箱庭の空
1


「学校はどうだった?」
母親の口からは今日も決まった言葉しか紡がれない。
「ああ、問題ないよ母さん」
俺も決められた返答をすると、彼女は随分と安心した様子で優しく微笑んだ。何百回と繰り返された同じやり取りを、この人は何度だって初めてのものとして丁寧に編み上げていく。
「そう、安心した。次の試験も頑張るのよ」
「もちろん」
「デューイ。あなたは私の自慢の息子よ」
そして俺はこの次に言われる言葉を知っている。彼女は病室の窓の向こう、はらはらと落ちていく葉の様子を少し見つめてから、俺の方へ顔を向き直して言った。
「あなたが頑張ってくれたら、きっとお父さんも喜ぶわ」
「…」
今度は俺が先ほどの母と同じように窓の向こうに目を向ける。この瞬間に視線を合わせながら答えることが、どうしても俺は、いつもできない。
風に吹かれ枝の先から次々と手を離していく枯葉を見ていた。それでも振り落とされない葉の何枚かを見ながら思う。悪あがきはよしてさっさとその手を離せよ、と。
「そうだね」
短い言葉に母親は笑う。「お父さんの話になるといつも素っ気無いんだから」と言って、俺の腕をふわりと撫でた。
「お父さん帰ってきたら、みんなでご馳走食べましょうね」
「ああ、そうしよう」
笑顔を貼り付けて答える。紙のように薄っぺらな俺の言葉全てを母親は大事に受け取り、そして幸せそうに微笑んだ。
「じゃあ俺、もう行くよ。またね母さん」
「ええ、またねデューイ」

あの日からずっと、母親の世界は時が止まったままだ。

市で一番大きな総合病院に、俺の母は何年も前から入院している。退院の目処はいまだ立たない。
彼女が身を置いているのは「精神内科」である。
母の心の一部が壊れて数年。その日から彼女の時は一切進まなくなった。同じ日を何度も繰り返し何度もなぞっている。
わけもなく沈んでいく気持ちが鬱陶しく、廊下で1人舌打ちをした。俺は母との面会がたまらなく嫌いだった。ここに足を運ばなくて良くなる日は一体いつ来るのだろう。とっととしてくれよ、と思う。

院内は広く、ここから中庭に辿り着くまでには十分ほどもかかる。足早に駆けていく看護師と何度かすれ違いながら、俺はようやっと中庭に続くドアを開けた。
ずいぶんと広いこの場所には沢山の花が咲いた花壇や大きな噴水、緩やかに山を描いた芝生広場などがある。そして手前側、生い茂る木々の脇に隠れるようにしてガラス張りの喫煙室が設置されていた。
これだけ広い面積にも関わらず、なぜこの場所はこうも狭っ苦しく設計されているのか。ジャケットの内ポケットの中に手を入れながらそんなことを考えた。
煙たげな部屋に入り煙草に火をつけてから、外の様子を眺める。老人の車椅子を押す女や、ベンチに座り空を見上げる青年、木陰で1人本を読む少女。その誰もが緩やかな憂鬱を纏っているように見えて俺は仕方ない。この、うまく言い表せられない湿り気のようなものはいつだってこの場所に留まっている。だから俺はこの場所を好きになれない。よく晴れた青空も新緑の草木も、中庭を彩る色彩はこんなにも鮮やかなのに。不思議だ。それでも外の空気とは絶対的に何かが違うのだ。
タバコの火を消して喫煙室を後にする。中庭から見上げる青空は四角く区切られ、まるで額縁に収められた絵のようだった。四隅に限りのある空を見つめ俺は目を細める。
「飛び出したい」と、きっと思うのだろう。もしも俺が老人や青年、少女の立場だったなら。

中庭を出ようとした時、扉のそばで一人の少年と体がぶつかった。視界の隅で赤い髪が揺れる。
ぶつかった衝撃は大したものではなかったが、華奢な少年はよろめきバランスを崩した。倒れそうになる瞬間にその体を抱きとめる。やけに筋が浮き上がった首元に目が止まり、そのまま数秒間、俺は視線を動かせなかった。

