02

 夜の林道を真っすぐに進んでいく。虫の音と木々の行列がひたすらに続いている。頭をあげると、枝々の隙間から白い月がちらちらと見下ろしている。
 仕切りない虫の音に飽いてきたところで、ようやく開けた場所に出た。丘の中腹に出ると月は太陽にすり替わり、これもまたすり替わった青空の下、青々とした草花がゆらゆらと揺れながら野の香りを運んできた。丘を走り抜けながら下っていくと、納屋のような建物があった。
 建物の周りには小学生ほどの子供が幾人もいて、かけっこをしたり、ちゃんばらに興じたり、塀に寄り掛かって本を読んだりと、各々思い思いに昼下がりの時を過ごしていた。そのうち、こちらに気が付いた誰かが歓声を上げ、していたことを放り出して駆けてきた。
 私の目には、水平線の向こうから押し寄せてくる、漣に似た白が見える。照り返しで不思議に色を変えながら、ゆっくりと近づいてくるものも見える。
 不思議な話だ。

 眩しくなってきたので目を覚ました。瞼を持ちあげた先にあったのは見慣れた白ではなく青色で、天井すらない空そのものにしばらく放心した。どうにも節々が痛む身体を起こすと辺りは木々に囲まれていて、夢の続きを見ているのだろうかと薄ら思ったが、ここはすぐ傍にベンチの背があった。鳥の鳴き声に混じりどこからか、子供たちとは違う、人の声も届いてきた。どうやら公園のようだ。外で眠ってしまっていたことにも、どうしてここにいるのかもさっぱりだった。横たえていたものが少し湿り気のある段ボールと気付くと、また混乱した。
 状況をどうにか把握しようと固まっていると、声が降ってきた。
「おい。大丈夫かい、ねえちゃん」
 声はベンチからした。見上げると、今まさに寝そべっていましたというような体制のまま顔を覗かせた男の姿があった。少し掠れた声に相違ない成人男性で、サングラスに無精髭、くたびれた甚平のような襟元が見えた。
 状況が状況だけに警戒心を拭えずじっと様子を窺いながら頷くと、「そんなに警戒すんなって」と男が続けた。ベンチから身を乗り出してこちらを──瞳の動きは読みとれないが──見つめる男からは、饐えたいやな臭いがした。公園に段ボール、だらしのない格好の中年男性という組み合わせから浮浪者という単語がすぐに結び付き、さり気無く手荷物を探すと、ベンチの下の辺りに見慣れた黒いハンドバッグが見えた。中身について不安は残るがいくらか気を取り直して男に向き直る。やはり、怪しげな浮浪者に見えた。しかし心配したようにわざわざ声を掛けるなど、悪い人間ではないのかもしれない。
「すみません、ここはどこでしょうか」
「かぶき町の公園だよ」
「かぶきちょうって……あの歌舞伎町ですか?」
「かぶき町っていやぁ、かぶき町だろうな」
 かぶきちょう。ともう一度口の中で反芻しながら、嘘でしょう? という気持ちにサッと血の気がひいた。歌舞伎町、歌舞伎町だって?
 「ここだけは行くな」「夜なんてとんでもない」「立ち止まったら最後──」ヤクザ、ホスト、風俗嬢、不法滞在の外国人。日本最大の繁華街、歓楽街。田舎にいた頃から漠然と「恐い町」としてのイメージだけがある町だ。何がどうしてここにいるのかさっぱり覚えがないが、覚えがないだけに、よりにもよって何故ここにという恐ろしさだけが際立ち粟がたった。緊張で、声が硬くなった。
「あの、私、かえらなきゃ──」
 引っ手繰るようにしてバッグを掴み、勢いに任せて立ち上がるとくらりと眩暈がした。「おいおい」と、少し呆れたような調子でまた男の声が聞こえる。
「ほんとに大丈夫か? 水ぐらい持ってきてやるから、まだ休んでたほうがいいんじゃねーか? あんた、公園でぶっ倒れてるなんて、随分と酔っていたみたいだったし」
「……そうみたいですね」
 友人と別れて以来酒を飲んだ記憶もさっぱりないが、歌舞伎町の公園で酔い潰れるなんて本当にどうかしている。新宿駅で彷徨っていた記憶を元にすれば距離にして一キロに満たない場所だろうが、せめて西武新宿駅辺りで足を止める気力を残しておきたかった。
「お礼も出来ずすみません。お手数おかけしました、失礼します」
 男がまだ何か言っている気配は感じていたが、聞こえないふりをした。早く家に帰りたい。もうすっかり<二十歳そこそこを過ぎた時の漠然とした不安>は忘れていた。それどころではなかった。

