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 屁怒絽さんに頼まれて、店番をすることになった。
 なんでも郊外のほうに急な配達が入ったとかで、帰りは夕方になるかもしれないという。花に関する知識がほとんどなくても、「電話番とレジ打ちだけなら大丈夫でしょう。なに、店頭での販売というのは実のところ少ないものですから、居眠りをしていたって構いませんよハッハッハ」とのことだが、客入りが良いにしろ悪いにしろ、頼まれた側の人間としては気が気ではない。
 屁怒絽さんが営む「ヘドロの森」は、千年を生きる大木の根元に看板を建てた空想的な花屋で、中にいる分にはわからないが、改めて外から見上げてみるとこのかぶき町でも一際異彩を放つものだった。守人は小神族エルフか自然物の精霊か、といったところだが、そこは屁怒絽さんである。大口の顧客はともかくとして、鬼のような風貌をした茶吉尼族が店先に立つ花屋に、市井の人々が「ちょっと花でも」と立ち寄ることは滅多無い。
 せっかく、屁怒絽さんが毎日愛情込めて手入れをしているのに。
 ぷらぷらと暇そうにしている若者も千鳥足のサラリーマンも、ヘドロの森を差し掛かると目が醒めたように足早に通り過ぎていく。屁怒絽さんが店先にいるのを視認するとわざわざ迂回する者もいて、大いに共感出来るが、本当は心根のやさしい人? なんだと知っているとどうにもやりきれない思いがするのもまた事実だ。
 屁怒絽さんは変えようがないとして、この店の何がダメなんだろう。看板が微妙におどろおどろしいのが恐怖心を煽るのかしらと表に出て眺め──駅構内にあるモダンな花屋、ファンシーショップに併設した洋菓子店のような花屋等々を彷彿しては打ち消し──ていると、隣の建物から見知った人物が歩いてくるのが見えた。なぜか頑なにこちらに視線を合わそうとしないが、あの白髪頭は間違いなく坂田さんだ。
「こんにちは」
 通りすがるところに声をかけると、坂田さんは何事かを叫んで大袈裟に肩を跳ねさせ、目を見開いてこちらを見た。この世の終わりにでも遭遇したような顔だった。しかしそれはちょっとのことで、正体を見極めるや否や、ゆるゆると普段の気の抜けた顔に戻っていった。
「あ、ああ、なんだ。秋乃ちゃん? ……なんかいるなーと思ったから、てっきり屁怒……絽様かと」
 坂田さんは言いながら腰を落とし、きょろきょろと辺りを見回した。過去に何か怖い目に遭った人の顔だった。
「屁怒絽さんなら留守ですよ。坂田さんはお出掛けですか?」
「あ? まぁ、ちょっとな。……秋乃ちゃんは何? 強制労働中?」
「……いえ、留守を預かっているだけです。お世話になりっぱなしというのも気がひけますし」
 いちいち妙な言い回しをする坂田さんをやや白んだ目で見つめてみたが、坂田さんは気にした素振りもなく「真面目だねぇ」と頷いた。それからようやく人心地ついたような態度で少し笑い、つられてこちらもにこにことしてしまった。
「バーさんとこでも働いてるんだろ? どうよ、調子は」
「おかげさまで。まだ時間は掛かりますが、着付けもなんとか形になってきました。どうですか?」
 言って、くるりと回って帯を見せた。坂田さんが選んでくれた白地の帯は程よいやわらかさで扱いやすく、何度か結んでいるうちに癖も出来て、指南書を見なくても一通りのことはこなせるようになった。この世界のことはまだわからないことだらけだが、少しずつ少しずつ手に馴染むものがうまれると、茫々としていた心身に熱が戻ってくるようだった。何より坂田さんには特別お世話になっているという意識があるから、彼と向き合う僅かな逢瀬の時は、若い春の切迫感に静かに心が沸き立つ。
 「おお」と、背中から弾むような感嘆とした声が聞こえて、得意になってまた口許が緩む。単純に褒められるのは嬉しい。しかしそのまま戻ろうとして、ふいに肩を掴まれて身動きがとれなくなった。何を、と問う前に耳元で、坂田さんの少し掠れた声がした。
「……いや、ちっとズレてるな。待ってろ、すぐに直してやるから」
