07

 配達に出掛けた屁怒絽さんを見送ってしばらく経った頃、坂田さんがやってきた。
「ほんとにここにいたんだな」
 そう言って片手に下げていた回覧板を突き出して、
「一応お隣さんってことになるからね。はいこれ、回覧板」
 と手渡された。そこで帰るかと思いきや、坂田さんはよっこらしょと履物を脱いで主のいない家に上がり込んだ。
「いやあ、回覧板って回したと思うとすぐに戻ってくるから、ちょっとしたホラーじゃん? しかも毎回毎回回す場所が化物屋敷だから、肝がいくつあっても足んねーよっていうか。だからさ、秋乃ちゃんがいて助かったよ〜。受付嬢がいるといないのとで大違いだからね」
 注いだきりそのままにしていたお茶をゴクゴクと飲まれた。
「あー、やっぱ喉が渇いてる時にはぬるい茶が一番だな。知ってる? 三杯の茶の話。鷹狩りの帰り、寺に立ち寄り茶を所望した秀吉に、寺の小僧ははじめぬるい茶を椀に並々と。二杯目は少し熱めに半分ほど。三杯目は小さな椀に熱い茶を……って」
「……少し熱めのお茶、お淹れしましょうか?」
 聞くと、
「いや、茶はもういいや」
 と言ってあっさり切り上げた。それから首を少しだけ傾げて顔を覗きこみ、
「それより俺ァ、受付嬢の笑顔を所望したいもんだけど」
 と薄らと笑った。
「……まァ酷い顔しちゃって」

 あれから三日。この世界に放り出されてから、十日経った。
 ファミレスで長谷川さんと再会出来たことは願い通り。こちらが聞きたいと申し出たかぶき町の公園での話をして、長谷川さんも快くそれに応えてくれたから、まずはめでたしといったところだ。
 そしてまた途方に暮れている。
 三日前のあの日、午前四時頃。公園で寝起きしていた長谷川さんがふいに目覚め、目覚めついでに一服しに公園の中ほどまで歩いていたところ、倒れている私を見つけたとのことだった。見たところよく眠っているだけで命に別状があるという様子ではなく、とはいえそのままにしておくには不用心だと隅の方に運んで寝かせた。そのうちに私が起き出して、それからは知っての通り。それだけである。
 言ってしまえば収穫はゼロで、この心境を加味すれば、今後の目的を失いマイナスといってもいいくらいだった。これら一連、自らが蒔いた種だというのになかなかに馬鹿らしい。土方さんにはいずれ報告し改めて礼をしなければと思うが、なにかぽっかりと穴があいてしまったようで、というか、もともとあいていた穴を無理に塞いでみたけど、所詮その場しのぎはその場しのぎだったというか、寒いし辺りは霧掛かっているしで、ここ数日また動き出せずにいる。
「これはたとえば、〈一面の霧の中に放り出された人〉の話なんですけど」
 唐突に言うと、坂田さんは表情を消して私を見た。
「行きたい場所があるのに前も後ろもわからない。どこにもいけず足踏みばかりしているうち、心細いし、寒いしでどんどん辛くなってくるんです。誰か助けてと思うのに誰もいない。そのうちその人はどこにもいかれないまま」
 死んでしまうのでしょうか。
 自分で喋っていてなぜだがその場に踞りたくなってしまったが、しかしそうせずにすくと立ち、お茶を淹れに勝手場に出た。屁怒絽さんが来客用にと置いている湯呑みはいつまでも真新しく、少し埃がかっていたから、濯いでからにした。戻ると、坂田さんは何を見つめるでもなく視線を投げ出してぼうっとしていたけれど、新しい湯呑みをコンと目の前に置くと、ぼそりと呟いた。
「そりゃあ助からねーな。その〈一面の霧の中に放り出されたヤツ〉は誰かを求めても誰も呼んでねぇ。思っているだけで望みが叶うなら、俺は今頃三食デザート付きでパフェ食ってるね」
 私はゆっくりと頷き、そのまま俯いた。心の中では他人事でしょうよ、と怒りに似た気持ちがつきあげていた。一方で、じつは自分が酷く情けなかった。
 私は自身が抱える複雑な事情を説明していない。まるきり馬鹿げた話で信じられないので、アナタ達だってそうでしょう? と。これは寝入りばなにちらつく影に過ぎないとうそぶき、ふてぶてしく視界が晴れるのを待つだけの子供の言うことなど耳も貸せない。