「すまない。なんともないか?」
尋ねると少年はこくこくと二回頷いた。
「良かった。この通り図体ばかりデカくてね。たまにこういう事があるんだ」
笑顔を貼り付けて言うと、赤髪の少年は少しの間俺を見つめて、それから柔らかく笑った。
「ううん。支えてくれてありがとう」
少年は小さく頭を下げ、それから中庭の奥へと消えていった。肩にかけた紺色のカーディガンが、ふわりと揺れる。細い体は重力に縛られず、まるでたゆたうように歩く。後ろ姿をしばらく見つめながら、羽のように軽い体だったなと思い出す。彼はここの患者なのだろうか。ぼんやり考えながら、俺もその場を後にした。

それが彼との、初めての出会いだった。







仕事は別段楽しさもやりがいもない。親父の跡を継ぐことを当たり前とし信じて疑わなかった母親に、背を押され続けた結果というだけだ。いつしか自分自身もそれが自然なのだと思い、疑問を持つこともなくなっていた。
俺の職種は検事だ。親父はできた人だったから、その後を追うのは大変だった。文字通り俺は勉強漬けの毎日を送っていた。寡黙だった親父が時たまくれる「がんばってるな」という言葉はなにより嬉しく、母親からの応援よりもそれは胸に響いた。この人と同じ仕事に就けたらと、ずいぶん子供らしい志を持っていたこともあったなと思う。

今の俺を見たら親父はどう思うのだろう。怒るだろうか。嘆くだろうか。脳裏に思い描いてみるが、無表情な親父は想像の中でもその顔を崩さなかった。
親父が今の俺の姿を見ることは決して叶わない。残念に思う。どんな風にその顔が歪むのか少しだけ興味があったからだ。
もし一瞬でもその顔が歪むなら、俺はその瞬間に、あなたに贈ってやりたい言葉がある。
この間抜け野郎、と。

「ま、待ってくれ、頼む、撃たないでくれ」
銃口を向けた先で男が命乞いをする。今まで何度か見てきたこの光景に大した感情は湧かず、天を仰ぎながらため息をこぼした。
「うん、じゃあ質問だ。例えばコソ泥が警察に「待て」と言われて、待つと思うか?」
「お願いだ、頼む、銃をおろしてくれ」
「そう、待つわけないんだよ。お前が何を言っても意味がないのと同じなんだ。わかるだろ?」
「頼む…か、家族がいるんだ」
男の頬に涙が一筋流れる。興ざめというのはこういうことを言うのだろう。男の言動一つ一つに、無感情を通り越して俺は苛立ちさえ覚えた。
かつて喫茶店として営業していたこの場所は、今はもう見る影もない。荒れ果てた建物内は地元のギャングの溜まり場として使われているようだ。割れた照明や壊れたイスの山、壁中に描かれたわけのわからないペイント。品のかけらもない。
「口外したりなんかしない。誓うよ、絶対しない」
「そんなことはどちらでもいい」
「本当だ。本当に言わない。信じてくれ」
「…ああわかった。そんなに言うなら信じるよ。お前は誰にも言わない。…これで満足したか?」
額に銃口の先端をつけると、男はいよいよ震えながら泣き出した。
「…み、見てないよ、俺は…何も見てない…あ、あんたとランスキーが繋がってるなんて、知らないよ…知らないから…」
「うん。そうだな。…もういいか?この後も予定が立て込んでるんだ」
「お願いだよ検事さん、う、撃たないで…」
「ああわかった。それじゃあ、元気で」
銃声が一度鳴り、死体になった男が床に転がる。俺は拳銃をしまいながら無線機のスイッチを入れた。
「こちら◯◯区四番街。××店の店内奥にて男性1人の遺体を確認。ーーー……」

