10

 続く白壁と格子窓に風にはためく砂色の暖簾、緋毛氈の縁台。いかにも和風然とした佇まいからは、いつももち米が香ばしく焼ける匂いが漂ってくる。
 その甘味処にはじめて入ったのは二週間も前になるだろうか。地理を身体に叩き込まんと散策している最中、そんな建物が見えてきたら足を向けるに他になく、以来連日のようにやれ団子だ抹茶だと、自分用にと取り分けた給料を割いてしまっている。はじめこそどこぞの一見さんといった風にそわそわしているだけだったが、足繁く通っていると顔を覚えられたのか、いくらか和やかに店主と二言三言言葉を交わすことも多くなった。江戸の町についてはもちろんこの世界のことだってわからないことだらけなのに、気分だけはすでにいっぱしの常連気取り。この日もこの日とて店の奥の席につき、今日はずんだ白玉がありますよという店主の助言を元にメニューを決め、運ばれるまでの間じっくりと店内を眺めた。
 甘味処は時間帯ごとに客層が変わる。
 開店して間もない朝八時には時間を持て余した人々が新聞を広げるなりお茶を飲むなりとちらほら、という程度だが、昼になると休憩の勤め人といった風貌の人々、あるいは近所の奥さん方の喋り声で店内は一気に賑わう。賑わいは夕方まで続き、午後六時を過ぎるとゆったりとした空気の中、店主が店先で煙をくゆらせるのだった。
 週に何度かスナックお登勢で御勤めをさせて頂く以外に予定という予定もなく、甘味処に行く時間も決まっていないのだが、この日は昼の三時頃だった。ちょうど入れ替わりのタイミングにあたったのかすんなり席につくことが出来たが、往来は激しくまたすぐに満席になった。
 これはあまり長居するのも悪いな。そう思っていると、「ご一緒してもよろしいですか?」と丁度声を掛けられた。見ると東雲色の鮮やかな着物を着た女の子がいた。茶色味がかった瞳はぱっちりとしていて、髪をひとつに結っているせいか溌剌とした印象もある。けれど物腰は穏やかで女の子らしく、端的に言えば可愛かった。
「どうぞ、座って下さい」
「ありがとうございます。なにせ荷物が多いものでしたから、助かりました」
 そう言ってにこにこと笑みを浮かべながら足元に置かれた荷物は、女の子ひとりが持つにはちょっとおかしいんじゃないかと思う程の量で、思わず凝視すると彼女は照れくさそうにぱたぱたと手を振った。
「やだ恥ずかしい。もう、あまり見ないで下さいな。色々と安かったものだから、ついたくさん買い込んでしまって」
「まあ、いいお店を知ってるんですね」
「うふふ。私もお客さんに紹介されてはじめて行ったところだったんですが、本当にいいお店でした。ご存じですか? 四丁目のところの……」
「あ、ごめんなさい。何分こちらに越してきてすぐなもので、地理にはまだ疎く……」
「あら、そうだったんですか。江戸にはお仕事か何かで?」
「ううん、なんと言うんでしょう。流れ流れて……というべきでしょうか」
「流れ流れて? ふふ、そんな風には見えないのに、面白いことをおっしゃるんですね」
 面白いと思われても仕方がないか、と曖昧に笑っていると、ずんだ白玉が来たので、同じものを女の子が注文した。白玉の上に若葉色のずんだ餡がたっぷりと乗り、見た目に爽やかな甘味だった。
「どうぞ、気にせず召しあがって下さいな」
「では遠慮なく、お先に頂きますね。あなたは……ええと、お名前を御伺いしても?」
「妙と申します。お妙って、みんなからは呼ばれているんですよ」
「お妙さんですね。私は秋乃と言います。お妙さんも、こちらの甘味処にはよくいらっしゃるんですか?」
「ええ、すぐ近くというわけではないので、買い物帰りに時々というところですけど……。やっぱり、たまに寄ってみるのもいいものですね。秋乃さんと、こうしてお話が出来ましたし」
 声に弾みをつかせて、ふわりと花が開くような笑みをお妙さんは浮かべた。すると心躍りがじわじわと伝わってくるようで、しんみりと、ああこの娘はいい子だと確信を深めるように何度も頷いた。そう多く言葉を交わしたわけでもなく、当たり障りのない内容だったとしても、身に浸かる非常時をひと時忘れさせてくれるような些細なやりとりは、陽だまり色をしたぬくもりの中を想起させる。それになんといっても、お妙さんは可愛い──。
「ええ本当に! お妙さんが新しく御友人を作る席に同席させてもらうなんて、いやぁ、今日はいい日だなぁ!」
 何の前触れもなく男の声が足元から聞こえた。驚きのあまり「ひっ」と細く悲鳴をあげると、目の前で穏やかに笑んでいたお妙さんの顔がぐるり真蛇と変わり果て、地を揺らさんばかりの大声で咆哮した。
「何当たり前のようなツラして会話に入ってくるんじゃこのストーカーゴリラがぁああああ!!!」
「おおおお妙さん!! 落ち着……ギャァアアアアアア!!!」
 一体何が起きているというのだろう。男の登場により突如豹変したお妙さんはしとやかに座っていた姿など見る影もなく、逞しくも男にマウントをとり、拳を振り上げて正しくフルボッコしているのだった。男は早くも顔面が崩れ、ゴリラと称されていてもゴリラ似であるのかそうでもないのかがわからない有様である。本当に、一体何が起きているというのだろう。
 手を貸すべきか貸さないべきか、そしてそれはどちらにかとも考えあぐね突っ立っているだけしか出来ない私にお妙さんはあの笑顔で振り返り、