 お茶を少しだけ啜って、坂田さんは万事屋へ帰って行った。見送りがてら表の様子を見ると曇り空が広がっていて、白い微光が江戸の町々をゆるやかに照らしていた。そのうち屁怒絽さんも戻り、夕食の時間になった。今日は里芋を煮ようと思うんですよ、と屁怒絽さんが言ったので皮を剥くのを少し手伝い、居間でテレビを見て、二十一時には布団を敷いた。
 花屋を営む屁怒絽さんの朝は早く、毎朝、四時に起床してあれこれと動いている。立場上いつまでも惰眠を貪るのも居心地悪く、手伝いを申し出たこともあるが、お客様なんですからとあの顔で止められて以来それに従って朝食の時間まで布団に入っているのだった。といっても昼間からろくに動かずにいると、なかなか夜に眠ることが出来ない。物音で一度目覚める朝にしろ、夜だって大抵は浅い眠りで、通りから微かに聞こえる喧騒を耳に寝返りだけを重ねる。繰り返し繰り返し。かつての幸福を思いながら。
 昼間坂田さんと交わした言葉がゆるゆると頭を巡るばかりで睡魔は一向に訪れず、今夜はとくに眠れないと見当をつけ起き上がると、丑三つ時に差し掛かっていた。丑三つ時といえば怪異と出逢う時間と相場が決まっていて、一人暮らしをしていた頃は用を足すのさえ躊躇いが生まれたものだが、既に怪異に浸っている身としては、ふと自分の存在に一石を投じるにはお誂え向きの時間なのではと奇妙なものを覚えてきた。しばらく考え込んだが、やがてあの公園へ行ってみようという結論に達し、そっと布団を抜け出した。
 公園までの道すがら、深夜のかぶき町の通りは拍子抜けするほど明るかった。こじんまりとした居酒屋に、スナック、中華料理店、いかがわしい夜の店。辺りは祭り囃子をうたうように騒がしく、ネオンに誘われた酔い客が、あちらにふらふらこちらにふらふらと店々を飛び回っていた。祭り囃子だ、と思ったのは、江戸情緒残る町並みと揃いの衣装を人々が纏っていたからだ。舞台装置の中で人々の怒鳴り、唸り、笑いが、星雲のように渦巻いて反響するのを聞くともなしに聞いていると、鳥獣戯画、という言葉が頭に浮かんだ。
 絵巻を眺めてしばらくすると、灯りはちらほら、と小さくなり、公園の外周に触れる頃には月明かりばかりとなっていた。一度園内に足を踏み入れるといっそうそれは顕著なものとなり、暗がりの中で黒い木々が唸り葉が囁く音というのは、夜の不思議をいっそう深くするもので、しばらく目を瞑り開くと、幼い頃に抜けだした濃緑の中に居るのだと、五感が錯覚しはじめるのだった。
 ──夜半に家を抜け出すと、目ざとくシロまで起きてきて、通りを歩いても、森の中に入り込んでも、くるくるとまわりながら常に自分について歩いた。
 昼間はぼさぼさとした塊に過ぎないのに、暗がりを跳ねまわる真白な毛並みは、月の光を受けて銀色に輝く。月の獣を供に歩けば自分が遠い星から降り立った使者のようで、ある種の気持ちよさを味わった覚えがある。
 しかし今はお供のシロもいなければ、使者でもない。〈一面の霧の中に放り出された子供〉に過ぎないのなら、味わうものも苦みでしかない。