 *

 歌舞伎町から新宿駅まで歩いて戻る。それだけのことなのに、無数にあるはずの地下への入口に辿りつくことが出来ない。
 はじめこそ足早に通りを抜けてどこでもいいからさっさと歌舞伎町を抜けてしまおうと思ったのに、今やその歩みも止まっていた。足を止めたらキャッチに捕まるといやになるくらい耳にしていたのに、行けども行けども地下どころか──現代社会にすら辿りつけずにいる。
 歌舞伎町は魔窟だ。
 通りには長屋のような低い建物が連なり、等間隔に提灯がさがっている。行き交う人々は色とりどりの着物を纏い、ありふれた髪形の人もあれば髷を結う人も平然と歩いていた。かと思えば軒先には、陽が暮れればネオン瞬く看板が当たり前の顔をして風景に溶け込み、少し先では、狭い道を車が行き交っていた。スーツ姿であったり、極端に丈の短い着物を着た若い女性の姿もある。極めつけに言えばSF映画でしか見たことのない、特殊メイクを全身に施したような生き物までも堂々と通りを歩いているのであった。……空を見上げれば、気球船とも違う巨大な船が轟々と音を立てて進んでいるのが見える。周りの人々があれは何だと騒ぎたてることもなく、ということはこの場において異常であるのはこちらだということだ。
 途方に暮れたので、前にも後ろにもそれ以上動くことが出来ない。呆けているうちに事態が急変し全てが全て元通りになりはしないかと、少し遠いところでこの現状を見下ろしている自分がいたが、いくら様子を窺ってもその気配は見当たらなかった。
 そのうちにあからさまに問いはしないが、どうしたんだ? という探る視線がちらちらと身に突き刺さりはじめたので、何でもない風を装って路地の方へ身を滑り込ませた。建物と建物の隙間にはどこかで感じたことのある陰気な空気が漂っていて、積まれた瓶ビールの容器も異臭を放つゴミ箱も、排気口も長屋を走る配管用パイプにも懐かしみつい涙ぐんだ。しかし通りを振り返りそこにあるのは、右へ左へ消えていく着物姿の女、髷の男、獣頭、スクーター、帯刀した洋装の男、巨大な犬、チャイナ服の少女……。
 ここが映画村であってほしい。時代劇なのか近未来ものなのか特撮なのかもわからないが、ここが映画村であれば家に帰れる。撮影がひと段落したら駅まで案内してもらい、何駅か何時間か知らないが、電車に揺られているうちに見慣れた風景が戻ってくる。最寄り駅についたらコンビニに立ち寄りつつアパートまで歩き、内ポケットに入った鍵でドアを開ければ、ワンルームのささやかな城がある。
 そう信じることこそ、この苦しみから逃れられる唯一の方法だ。しかし私は信じ切れなかった。だってこんな、ありえない。ははは、ありえないが、この世にありえないことなんてないのだよ鳴海秋乃。人間いつ死んだっておかしくないのだから、いつ頭がおかしくなって世界がおかしくなってもおかしくない。こんな歳になってもまだ夢を見ているのか。
 そうやって虚しく自答していると、魔窟の陽すら奪わんと路地裏に殊更深い影が落ちた。霧が出たようにぞくりと体温が下がり、静けさに耳の奥がキンとした。もうどうにでもしてほしかった。
「おや、若い娘さんがこんなところに」
 ずん、と重いエフェクトをかけた声がじわり頭蓋を蝕んだ。泥濘に違いない空気を掻き混ぜるなんてよせばいいのに、頭も視線も、声がした方向へゆっくりゆっくり持ち上がっていく。苔のような緑の肌、闇という闇を掻き混ぜたような黒々とした髭、剥き出しの牙から覗く赤い舌、波打つ血管に罅割れた頬、赤褐色の双眸に二本の角──化け物クリーチャー怪物妖怪妖魔魔人異生物。
「どうしたんですか。顔色が悪いですが、気分でも優れないのですか。すぐ傍に私の家がありますから、休んでいったらどうでしょう。なに、心配はいりません。すぐそこですから、遠慮なさらず──」
 全ての音が遠のいていく。意識がくらり消え失せる須臾、正月以来会っていない母の顔がふっと浮かんだ。

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -