08

 しかしそうでもなかった。
 翌朝、寝床に入る前はこしらえていなかった傷をつけていたことに、別の意味で泣きたくなるほど屁怒絽さんに心配されたものの、表情は晴れやかだったのか深くは問われず、「何かいいことでもありましたか」とまで言われた。そうかしらと浮足立ちながら支度を整え、買い物に付き合ってくれるという坂田さんと合流を果たしたまではよかった。「じゃあ行くか」と肩で風を切って江戸の町を歩く坂田さんに、仄かに胸を温めながら続いたまではよかったのだ。しかしそのうち、雲行きが怪しくなってきた。ショッピングバッグを片手に若い娘がぞろぞろ出てくるような店を、坂田さんは素通りして奥へ奥へと進んでいく。そうして、よくいえば趣のあるセレクトショップ、悪くいえば建物も経営も傾いていそうな古着屋の暖簾をくぐっていったのだった。ちょっとおかしいな、と思う。
 土方さんが依頼料として「こんなに!?」と志村くんが驚くほどのお金を預けていたためだろうか、昨晩坂田さんを頼りがいのある男の人と認識してしまったせいだろうか。世話になる手前、欲を張ってはいけないと凝り固まった猜疑心を振り払わなければいけないと強く自分に念じたが、これしかないんだから安くして、とか何年通ってると思ってんだ、とか小銭をジャラつかせながら店主に言い寄る坂田さんを見ていると、白々と張りつけたような笑みしか浮かばなくなるのだった。

「最近の着物ってのは安くなったもんだなァ。うちは女モノの着物なんて買わねぇが、一式揃えてあれだけで済むとは思わなかったぜ。手持ち金ピッタリだったし、幸先良いな」
 古着屋の店主からしてみればとんだ災難だったに違いないという気持ちを、あの店主は坂田さんにとんでもない大恩があったに違いないという気持ちにすり替えて、「そうですね」とにこやかに言って荷を抱え歩いた。
「さて、今日はとりあえずこのくらいか? もう金はないが、どこか行きたいところがあったらちゃんと言えよ」
「はい、ありがとうございます」
 着物選びはほとんど坂田さんの独断によって決まったもので口を挟む隙はなかったが、紺色の江戸小紋に白地の帯の、楚々とした組み合わせは嫌いじゃない。人に、それも男の人に着物を選んでもらうという行為は妙に気恥ずかしく、経緯がどうであれ大切に着ようと心に決めたものだが、そもそも大前提として立ちふさがる問題がまだあることを打ち明けておらず、内心まだ困っている。
 私の表情の差異に早くも心得ができたのだろうか。坂田さんは胡乱な目付きでこちらを眺めた。
「おたく、顔と台詞のパーツ間違えてるよ。めんどくせぇから言えって早く」
「ごめんなさい。その、実は──着物が」
「何? まさか気に入らないとか言っちゃう? ……そりゃあちょっと食費や家賃に回したらああなっちまったが、今時のチャラチャラした着物より、こう、清純派! って感じのが男心を擽ってだな」
「いえ、着物のそのものについてじゃなくて、そもそも私──出来なくて」
「出来ない? 何が出来ないって?」
 坂田さんが首を傾げ、私はそっと視線を逸らした。
「……その、着付けが」
 母が娘だった時分、そのまた母に仕立ててもらった振袖は娘の私にも引き継がれ、二十歳の成人式を晴れやかに彩った。赤地に雲取り、辻ヶ花を組み合わせた振袖はたいそう華やかで、袖の絞りは色調を変え、振れば日暮れの空があるようだった。
 成人式だけでは勿体ないと正月の度にでも着ることが出来ればよいのだが、いかんせん着つけ代にはお金が掛かるし身内で着つけが出来る人間もいない。しゃなりしゃなりと町を歩く着物姿の婦人を見ては、「まぁすてき。私も着つけが出来ればなぁ」と考えても、その「なぁ」にははじめから達成する気のない諦めが含まれていたのだった。
 ようするに着物とは、成人式後は葬式くらいしか着る機会がない代物であって。

「おや銀時、家賃を納めにきたのかい」
「今月分はもう払っただろババア」
 薄暗い店内。並ぶ酒瓶。壁に沁みこんだ紫煙の香り。
 昼中、万事屋銀ちゃんの一階に位置するスナックお登勢に暖簾はかかっていなかったが、坂田さんが勝手知ったる風に引き戸を開けると、内にいた女性もまた勝手知ったる風に出迎えてまずは軽口を叩いた。日本髪に着物姿の、老齢の女性である。着物から覗く首筋や手の甲はからからに乾いて、おばあちゃん、といった様相だが、顔は几帳面に化粧を施している。けだるげに目を伏せると青のアイシャドウが瞼に広がり、煙草をくわえた唇は赤く色づいていた。
「こんにちは」
 なんとなく厳しそうな印象を受けたので、カウンター席を陣取った坂田さんから一歩引いたところで、おそるおそる、声を掛けた。
「ん? なんだい、この子は。あんたまた妙なもん拾ってきたんじゃないだろうね」
 訝しげに女が言うと、
「妙なもん拾ってくるのはテメェも同じだろ。この子は屁怒絽んところで世話になってる、俺の依頼人」
 と坂田さんが答えてこちらに目をやったので、そのまま頭を下げた。
「鳴海秋乃と申します。よろしくお願いします」
「……おやおやこれはご丁寧に。あたしはこの店の店主のお登勢ってんだ。突っ立ってないで、まずは座りな。開店前だが茶くらい出してやるよ」
 勧められるがままに坂田さんの隣に腰掛けると、緊張に思わず顎を引いて、雑多に並ぶ酒瓶を眺めた。酒に詳しいわけではないが、どこかで見たことのあるようなないようなといったラベルばかり。その中で坂田さんはどこで用意したのか、イチゴ牛乳をパックのまま勝手に一人でやっていたのだった。なんなんだろう、とまた一歩内心で引きながら、親しい間柄なんだろう、ということは伝わってきた。
 とそんなことをちくとも出さないよう大人しくしていると、店の奥からまた別の女性……女性? がやってきた。おかっぱ頭に猫耳と可愛らしいパーツを備えているが、女性? となってしまったのは、天人であり、おっさん然とした顔をしていたということもありで、初対面相手に酷い偏見をしてしまったと、屁怒絽さんのことを思い出して胸苦しい気持ちになった。
「ナンダイ、コイツハ。オ前マタ妙ナモン拾ッテキタンジャナイダロウナ」
しかもカタコトだった。
「もう面倒くせぇよこの下り。話聞いとけよ聞いてたんだろどうせよォ」
「いいから紹介してやればいいじゃないの。……キャサリン、この子は鳴海秋乃といって、屁怒絽のところに住み込んでる子だよ」
「アア、アノ化物ノトコ……トンダモノ好キガイタモノネ」
「おめーも化物みてぇなもんだろうが」
「およし、二人とも。まぁ、興味深いってのは確かだけど」
 お茶を置きに来たお登勢さんが、そのままじっとこちらを眺め出した。不機嫌そうな感じはまるでないが、見定めている、という感じ。こういう稼業であれば癖みたいなものだろうが、見なりでどの階層に属しているのか見当をつける技というのは、住所不定無職といった輩にはちょっとばかり辛いものがある。
「あんまり見てやるなって。取って喰われるんじゃないかって不安がるじゃねぇか」
「屁怒絽のところにいる子だっていうからどんな子かと思ってね。案外普通──と思ったが、どうもワケありにも見えるね」
「流石年の功。まァ、今日はちょっとバーさんに頼みがあってな。こいつに着付け教えてやって欲しいんだが」
 坂田さんの言葉に、お登勢さんは「着付けを?」と首を傾げた。
「……そりゃ構わないが、また珍しい依頼だねぇ」
「こっちも色々あんだよ。いつまでも洋服一枚着回すんじゃ大変だろうし、出来ればすぐにでも指南してやってくれ」
「今時着物ヒトツテメェデ着レナイナンテ、日本人トハ思エナイネ。不法入国者連レ込ンデオ登勢サンニ迷惑掛ケルンジャネーヨ」
「ぶち込まれてたヤツにだけは言われたくないんですけどォ!?」
「ギャアギャアうるさいよ二人とも!! ……ったく。じゃあアンタ、こっち来な。帯は御太鼓でいいね?」
 お登勢さんはそう言って背を向け、店の奥に設置された扉の先に消えていった。急に慌ただしくなった空気に急かされて立ちあがり、私はお登勢さんに続いてぎしぎしと床板を踏んで部屋に上がった。土間を抜けると勝手場があり、居間に続いて六畳間の畳部屋があった。畳みは色あせているがよく手入れされていて、室内全体には白粉のようないい匂いが漂っていた。おばあちゃんち、というよりも親戚の叔母の家で嗅いだことのある匂いだ。叔母は独り身だったが若い頃に看護師を勤めた稼ぎのある人で、退職後はあちこちに旅行に出かけ習い事をしてと、活力のある暮らしをしていた。僅かに言葉を交わしたばかりだがお登勢さんにもそういった面を感じ、独り身かとも思ったが、「呑んべえ」の掛け軸と共に刀と十手が添えられた床の間の隣には、仏壇があった。
 荷解きの手を休めて思わず見入ると、
「旦那だよ」
 とお登勢さんが言った。
「もう何十年前になるかねぇ。攘夷戦争で死んじまったから、以来独り身ってわけさ。せっかくだから、挨拶でもしてやってくれないかい。たまには若い娘の顔を拝みたいだろうからさ」
 言われるがまま、手を合わせた。樒の葉は瑞々しく、菊は鮮やかな黄色をしている。見たところ白くくすんだところもなく、何十年も大事に手入れされているように見えた。拝みながら、私は向こうで行方不明という扱いになっているのかしらとふと思う。心は最悪地点から脱し今はやれることをやろうという結論に至ったが、果たしてあちらはどうだろう。
 数年前に祖父が亡くなった時、勿論悲しかったが四十九日を過ぎれば仏壇に手を合わせることも滅多無くなった。随分と可愛がられ一緒に寝ようと何度もねだったものだが、思い返してみると十数年一緒に暮らしたわりには祖父に関する記憶があまりに少ないことが不思議だった。忘れるともなく忘れていったのだ。人はまず、亡くなった人の声から忘れていくという。忘れたくないと無理やりに頭に浮かべたあの声が本当に……祖父であるのか。
 自分の立場を忘れてはならない。父のこと、母のこと、祖父のこと、叔母のこと、友人のことの一切をこれ以上忘れてしまうと思うと、身が震える思いがした。余所の家ひとつにしろ、身近な誰かの記憶を留めさせるものに違いない。匂い、立ち振る舞い、調度品からの想起、皺の模様……。
「うちの旦那は確かにいい男だったが、何もそんな必死な顔して挨拶しなくてもいいだろう?」
 お登勢さんの声にはっとすると、思わず両手で祈るような格好になっていたことに気がついた。
「ごめんなさい。死んだ祖父のことまで思い出してしまって」
 不躾なことをしてしまったのではないかと冷や冷やしたが、お登勢さんは「そうだったのかい」と目を伏せ、口元から顎下にかけて放射状に皺を作り、微かに笑うのだった。
「それじゃあひょっとすると、あんたのじいさんがうちの旦那に、孫をよろしく頼むって言いに来たのかもしれないね」
「……おじいちゃんが?」
 聞き返すと、
「うちの旦那はね、約束したりされたりが得意なんだよ。──これも何かの縁」