 言い終わるか終わらないかのうちに、ぐっ、と背中を圧される感覚がして、息が詰まった。衝撃は二、三度続き、その間間接の曲がらない人形にでもなった気分でいたが、最後にバンと背中を叩かれてようやく息を吹いた。血流が巡り、トクトクと心臓が脈打つ音がする。
「はァい完了。表に出てるんだから気をつけな。この程度ならまだしも、いい女があられもない姿で往来を歩いてたら勿体ねぇからな」
「ありがとう、ございます。今後気をつけます」
「おう。それじゃまたな。近いうちにバーさんとこにも顔を出すからよ」
「はい、また」
 軽く手をあげて、ぶらぶらと坂田さんが歩き去っていく。その背中が見えなくなるまで見送ってから、どっと汗が出た。帯がズレてたって、ああ恥ずかしい。得意になって自分から見せた結果がこれなのだから、痛ましいったらない。
 ぱたぱたと手で扇ぎながら顔の火照りをやり過ごし、それでも落ち着かなかったから、竹箒を持ち出して表を掃いた。掃いても掃いても、微妙に忙しない心地である。この落ち着きの無さに先の背中を重ねわせて、夢想を抱くことの兆候が何であるのかは薄々わかるが、羞恥心に後押しされた一過性のものであることを知っている。また、深入りすることではないという自制も働き、自問自答はひとまずそこで取りやめになった。
 気持ちを切り替えるために息を吐くと、ガラリと今度は隣の、一階の扉が開いた。お登勢さんだった。
「おや、精が出るねぇ。珍しいじゃないか、あんたが店先に立つなんて。屁怒絽はいないのかい」
「はい。急な配達が入ったので、店番を頼まれまして……」
「へぇそうかい。どれ、ちょっと冷やかしてみるかね」
 お登勢さんはそう言って、ひょいと店の中を覗き込んだ。ヘドロの森は入口は狭い割に内部の空間は広く、薄暗いことも相まって原生林のような雰囲気もある。奥へ奥へ進むにつれてその傾向は顕著になるが、勇気を奮わせたお客様が来店したとて、そこまで辿りつくことはほとんど無いのだろう。お登勢さんもまた、まだ陽の射す入口付近の花々をじっくりと眺めるに止めていた。
「なかなかいい品揃えじゃないかい。せっかくだからアンタ、次の出勤の時にでも花をいくつか見繕ってくれるかい? ほら、一輪差しがあるだろう」
「ありがとうございます。用意しておきますね」
 留守を預かっている間に花が売れた。掛け売りだが、店番を任された結果に対しての充足感は最低限得ただろう。ひとつ荷が下りた気分でお登勢さんを見送り、興が乗ったまま店先を飾る花々の位置を、微調整などしてみる。なるべく色どりが見えるように。「もうこんな季節なのか」と情緒を震わすように。

 それから昼が過ぎるまでなるべく店先に立つようにしていると、日頃抑え込んでいた興味をここぞとばかりに向ける人々の視線が強くなり、いくらか作り置きの花束が売れていった。口を揃えて言うことには「今日はいないの?」と「なかなかいいじゃないか」であり、つくづく勿体無い店に違いないのだが、一方で想像を越えた様相が武器となり、高い評価に繋がるのだと推量する。いわゆるギャップ萌え、というやつ。
 そうだ、ギャップといえば、泰然自若とした物腰の土方さんが、生粋のマヨラーと呼ぶだけでは片付けられない程のマヨネーズ好きで、人が変わったようになるところが面白かった。万事屋の斡旋に貸金と、坂田さんや屁怒絽さんとはまた違う恩のある方だから、以前台無しになってしまった挨拶の場を改めて設けたいところだが、ただ借金を返すだけでは気が引ける。都内のように江戸にもマヨネーズ専門店があればいいが、しかしひょっとしてマヨネーズ好きが高じた分、味にうるさいという事もあるかもしれない。知人にマヨネーズ評論家とかマヨブロガーとかいればいいのに。土方さんに近しい共通の知人がいればいいのに。
 そんなことを思いながら真摯に仕事をしていると、往来を歩く足音がザリッと近くで止まり、にこやかにいらっしゃいませと顔を上げた先に嫌な人がいた。
「へぇ、かわいらしい番犬がいるじゃないですかィ」
 うわぁ、なんでこの人まで来るんだろー。
 しかし今の私は従業員。日々お世話になっている屁怒絽さんのため、そんなことを思ってもちくとも顔に出してはいけない。営業スマイルを張りつけながら本日はお天気もよくて云々、と続けていると、取り澄ました顔で「ご主人様の姿がねぇなぁ」と沖田さんがまるで話を聞いていないように言った。