後日、遺体となって見つかった男はマフィアの下っ端であることがわかった。一味内での仲間割れ、もしくは小さな抗争の中で死んだのだろうと、それは嘘のようにぞんざいに片付けられた。
後に、この地区を管轄する警察長に俺は礼を言われる。
「きみみたいな優秀な者がこの地区にもいてくれたらなぁ。前期も検挙率は群を抜いていたそうだねデューイくん」
「いえ、そんな。…ありがとうございます」
頭を丁寧に下げながら、お前ら全員馬鹿にもほどがあるだろう、と思う。
後日、地元の新聞に小さく俺の名が載った。「街のヒーロー」と称された記事には俺の簡単な経歴と勤務中の写真が添えられていた。



ランスキーとのことについて説明しよう。
彼はマフィアの端くれだ。カポネファミリーということさら大きなマフィア一家は俺たちの間でも有名である。巷で起こる抗争や事件の大抵にこの一味が関与している。
一味の人員構成は大体なら俺たちも把握しているが、暇な同僚たちはその一人一人の風貌や性格、生い立ちに至るまで根も葉もない噂と共に話題のネタにしてよく盛り上がっていた。
同僚たちのどうでもいい話題の中に、一つだけ有益だと思える情報があった。「ランスキーという男がひどく金に困っている」という情報だ。
わけもなくマフィアなんて職に就く者もいないだろうから、なにか必要に迫られて彼は今の場所に身を置いているのだろう。
死んだ両親の莫大な借金を肩代わりしているだとか、惚れた女に騙されただとか、シャブ中だとかアル中だとか。様々な憶測が同僚たちの間で飛び交っていたが、理由については俺はどうでも良かった。
この男は利用価値があるかもしれない、と俺は踏んだ。金に困っている人間というのは、弱く、けれどしぶとくて、薄汚い。そういう人間こそ価値があり、長持ちすると俺は知っている。

ある日、昔から根を回していた麻薬密売人の一人が良い報せを運んでくれた。
「ランスキーって言ったか?検事さんが嗅ぎ回ってる男は」
「ああ。…嗅ぎ回ってるって随分な言い方だな、俺が犬みたいじゃないか。あと検事と呼ぶなと言ってるだろう」
密売人の男は引き笑いしながら肩を揺すった。この男の笑い方は、いつ見ても不気味だと思う。
「あ〜わりぃわりぃ。今日はなんて呼ぶかな…フランクとかどうだ」
「なんでもいい。ランスキーの話を続けて」
「そうそう、ランスキーがな、今週末◯◯の港に来るぞ」
「どうして」
「麻薬取引だよ。受取人として来るんだろ。昨日うちの客がよぉ、教えてくれたんだよ」
「そうか、わかった」
男は片方の手のひらを上にし、俺の顔の前でひらひらと揺らしてみせた。
「それじゃあ、けん…じゃなかった、フランクさん。いつものやつ頼むよ」
黄ばんだ歯を見せながら男は笑う。俺はカバンの中から袋を一つ取り出し、それを男に渡した。
「うおお、大漁だな。どこで拾ってきたんだよ」
「さあ…忘れたな。はっきり言って見飽きたよ、俺には無用の長物だ」
「ひゃはは、大概頭がおかしいな。これで札束がどれだけ動くと思ってんだ」
「知らない、興味もない。じゃあ」
事件現場や尋問の最中でそれを手に入れるのは容易い。その粉に群がる連中はさながら、路地裏のネズミの死体に湧く蛆虫のようだといつも思う。こんなものに大金をはたき、人生を棒にふるほどのめり込む奴らの気が知れない。狂っていると思う。
密売人の男の元を去ろうと背を向けたところで、男は薄気味の悪い笑い声と共に言った。
「あんたも根っからの悪人だよなぁ、マフィアを利用する気か?あんまりいじめてやるなよ」
「…ああ」
適当な相槌を打ってその場を後にする。
この世に善人も悪人もいやしない。いるのは馬鹿と、馬鹿を利用して生きている奴だけだ。