 お登勢さんは少しだけ遠くを見るような目付きをして、ふうっと紫煙を吐いて空中にくゆらせた。紫煙は線香の煙を混ざり合い、雲となって溶けていく。七十代か、八十代か。世が世なら祖父と同世代として生きていたお登勢さんの言葉は、置いてきた後悔を慰めるひどく切ないものに思えた。
「そうですね」
 定型通りに微笑み、改めて仏壇に手を合わせた。自分の立場を忘れてはならない。忘れてはならないが、ここの人達はやさしいから、節度を越えに越えて甘えてしまいそうになる。久しく墓参りもしていない孫を、祖父はどんな目で見ているのだろうか。しかたのない子だ、と許してくれるだろうか。
 私がいなくなった世界で誰かが私に呼び掛けても届かないように、これも取り留めのない話だ。

 一通りの着付けを叩きこまれて腕があがらなくなる頃には、表の空気も変わり、度々キャサリンさんが「早クシロヨ」と急かしにくるなど店の方が慌ただしくなった。お忙しそうなのでこれでと帰りしな、「ただで帰るつもりじゃないだろうねェ」と引き止められてからが本番だった。
 スナックお登勢はこじんまりとした古い佇まいだったが、まァ次から次へ人の来ること。誰も彼も平日から泣き言や愚痴をお登勢さんに伝えに来てはピシャリと説教され、あるいは諭されと、一晩だけで立派なドラマが作り上げられる。それだから人手は多いに越したことないようで、雑事を言い渡された私は皿をふきふき、時折声を掛けてくるお客様に愛想笑いを返しながら、店の様子を眺めるのだった。
「奴らにとってはこんな店でも立派な寄る辺。これもかぶき町の名物のひとつでね。バーさん目当てに足しげく通う好き者が多いこと多いこと」
 坂田さんは引き続き店に残り、カウンターの隅で一杯やっていた。坂田さんに話しかけてくるお客さんも多いから、彼は彼でやはりここの常連らしい。
「それは坂田さんも、ということですか」
 聞き返すと、
「俺ァバーさんの説教なんか聞きたくねーよ。ことあるごとに家賃だツケだって、うるさくてかなわねぇ」
 と言われた。それは坂田さんが悪いんじゃ、と思いながらも口には出さず黙々と皿を拭いた。
 食器が重なる音、液体が揺れる音、衣擦れ、からからと響く笑い声。

 日付が変わる前にひと段落ついたからとお疲れ様を言われ、お登勢さんから給金を頂いた。そんなつもりじゃなかったのだと受取りを渋っても、「いいからとっておきな」と半ば押し付けられるようにして渡され、ついでに着付けの指南が記された紙まで懐に入れられた。くしゃりと顔全体を歪める笑い方は、人の世話をすることが道楽だという人のものだった。
「金が必要になったらうちで働くといい。着付けはまだまだだが、仕事はそつなくこなしそうじゃないかい」
「あの猫耳と比べたら月と鼈。客入りがよくなったら仲介料寄越せよバーさん」
「じゃあまずは、あんたの今日のツケから引いてくかね。昼間から居座って、どれだけ飲み食いしたと思ってんだい」
「……げ。気づいてたのかよ」
「誰の店だと思ってんだい! 当たり前だろう」
 お登勢さんの一喝の後、どちらともなく笑いだした二人につられてつい笑ってしまった。笑いながら、ひょっとすると坂田さんは、着物も着付けも就職先も、またひとつの寄る辺も手引きしてくれたのではないかと思った。
 ──幸先き良いな。
 坂田さんの言葉を思い返し、確かにそうかも、と少し楽しい気持ちがした。どうしたって向こう側の声は届かないから、私にとっての寄る辺は今、この人を真ん中にしたその周りということで違いない。

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