「配達に出掛けています。言伝があるならお聞きしますが、御用件は?」
「ペットの躾が足りねぇ。畜生なら畜生らしく、いらっしゃいませと共に這いつくばって客の足を舐めるのが江戸の礼儀だって伝えてといてくれィ」
「……はい、承知しました。貴重なご意見ありがとうございます」
 お伝えしよう。江戸にはそんなわけのわからない事を言う警察がいるのだと笑い話にしてしまおう。
 用件を承ったことだしさっさとお帰り願いたいのだが、沖田さんは店の中を覗いてみたり店先の花を覗いてみたりと帰る様子がなかった。暇でも潰しているのだろうか。職務怠慢でクビになればいいのに。
 そんなことを思う。沖田さんは苦手だ。思い返してみれば公園で出会った当初から変わった人であまりお近づきになりたくないなという印象だったが、はじめて真撰組の屯所に行った件でそれは確たるものに変わり、なるべく彼の視界に入りたくなかった。こんな時はああ忙しい忙しいと仕事に追われている風を演じればいいのだが、レジ打ちと電話番だけを任された手前、なんと他に何をすればいいのかわからない。下手に手を出して屁怒絽さんの気分を害す結果になってもいやだし、どうしよう。
 仕方がないので事務作業をするふりをして中に引っ込んでいようと適当なバインダーを探していると、表の方から「ゲッ」と嫌悪感を乗せた声が聞こえてきた。……沖田さんと、あれは、神楽ちゃん?
「……なんでお前がここにいるアルか。朝っぱらから気分悪いから失せろヨ」
「お天道様がこんだけのぼってて朝とは、万事屋ってのは国外にあったのかィ。こりゃ不法滞在の取り締まりで仕事しなきゃなんねーかな」
「こんないたいけな少女をいじめて何が楽しいか。お前みたいなヤツがいるから今日も依頼人がこねーんだヨ」
「テメェのところの不況を俺のせいにすんな。金が欲しいなら出稼ぎで水商売でもしてきなァ。物好きがすぐに腹を満たしてくれるだろうからよォ」
「オイコラ今なんつった。三食卵かけご飯で酢昆布付きなんだろうなァゴルァ」
「昆布っつーかどっちかっていうと若芽だゴルァ」
「……何の話をしてるんですか二人とも。やめて下さいこんなところで」
 昼間からあんまりにもあんまりな会話をしはじめたため見兼ねて口を挟んだ。沖田さんはどうしようもないのでともかく、神楽ちゃんまで怪しげな言葉を発するのはよろしくない。しかしながら二人ともこちらの言葉が耳に入っていないのか聞く気がないのか、応酬はあっという間に苛烈さを増してすぐに取っ組み合いの喧嘩に発展した。知り合いのようだったが、この二人は元々仲が悪いのか。沖田さんは沖田さんだから嫌う人がいるのも頷けるけどってのは今はいいとして。
「ちょっと二人とも、ほんとにやめて下さい。あの、危な……」
 店を潰す気かこいつら。
 例えば私が剣道師範であれば竹箒をもって「えいやっ」と諸手中段突きに跳躍面云々と場を諌めることも出来たのかもしれないが、花屋の臨時店員である。花を折られないか、鉢を倒されないか、最悪店を壊されないかと気を揉むばかりで、後はもう祈るしかなかった。神様仏様お願いですどうかこの二人を彼方に連れ去って下さい。
 精魂込めた祈りは果たして天に届き、二人は土煙を立てながら通りの先へ消えて行った。しかしなんということだろうか。ほっとしたのも束の間、小さな観葉植物を寄せた商品が二つも転がり、鉢こそ破損していなかったものの、枝は折れ土は零れとよからぬものになってしまった。これはやばいマジでやばい。
 屁怒絽さんは殺生を好まず、虫一匹花一輪に対しても一個の生命としてとても大切に扱う。だからこそ屁怒絽さんが育てる植物は自然のまま生き生きとしているのだが、うっかりそれらを傷つけようとしたらもう悲惨。いつだったか通りすがりの人が棚置きの鉢に何かを引っ掛けて落としかけた時、屁怒絽さんの鉄拳が飛んだ。人に。人は屁怒絽さんの手によって易々と宙を舞い向かいの電信柱に激突した。鉢は無事で、「花だって生きてるんです。殺生はいけませんよ」と屁怒絽さんは締めたが、シメられた方は虫の息だった。