週末、例の港にランスキーは現れた。男の言っていた通り麻薬の取引をしているようだ。
重厚なケースを持った男がそれを開き、ランスキーに中身を見せている。ランスキーはその中身をじっと見つめ、一度頷いてから男に金を渡していた。
取引の時間はあっという間だった。ランスキーは振り返ることもなく、車のキーを出しながら足早に歩く。
物陰に身を潜めていた俺は足音を立てないようにしてランスキーの背後へ近づいた。

「さて、振り返らないで聞いてくれるか」
ランスキーのうなじに銃口を当てて囁く。ランスキーは瞬時にホルスターに手を掛けたが、俺が銃を更に強く押し付けたことでその手を止めた。
「…誰だ」
冷静な声だ。ずいぶん肝が据わっている。外見は俺より若そうに見えるが、おそらく多くの修羅場を潜り抜けてきたのだろう。狼狽えることのない彼に俺は少し好感を持った。
「お前の質問に答える前に交渉してもいいかな。必ず報酬は払うから、今後俺が困った時には協力してほしいんだ」
「…それだけじゃ、わからない」
「情報を提供してくれるだけでいい。職業柄たくさん必要なんだ。お前らみたいな連中の内輪の情報が」
「…警察か」
「金に困ってるって聞いたよランスキー。利害が一致してると思うんだが。どうかな」
「…」
「頷いてくれるなら早速払おう。お近づきの印に」
そこまで言うと、それまで微動だにしなかったランスキーがほんの少しだけ首をこちらに向けた。
「…いくらだ」
「今手元に5000ドルある。…少しでも足しになればいいが」
ランスキーは数秒黙った後、前を向いたまま言った。
「わかった…お前に協力する」
彼の両腕がきちんと下に降ろされていることを確認する。俺の隙をついて銃撃するという気はないようだ。彼のうなじから俺は拳銃を離した。
「協力ありがとう。よろしく」
振り向く彼に笑顔で告げる。ランスキーはいかにも胸糞が悪いと言った顔をしていたが、なにか抗議を申し立ててくることはなかった。
現金を裸のまま渡すと、乱暴に掴んでベストのポケットにねじ込む。彼の所作は簡素でとても雑だ。わかりやすくていい。
「俺の名をどこかで出したら殺す」
「はは、お互い様だな。俺のことも黙っててくれると助かる」
「見合った額を必ず毎回用意しろ」
「安心してくれ。お前の助けになれるよう努めるさ」
「…」
ランスキーは一度だけ視線を足元に落としてから、再度俺を睨んだ。
「…名乗れ」
「検事のデューイだ。よろしくな」

こうして俺とランスキーの協定は結ばれた。
彼は実に良い働きをしてくれた。金さえ払えばいつだって俺が望むままに情報を流してくれる。思っていたよりも信頼の置ける相手だ。
ランスキーのお陰で俺の検挙率は更に伸び、仕事での地位はより確固たるものになっていった。




それから幾日。
今日は週に一度の母親の見舞いだ。嗅ぎ慣れた院内の匂いと見慣れた光景に気分が沈む。
病室の前まで辿り着きノックをすると、中から穏やかな声で「どうぞ」と母が言った。
「デューイ。学校はどうだった?」
「…ああ、問題ないよ母さん」
そしてまた、台本通りのやり取りを重ねる。果たしてこの行為に何の意味があると言うのだろう。
「そう、安心した。次の試験も頑張るのよ」
例えば俺がここで台本にはないセリフを吐いたら、この女はどうなるのだろうと考えながら、決められた相槌を俺は打つ。
「もちろん」
「デューイ。あなたは私の自慢の息子よ」
例えば「俺が学生だったのは数年も前だよ」と言ったら。
「あなたが頑張ってくれたら、お父さんも喜ぶわ」
例えば「親父はとっくのとうに死んだよ」と告げたら。
「…そうだね」
心の中で違うセリフを吐き出しながら俺は台本のページを捲る。何十回読み返しても変わらない、それはこの世で一番つまらない台本だった。

