し出していたのだった。爛々と光る赤い双眸に釘付けになりながらコップを受け取り、おそるおそる喉に流すと、なんてことはないごく普通の水が渇いた口内を潤していった。
 緑の化物が笑う。室内は明るい。快適な温度が保たれていて、僅かに隙間を開けた障子窓の向こうからは賑わう通りの喧騒が聞こえた。暦、時計、照明ひとつとっても見慣れないものはなく、テレビに映るのは、レポーターらしき「人間」の女性が笑顔で商品を紹介しているシーンだった。その日常感溢れる部屋の中に、こんなシロモノが存在してはおかしいんじゃないかというような緑の化け物がいる現実というのは、大いに私を戸惑わせる。
 そのまま黙っていると、緑の化物は声だけはやさしげな素振りでもう一度身体のことを心配し、次にここが自分の家であること、急に私が倒れたのでそのままにしておくには忍びなく、布団に寝かせたことを告げた。今は昼前で二時間ほどよく眠っていたらしい。ついでによかったらと昼食まで勧めてきたのだった。
 昼食という言葉を耳にしてはじめて布団の敷かれた六畳間の先、微かに味噌汁のあたたかな匂いが漂ってくることに気がついた。すると急に空腹を感じ、ものほしくなってくるものだから身体は正直なものだ。
 すぐに用意しますから、という男──もう男ということにする──の言葉に頷いてしばらく待つと、薬膳のような粥と少量の漬物と、若芽と豆腐の味噌汁が盆にのって出てきた。心持ち大きな匙で粥を掬い口に運ぶと、鶏ガラ風味の米とやわらかくなった長芋の味がじんわりと口の中を広がっていった。ゆっくりと嚥下して息を吐くと「お味はいかがですか」と言葉が降ってきた。
「とてもおいしいです」
 素直にそう返すと、安堵したような声が続いた。ぺろりと平らげられるだの殺されるだのという気配はなく、いくらかこちらも安堵しながら匙を動かした。顔を直視する勇気は未だなかった。
「そうだ、お名前を御伺いしていませんでしたね。僕は屁怒絽といいます。放屁の屁に、怒りの怒、ロビンマスクの絽と書いて屁怒絽。見ての通り、花屋を営んでいましてね」
 どう反応していいのかわからなかったので、
「鳴海秋乃といいます」
 と返すと、鳴海さんですかと屁怒絽がゆっくりと反芻した。
「失礼ですが、一体どうなさったんですか? 随分とお疲れのようでしたが」
 一体どうしたのか。そんなこと私が聞きたいから、これにもどう返していいのかわからない。こんな時、「持病の発作が起きて日陰で休もうとしていたのですが急に悪化しましてね。ああ、うつるものでもありませんしもう落ち着いたので大丈夫。これから病院へ寄って家に帰るところなんです。御世話様でした」とでもさっと返せればいいが、どうにもそういったアドリブは不得手だし、屁怒絽に対して嘘をつくという行為にはちらちらと恐怖心がつきまとう。
 曖昧に笑い、けれどそのままでは無言の圧力に潰されかねないので、仕方がないので正直に心の内を話した。
「あの、どうやってここまで来たのかよくわからなくて」
「わからない?」
「はい。昨晩、少しばかり酔っていたことは覚えているのですが、朝方気が付いたら歌舞伎町の公園にいたんです。立ち寄ったことのない場所にどうやって行ったのか、いつからいたのかもわからず、混乱してしまって」
「それは大変なことでしたね。真撰組が見回りをしているとはいえ、江戸には危険も多いというのに」
 シンセングミ? エド?
「…………。屁怒絽さんは、江戸に住んでいらっしゃるのですか?」
「ええ。荼吉尼という種族ですから勿論違う星の出身ですが、少し前からかぶき町に住まいを建てましてね。いやぁ、いいところですよここは。危険が多いのは確かですが、みなさんあたたかくて親切だ」
「……そうなんですか」
 いよいよ途方に暮れてきた。
 屁怒絽の話が本当だとすれば、ここは江戸時代末期にあたるが教科書で知るよりも遥かに科学技術が進歩し、なんと異星間交流もある日本──そういうことでいいのだろうか。ということはつまり、そういうことなんだろうか。そういうことっていうのは、私が何らかの弾みで異世界に迷い込んでしまったということで、このかぶき町から新宿駅を目指したところでいつまでたっても家に帰れないということだ。帰るどころか、異星人が闊歩する町でどう振舞えばいいのかもわからないということだ。
 そう思った瞬間筆舌し難い音響が頭の中を鳴り響いて、ぼろぼろぼろぼろ涙が零れてきた。<二十歳そこそこを過ぎた時の漠然とした不安>などちゃんちゃら可笑しくて臍で茶が沸きそうでィ、という不安感が胸に押し寄せてきて、苦しみ、悲しみ、何かを物凄く後悔する気持ちが綯い交ぜになって身体の隅々まで浸透していった。どうしてこんなことになったのだろう。独り立ちして、就職して、そこそこ友人にも恵まれて、愚痴を言うほど余裕があったのに、今まで積み上げてきたものがなくなってしまった。こんな場所は教科書でも知らない。リアリティのある異星人なんてテレビでも見たことがない。
 恥も外聞もなく泣き出した私に屁怒絽はおろおろとうろたえていた。この異形を戸惑わせるなんて、と頭の隅で考えることでいくらか冷静になって、
「突然すみませんでした」
 と様子をみて俯きがちに切り出した。屁怒絽は心持ち静かな声色でもう一度眠るようにと勧めた後、店の支度があるからと部屋を出ていった。途端、がらんとした八畳間はもの寂しく、郷愁に浸りかけて乱暴に布団を被り目を瞑った。綿のがさがさとした表面からは、陽に晒したばかりのようなあたたかな香りがする。また涙ぐんで、枕に顔を押し付けた。目を覚ませば元通りになる。今度こそ見慣れた白い天井を目にするのだと強く自分に言い聞かせて。

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