 だからやばい。犯人が立ち去ってしまった今、すると制裁を食らうのは私ということになりかねない。あの時の人はなんとか立ち上がり逃げるようにして去って行ったが、死なないとは言い切れないし命はあっても病院に行く金などない。マジで、やばい。
 やばいという言葉しか浮かばなくなった頭で虚しく立ちつくしていると、誰かが近づいてくる気配がしてハッとし、素早くしゃがみこんで鉢を隠した。なんてことない大きさなのに不発弾でも抱えているようだった。
「よう、お疲れさん。……なにしてんの?」
 ……坂田さん? この声、坂田さんだ。
 おそるおそる、顔を上げる。やっぱり坂田さんだった。しかしそれどころではない。
「どうしたの、この世の終わりみたいな顔しちゃって」
「あ……いえ、なんでも……」
 言いながら素早く辺りを見渡し、屁怒絽さんがいないことを確認してほっと息を吐いた。当然問題が解決したわけではなく既に気持ちだけは虫の息だ。そろそろ悲しい覚悟を決めなければならない。
 頬に力は入らなかったが無理やりに口角をあげて「おかえりですか?」と取り繕うと、坂田さんは怪訝そうな顔をしてしばらくの間こちらを見つめていたが、ふと視線を落とし、首を傾げ、またこちらを見つめた。やらかしたのか、と目で問われている。
「……。実は先ほど沖田さ……真撰組の方と神楽ちゃんがいらっしゃって」
「あーハイハイ、うん、大体わかったけど。……やばいんじゃないの? コレ」
「やばいです」
「屁怒絽は」
「そろそろ帰る頃かと」
「そうか、やべぇな」
「やばいんです」
 もうどうしたらいいのだろう。
 お客様からお褒めの言葉をいくつも頂戴してなかなかいい感じに営業し、臨時とはいえ花屋の店員であることに喜びを見出し、屁怒絽さんの喜びにも繋がるのではないかと心躍ってもいたのだ。ところが最後の最後に商品がダメになってしまった。これではよい報告が出来ないし、何より五体満足でいられないかもしれない。
 隠す心配りもなく何度目かの溜め息をつくと、坂田さんは「しゃーねぇな」と頭を掻いた。それからごそごそと懐から財布を取り出し、逡巡する素振りを見せてから、
「ひとつ二千七百円? ってことは二つで五千四百円か。パフェが七杯は食べられるじゃねーかチクショー。……ほら、もってけ」
 と五千四百円を私に握らせた。
「坂田さん、これ」
 もしや、と戸惑いながら坂田さんを見上げると、
「パチンコで勝ってきた後だし、気にすんな。それに、沖田くんの分は後で不良警察に請求するとして、半分はうちの神楽がやったことだからな。あー……ようするに保護者の責任ってヤツ? ほら、今色々うるさいでしょモンスターペアレントとか。御近所付き合いも大変よォ?」
 そう言って崩れた寄せ植えを指差し、「だから屁怒絽が来る前に、早く包んじまえ」と店員としての私を急かした。地獄に仏とはこのことか。坂田さんにはつくづく頭が上がらない。ならばと素早く申し訳程度に手入れをして袋に入れ証拠隠滅を図ると、平伏叩頭の勢いをもって深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。本当に、助かりました」
「だからいいって。……まー、どうしても気が済まないっていうのなら、別のサービスを期待しちゃうけど?」
 にや、と茶化しながら言われた台詞を咀嚼して、にこり、と微笑む。
「はい、是非」
 少々見当違いがあったのか、坂田さんは自分から言ったくせして曖昧に頷き、目を逸らした。平静を装っている顔だが、戸惑うように歪められた眉根がおかしくてますます笑みを深くしてしまう。その「なんかいいな」という気持ちは坂田さんが袋を片手に万事屋への階段を上ってゆく時も、屁怒絽さんが帰宅してからも続き、寝床に入り込んだ時の物思いにもあった。
 返したい気持ちがたくさんある。いつか坂田さんがどうしようもなくなったときに、頼られる存在になれたらいいのにと思う。今はそのための日々を、重ねなければいけない。

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