 風が出て冷え込んでくると、何やってるんだか、という気持ちが強くなってきた。園内でいくら郷愁に浸っても出掛けに感じた夜の不思議は失せ、時折ねっとりとした視線を感じるようになると、早く屁怒絽さんの家に戻らなければと速足になった。
 前方の暗がりから二人組の影が見えても、最初はちょっと怖いな、と極力目をあわさずにいようと思うだけだった。しかしすれ違う手前に二人組の歩みがゆっくりとしたものになって、絡まれると察した次の瞬間、それが軽視であったと気付かされた。
 すれ違い様、二人組は声を発する事もなく私を拘束すると、口を塞いで無理やりに暗がりへ身体を押し込めてきた。まずいと思った時にはもう手遅れで、あっという間に引き倒されて身動きがとれなくなった。都内にいた頃にも妙な人間はどこにでもいたもので、痴漢や変質者に遭遇したこともあったが、ここまで直接的な行動をとってくる輩というのは、少なくとも私の生活ではフィクションの一部に過ぎなかった。だから漠然と、酷い目に遭う、と理解していても身体は震え声も出ず、目を見開いて、爛々と目を光らせる彼らの顔を視界に入れることしか出来なかった。
「なんだ、おとなしいな」
 腕を抑えつけていた男の一人が言うと、
「こんな時間に一人でふらふらしてるぐらいなんだから、期待してたんじゃないか? まァでも、一発殴っとくか」
 と、いとも容易く両頬を平手打ちされた。視界は一気に歪んで涙が浮かび、シャツの下から男の手が這い上がるのを感じると、全身が総毛立って小さく悲鳴が漏れた。それでも手の動きは止まず男の息遣いが大きくなるにつれて絶望的な気持ちになり、ひたすら従順になれなければ命すら奪われてしまうのではないかと思えた。ただただ怖かった。
 どうしていいかわからないからと薄ら死を考え、怪異を頼り、その癖酷く現実的な身の危険が迫ると助かることを考える自分が馬鹿みたいだ。でも、だって、わからないんだもの、しょうがないじゃん。余りにも惨めで、余りにもやりきれない。こんな馬鹿げたこと、なんで私が、誰が助けてくれるっていうの、やだ、もう、こんな馬鹿みたいな話。
「……やだ。やだよぅ」
 言葉が漏れ出ると、ぼろぼろぼろと一緒に涙が溢れた。いよいよ視界は薄れて男がどんな顔をしているかもわからなくなり、無遠慮に這いまわる手にいやいやをして暴れるとどこかがかっと熱を孕み、次いで激痛が走った。空気がピリピリと棘のあるものに切り替わり、聞こえてくる声も荒立った調子が目立ち始めた。口を塞げ、場所を変えるか、といったやり取りが聞こえてくる。どちらにせよそうなれば終わりだ、という意識が明確にあった。もとより唯の居候に過ぎず籍も身寄りもない身、いなくなったところで探してくれる人など誰もいない。居ても居なくても変わらない。けれど、誰か。怖い。誰も。誰も助けてくれない。けど、誰か。誰か。
「……たすけて、だれか──」
「どーもォ、万事屋でーす」
 聞き覚えのある声が唐突に、はっきりと耳に届いた。まるで今の今まで会話をしていたみたくごく自然に。
 え、と息を止めて刹那静けさを耳にすると、途端に小さな爆発が生じて数十キロはある男の体が吹っ飛んでいった。私は目を伏せ、歯を食いしばった。果たして何が起きているというのだろう。「おいッ」と慌てて叫ぶ声がしたと思えばまたそれも彼方に過ぎ去り、落雷──衝撃音が──辺りの木々をざわめかせた。呆気にとられて、目を瞑ったまま、しばらくの間身動きがとれなかった。やがて「立てるか」と落ち着き払って声を掛けられたので、何も考えずに差し出された手をとった。引く力に身を任せてのろのろ起き上がり、ゆっくりと目を開くと、ようやく誰の声だったか確かめることができた。
「──坂田、さん?」
 月の光を受けて、着流しから覗く皮膚は銀色に光っている。昼のうちは青みがかって見えた着物は白々としていたが、何よりも特徴的な白の髪は、枝々の影に覆われて黒雲のようにぼんやりと揺らいでいた。じっとこちらを見下ろす目付きは昨日のものとも昼のものとも違う色をしていて、その赤褐色を見ていると、どうしてだか自分が今どこにいるのかわからなくなった。
 そのうちどちらともなく溜め息をついて、坂田さんはかったるそうに頭をかいた。
「若い女がこんな真夜中に何を出歩いてるかね。そこのゲス野郎じゃァないが、期待してたんじゃないかと思われても無理ねぇな」
 坂田さんはそう言ってから黙った。風が少し強くなってきて、白髪が狼煙のように立ちあがり、着流しの袖がばたばたと踊っていた。
 「そういえば」坂田さんは微かに笑い、その笑みを張りつけたままで「〈一面の霧の中に放り出されたヤツ〉の話があったよな」と続けた。
「これが強情な奴で、迷子の癖していつまでも意地を張ってる。べそをかく声が聞こえるんだがそれだけで、どこにいるのかさっぱりだった。……けど、ようやく助けを呼ぶ声が聞こえてきてな。しかも誰でもいいって叫んでんだ。それなら万事屋が来たって文句はねーよな」
 アンタもそう思うだろ、と坂田さんがもう一度言った。私は顔が赤らむのを感じながら俯いて、そうですね、と呟いた。
「助けてって、たった四文字。泣くくらいなら言えばよかったのに」
「……なーんにも知らないガキっていうのはそういうもんさ。で、そんなガキのケツ拭いて面倒を見るのは大人の役目だ」
「ええ……」
 ガキ。そう、確かに私はガキだった。それは年齢が、ということではない。この世界に対してのガキということだ。この世界のものの道理を理解するには何もかも足りず、だのに自尊心だけは一人前に心の内ばかりで喚き散らし、その事を恥じて貝のように沈黙している。しかし、それで? 無知であることを自覚しているのなら、海は何故広いのかと父に問ういとけない子供のように、脈々と続く仕組みの一部に自ら入り込まなければならない。それが出来なければ、取り残されて朽ちるだけだ。そもそも、何故己がここにいるのかがわからない、後ろめたい胸苦しさなどこのかぶき町以前にも覚えがある感情だったではないか。それはたとえば<二十歳そこそこを過ぎた時の漠然とした不安>として己が身心に沁みこむものとしてあるのだった。
「坂田さん。私の依頼、受けていただけるんですか」
 問いかけると、坂田さんは「いいや」と小さく笑った。
「もう受けてるさ。面倒事を手伝ってやれって、ポリ公からたんまり前金を頂いてな」
「……そうでしたね」
 まるきり前向きにはなれなかったが、次に何をしようという考えは不思議なほど浮かぶようになった。まず、服を買わなければならない。どこに身を置くかも、どんな職に身をやつすのかも考えなければいけない。知らないことは山ほどだ。けれど飄々と歩く坂田さんの背中を見ていると、これでもう大丈夫だと素直に思うのだった。

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