病室を後にして廊下を歩いていると、若い看護師が声をかけて来た。
「あ!…あ、あの!デューイさんですよね…!?」
「ん?…はい」
「あの…お父様が、有名な××検事長って…!」
ああ、親父の類の話か。看護師の高揚した話し方が暑苦しくて心が冷える。
「ああ、そうです。母が言ってましたか?」
若い看護師は俺の笑顔にほっとした様子で更に話を続けた。
「は、はい!あの、私の父が××検事長の大ファンで!私も小さい頃から話を聞かされていて、それで…!」
「あはは、それは光栄なことですね。ありがとうございます」
「あの、あの…!お母さんもいつも、デューイさんのこと自慢されてて、お話たくさん聞いてるんですよ。あの…えっと、お仕事頑張ってください!」
顔を紅潮させ、看護師は早口でそう言った。にこやかにお礼を言って頭を下げると、彼女もまた嬉しそうに微笑んだ。
…ああどうでもいいから、早くタバコが吸いたい。
「それじゃあ、俺はこれで」
軽く頭を下げてその場を後にする。もう一度廊下を進み始めると、今度は先ほどより年配の看護師に声をかけられてしまった。
…さっきからすこぶる鬱陶しい。さっさとタバコを吸って帰りたいのに。俺は舌打ちしたくなるのをこらえ「はい」と笑顔で向き直る。
「あの、さっきの子。聞いてたんだけど…ごめんなさいね、あんな話を。あとで私から注意しておくから」
「いえ、気にしないでください。…母にも話し相手がいるのだと思うと…ありがたいです…」
口元を押さえて眉間に皺を寄せてみる。どうやら俺はうまいこと「悲しい顔」ができていたようだ。目の前の看護師は憐れみの目でこちらを見つめている。
「…お母さんったら幸せ者ね。こんなできた息子がいてくれるんですもの」
「…そんなことは…」
俯いたままで言うと、看護師の声は更に優しく労わるようなものに変わった。
「…お父さんが亡くなられて、それだけでも大変でしょうに…。どうか無理はしないで。みんなあなたの味方よ。ね、デューイさん」
俺の顔を覗き込んで微笑む看護師の目が潤んでいる。俺は頭の中が冷え切っていくのを感じながら「…ありがとう」と、この場に一番見合うであろう顔を選んで言った。

中庭のドアを開け、すぐさま喫煙室へ向かう。一本、乱暴に取り出して強くフィルターを吸った。肺に溜まったそれをゆっくりと吐く。ほんの少しだけれど、一仕事終えた後のような安堵を、俺はようやっと得た。
見舞いの時間も、行き来に費やす時間だって本当はばかにならない。「母を見舞う息子」という役は、なかなかに維持するのが面倒くさい。正直うんざりしている。

周囲の反応はいつだって俺が思い描く通りだった。母親の周りの人間も、親父をよく知る人間も、職場の人間も。
馬鹿が群がって俺を賞賛する。疑うことすらしない彼らは、俺を助け、俺の味方をし、俺をいつでも興醒めさせるのだ。