「ちょっと待ってて下さいね、すぐに息の根をとめますから〜」
 と言った。この男の人が何であれ無論息の根をとめられても困るので、
「それは、まずいです、警察沙汰です」
 と絞り出すように、懇願するように言うと、「大丈夫よ」とお妙さんははっきりと声に出した。
「だってこの人が警察ですもの」
「けい……え?」
「警察でゴリラの癖にストーカーされて困ってるのよ。江戸の町には色んな人がいますから、秋乃さんも気をつけて下さいね」
 制裁を一頻り終えたのか、「よいしょ」と可愛らしく言ってお妙さんは立ち上がり、何事もなかったようにてきぱきと荷物をまとめだした。それから少し頭を下げてこちらを見て、
「せっかくの食事中にごめんなさいね。今回の注文、この人のツケで支払うようお願いしておきますから、よかったら好きなだけ食べていって下さい。それじゃあ、またどこかで会ったらお話しましょうね」
 と去って行った。ゴリラさんの残骸をそこに残して。
「警察って……」
 途方に暮れるあまりにぼそりと口から零れた言葉に、自分で言っていて「警察って、まさか」と信じられないし信じたくない気持ちでいっぱいになる。記憶に新しい警察といえば真撰組の彼らが頭に浮かぶが、主に沖田さんがしでかした事により良い印象はほとんどない。ほとんどないということは少しはあったということだが、今回の件を足すとマイナスに傾きかねない。百歩譲ってお妙さんの行動が過剰防衛だとしても、この警察疑惑のあるゴリラさんがにゅっとテーブルの下から出てきた時点で悪寒が背中を駆けあがり、もう評価はだだ下がりだ。ストーカーならストーカーらしくもっと大人しく潜んでいて欲しい。
 関わり合いになりたくないこと山の如しでありお妙さんに倣ってさっさとこの場を離れたいが、目の前で虫の息になった彼を放っておくほど憎悪を抱いているわけではないし、また、店側の視線が「どうにかしてくれ」と痛く「お勘定」の一言が口に出せない。仕方がないので膝をつき、おそるおそる、顔面を真っ赤に腫らして倒れているゴリラさんに声を掛けた。
「あの……大丈夫ですか?」
 これで返事がなかったらどうしよう。病院までつきそうのは嫌だ。警察署に御同行願われるのはもっと嫌だ。頼むから起きてくれ、と祈るような気持ちで肩の辺りをそっと叩くと、神様仏様ありがとう、ゴリラさんは閉じていた瞼をうっすらと開けた。
「おたえ、さん……?」
「……いえ、お妙さんならお帰りになりましたよ」
 そのままに告げるとゴリラさんは深く息をついて瞑目し、やっぱり死んでしまうのかと思ったが、ややあってゆっくりとまた目を開いた。それから忸怩たる思いにかられるよう顔を伏せながら上体を起こし、またひとつ溜息をついた。
「いやぁ、すまない娘さん。お恥ずかしいところを見せてしまって」
 本当にそうだな、という気持ちと、奇行を見せた割には常識的な発言をされたことに、おや? と黙っていると、ゴリラさんは店の主人を呼び、何事かを呟いて金を渡していた。これにもまさかとは思ったが、あからさまに問うわけにもいかず、そうっと盗み見た。
 よくよく見ればゴリラさんはキチンとした身なりの人で、今でこそぼろぼろに着物が着崩れてしまっているが、少し襟を整えただけで大分印象が変わりそうだった。顔付きは爽やか、とかイケメン、とかいうよりも男前と表現したほうが正しく体つきもしっかりとしていたから、好ましく思う人もそれなりにいるだろう。それなのにあんな残念なことをするなんて、と悲しく思う。
 そのうちゴリラさんはすっと顔をあげて姿勢を正し、真摯な態度でこちらを見つめた。
「迷惑をかけてしまったので、せめてもの詫びの気持ちとしてここの代金は俺が請け負いました。ゆっくりと……というのは難しい話かもしれませんが、気にせずゆるりと過ごして下され」
 どうしたんだゴリラさん。やれば出来る子じゃないか。この立派な大人が何故正気の沙汰とは思えない行動をしたのかさっぱりだが、ひょっとすると恋は盲目、というやつを突き進んだせいなのかもしれない。結果あの女性らしいお妙さんは凶悪化し、見ているこちらが戦々恐々としてしまったものだが、被害者? であるゴリラさんは傷を負ってなおどこか満たされた顔をしているのだった。
「……つかぬことをお聞きしますが、なぜお妙さんにあのように?」
 こうしたわけのわからない輩はシカトでいいのだが、このゴリラさんに対しては好奇心が勝り、ついそんな事を口走っていた。ゴリラさんはちょっとの間、きょとんと目をまるくしたが途端に快活ないい笑顔をつくって、
「なぜってそれは、お妙さんが俺の女神だからですよ! 俺のケツ毛まで愛してくれると言ったのはお妙さんだけだ!」
 と言った。怪しげな新興宗教にハマるのはこういうタイプかなと思ったし、お妙さんにしても何故会話がそんな方向にいったのかと少しだけ怖くなった。
「わあ、そうだったんですね」
 やんわりと笑い、そのままの表情で、頭を十五度傾けながらそそくさと店を出た。
 この甘味処にはしばらく近づかないようにしよう。スーパーにもなるべく行かないようにしよう。
 ──江戸の町には色んな人がいますから、秋乃さんも気をつけて下さいね。
 この言葉は正しい。こと警察官に対してはそうだ。

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