タバコを吸い終え喫煙室を出る。囲われた空を一度だけ見上げて中庭を出ようとしたら、見覚えのある赤い髪がまたドアの向こうで揺れた。
「あ」
あの時の少年がドアを開け、俺の前に立つ。少年は何故か肩で息をしていた。どこからか走ってきたのだろうか。
「こ、こんにちは」
「ああ、こんにちは」
開いた扉を彼が支えたままだったので、自分の手で更に扉を開いて支え直してやる。体を少し引いて道を譲ったが、少年はその場から動かなかった。
「?どうぞ」
「…」
「…どうした?」
少年はまだ荒い呼吸を繰り返している。ぜえはあと音を立てながら、息を落ち着かせたいのか胸に手を当てていた。
大丈夫かと声を掛けようとした瞬間、少年の体がぐらりと倒れた。反射的に抱きとめてやるが、胸の中に収まる彼の体は、やはり驚くほど軽い。息継ぎの合間に小さな謝罪の声が聞こえたので「いいよ」とだけ答えてやった。
「…」
少年の背中を適当に撫でながら俺は余所事を考える。
今日はこの後職場に戻って、山のように積まれた書類を確認しなければならない。その後には取り調べも二件控えていたはずだ。次にタバコを吸えるのは何時間後だろう。
「…ご、ごめんなさ」
「いいよ、気にしないで。ベンチに座るか?」
「は、はぁ、は…」
少年がコクコクと頷く。細い体を支えながら一番近くのベンチに彼を座らせてやった。
「誰か呼ぶか?」
「…だ…はぁ…大丈夫…」
先ほどよりは若干落ち着いてきたのか、呼吸の音が少しなだらかになってきた。俺は隣に腰掛け、適当にその背中を撫でた。
「…ありがとう…」
そろそろ切り上げてもいい頃だろうか。少年の辛そうな笑顔に微笑み返しながら、立ち去る算段を立てようとした時だ。
「ベンジャミン!」
院内から一人の看護師がやってきて、おそらく少年の名前なのだろう、その名を一度呼んで彼の前に立った。
「もう。名前呼ばれるまで待合室で待っててっていつも言ってるのに」
見ると看護師の手には小さな紙の袋がぶら下がっている。どうやらこの少年は、処方された薬を待っていたところだったようだ。彼の名前と薬名が印字された袋を見て俺は理解した。
「…はぁ…は…へへ、ごめんね」
「やだ、苦しいの?もしかして待合室からここまで走ったわけじゃないわよね?」
「まさかぁ。走ってないよ」
ベンジャミンと言う名の少年はヘラリと笑いそう言う。
「そう…。ええと、こちらの方は?もしかしてお兄さん?」
看護師の問いに首を横に振ろうとしたが、先に答えたのは少年の方だった。
「ううん。ランスキー兄ちゃんはもっと、目がこうなってる」
両手で目尻を引っ張り上げて少年は言う。ランスキーとは彼の兄の名前らしい。瞬時に奴の顔が頭に浮かんだが別段珍しい名前でもないから、同じ名の別人だろう。看護師は「あはは」と声をあげて笑った。
「そうだった。目つきが悪いのよね、お兄さん」
「そう。それでもっと仏頂面でガサツで」
「ふふ、そんなに言ったら可哀想よ」
二人の会話を横で聞きながら、まさかな、と俺は思う。まるで奴のことを言っているように聞こえたが、そんな偶然が起こるとは到底思えない。俺はかぶりを振ってから楽しげに話す少年を盗み見た。
「じゃあ私行くわね。お騒がせしてごめんなさいね」
看護師はそう言って去り際、俺に小さく会釈をした。薬の袋を受け取った少年は看護師に「ばいばい」と手を振る。
「…」
俺はどうしてか疑念が拭えなかった。同一人物なわけがないと思うのに、無性に確かめたくなったのだ。
何か確認する方法はないかと思い、閃く。彼の手元にある薬の袋を見ればいいのだ。
ランスキーのファミリーネームなら今まで職場の資料で何度も見てきたので知っている。この少年の名前が印されている薬の袋にはきっとファミリーネームも書いてあるだろう。もしもそこに書いてある名が、奴と同じだったら。
俺は少年の手首をそっと掴んだ。
「…ずいぶん細いんだな」
彼の手首を両手でさすり語りかける。手の中にある袋の文字がもう少しで見えそうだ。俺は目を細めながらそれを注視する。ついでに、不自然にならないよう思いついたセリフを適当に羅列しておいた。
「色もこんなに白い。陶器みたいだ」
…そして書かれた名前を俺は見る。奴と同じファミリーネームがそこには書かれていた。予感は当たっていた。やはりこいつはランスキーの弟だったのだ。
なるほどそうか、奴が金に執着している理由は恐らくこの少年そのものなのだろう。全ては病弱な弟の為、きっと。
「…」
こいつを手懐けておけば後々良い手札になる、と思った。もしも今後、金だけでランスキーをゆすれなくなったとしても、この少年をダシに使ってやれば良い。
さてどうやって懐柔しようかと思考を巡らせる。顔を上げると、何故だかやけに赤面した少年と目が合った。
「…ん?」
「あっ、あの、ううん…な、なんでも…」
「…」
俺を見つめる少年の眼差しに、なんとなく、特別な熱が込められているように感じた。もしもその熱の正体が「そう」なのだとしたら、こんなに楽なことはない。
「ああ…すまない、急に」
「う、ううん」
「…触れたくなったんだ、きみに。…嫌だった?」
俺が困ったようにして尋ねれば、更にその眼差しが熱くなる。
ああどうやら間違いなさそうだ。都合がいいにも程があるな。口の端が持ち上がりそうになり、俺は少し力を入れてそれを我慢した。
水色の瞳を見つめながら指を絡める。少年の細い指は驚いたように一度跳ねたが、特に抵抗することもなく俺の指に繋がれた。
「ベンジャミンって言うんだな。前にもここで会ったの、覚えてる?」
俺の質問に少年は頭を縦に数回振った。頬はまだ、気の毒なほど紅い。
「…気になってたよ、あの時からずっと」
思いついた嘘を口から吐くと、彼がゆっくりと言葉を紡いだ。
「……ぼ、僕は」
「ん?」
「………もっと前から、気になってた…」
俺を見つめる瞳は陶酔しかけていた。目は口ほどに物を言うとはこの事だろう。ずいぶん正直な瞳だ。
「全然気づかなかったな。いつから?」
「…わ、わかんない…です」
「あはは、わからないくらい前から?」
笑ってやると彼の指先が少し動いた。俺の手の甲を微かに撫でるので、俺も応えるようにして彼の手をことさら丁寧に触ってやった。
「…どこから見てたの?」
「え?」
「俺のこと見てたってことだろ?どこから覗かれてたのかなと思って」
ほんの少し彼をからかうようにして問うと、少年は瞳をうろうろと彷徨わせ、それから小さな声で答えた。
「あそこの、待合室の席に、薬を待ってる間は僕、いつも座ってて…喫煙室がよく見えるから…」
少年が指を刺す方を見る。確かに待合室のその一角からは喫煙室の様子がよく見えそうだった。
「そうか、あそこから覗かれてたんだな俺は」
「ご、ごめんなさい」
「はは。俺がタバコ吸ってるところはどうだった?面白かった?」
少年は困った顔をした後、首を横に振って告げた。
「……かっこよかった」
やたら正直な少年に少し面食らった。打算や駆け引きのない言葉というのはやけに簡素で不恰好だ。けれど、だからこそ焼きつくように脳裏にこびりつく。
「…ありがとう、嬉しいよ」
少年の手を強く握り、瞳を見つめ返す。それは透き通る海のような色をしていて、こんなことを思うのは珍しいが、俺は純粋に綺麗だなと思った。
「この後も仕事があるから帰らなきゃ。次はいつ会えるかな」
「あ、僕は…毎週この曜日に…薬を貰いに来ている、ので…」
「そうか、じゃあ俺も来週この曜日に足を運ぶよ」
笑って言うと、少年はよほど嬉しかったのか勢いよく頷いてみせた。
「また会おうベンジャミン。楽しみにしてるよ」
そう言って俺が立ち上がると、彼も慌ててベンチから腰を上げる。
「う、うんっ。また…!」
ぎこちなく微笑んでから、彼は手の中の袋を乱暴にポケットの中にねじ込んだ。その仕草は酷似していた。あの時、俺から受け取った金をしまい込むランスキーと。

こうしてベンジャミンと俺は週に一度、互いの時間を共有することになった。


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