恋は再び 5
ワインボトルを握り締めたまま何も答えない俺に、サンジは焦れてしまったようだ。「答えろ長っ鼻」と、催促の言葉を放った。
「………」
声が、上手く出せない。喉にひっかかって苦しい。
無理やりにでも何か話そうとすれば、今懸命に引っ込めている最中の涙が、いとも簡単に溢れて落ちていってしまいそうだった。
「…泣いてんのかよ…」
溜息と共に目の前の男は言った。頭を掻きながら、ウンザリしたような顔で。
ウンザリするのはもっともだけど、もうちょっと隠せよな。ほんっとあからさまな奴だお前は。
「泣いてねーわ」
俯いたまま俺は言い返す。
泣くってのはだって、涙が目頭から溢れて頬を伝う事を言うんだ。俺の涙は流れてなどいない。ちゃんと目頭に留まっている。
適当な事言うな、なめるな馬鹿。
「声震えてるぞ」
「震えてない」
「震えてるって」
「震えてないっ!」
認める。声は、震えている。でもお前には絶対屈しない。屈してたまるか、なめるな馬鹿!
サンジは靴の裏で煙草の火を消すと「ちっ」とわざとらしく大きな音で舌打ちをした。いや苛立ってんのも分かるけどよ、だから、さっきからあからさまなんだって…。
俺もいっそのこと舌打ちしてやろうかと思っていたら、サンジが「返せよ」とワインに目配せしながら言った。
持っていたって仕方ないし、こんな代物は出来れば自分の手の中に置いておきたくないのが本音だ。
言われた通り差し出したら、突然、強い力で腕を掴まれた。
「いっ…」
たい、と言うより先に、サンジが俺の体を思い切り引き寄せて顔を近付けた。
俺は思わず、息を飲む。
「胸糞が悪いって言ったろ。とっとと質問に答えろよ」
青筋を立てるサンジをこんなに至近距離で見たのは、もしかしたら初めてかもしれない。
おっかなすぎて思わず唾を飲み込んでしまった。
…どうして、何も知らないお前に、イラつかれて舌打ちなんかされなきゃならないんだろう。
俺には悲しむ時間も、サンジが残したメモを見て感傷に浸る時間もないって言うのか。
お前が胸糞悪いのと同じように…俺だってなあ、お前にムカついてるんだよ。
「…付き合ってたんだ、俺たちは!」
目一杯の怒りを込めてサンジを睨み返す。
俺の台詞にやはりサンジは驚いたようで、そのせいか掴む腕の力が少しだけ緩むのを感じた。
「ついこの間、両思いになって!付き合う事になったんだよ!どうしてだか全然分かんねえけど、お前が俺の事好きになってくれて…俺もお前の事好きになって!そんで恋人になったんだ!」
サンジが目を見開く。その目は昔と変わらず俺の大好きな色をしているけれど、お前はその目に、今までとは全く違う映し方で俺を見ているんだろう。
「…お得意の嘘か?」
信じがたい気持ちは、よぉく分かる。
俺も逆の立場だったら、こんな風に聞き返して…こんな風にサンジを傷つけていたかもしれない。
「…嘘は一つも言ってねえ」
「…俺とお前が…付き合ってただあ?…正気かよ…」
「信じるも信じないも好きにしろ、もう答えたからいいだろ、腕離せよ」
「…何でお前と…?クソ理解不能だぜ…」
「離せよいいかげん!」
「あ、わり」
サンジはやっと俺の腕を解放し、何かを考え込むように顎に手を当てた。
もう、本当にさあ。正気かとか理解不能だとか…よくもそんな酷い言葉を並べ立てられるもんだよ。
俺は心の中で何遍も唱えた。こいつはサンジの姿をした別人。別人。別人…。
そう思い込まなきゃ、悲しみにやられてしまう。これはきっと自己防衛本能ってやつだ。
だって俺を掬い上げてくれる人は、今はもう何処にもいないんだから。自分で自分の心を守らなくちゃ。
「…って事はお前、俺の事好きなのか…へー…」
「…」
違ぇよ、俺が好きなのはお前じゃねえんだよ。俺はサンジをギロリと睨んだ。
俺が好きなのは、俺と同じ思い出をちゃんと持ってる、あのサンジなんだから。
「……俺の事カッコいいとか、キスしたいとか思っちゃってる訳?」
煙を吐き出しながらやや見下ろしがちに言ったこの男の、その台詞に、何でだか分からないが本気で腸が煮えくり返った。
「…〜っ…!!!思ってねえよ!!!自惚れんなバーーーカ!!!」
シャトー何とかという名前のワインボトルを乱暴に床に置き(勿論割れないよう絶妙の力加減で)、「じゃ」とだけ残して踵を返した。
サンジは俺を呼び止めも追いかけもしなかった。
ダシダシと力強く床を踏みつけながら、俺は沸騰し続ける怒りと戦う。
自分で言うのもなんだが、俺は気が長い方だ。怒りの沸点も決して低くはない。だからこんなにはっきりと怒りの感情が表に出ることなんて、久しくなかったんじゃないだろうか。
まさか、サンジに、いやサンジと同じ外見をしたあの男に、ここまで腹が立つなんて。
悲しみだったり怒りだったり…嗚呼あの野郎は本当に、俺に負の感情ばっかり与えやがる。
どうしてこんなに腹が立ったのか。
考えたら答えが分かって、分かったら余計にムカついた。
サンジを好きな俺と一緒に、俺を好きなサンジの事まで馬鹿にされたようで、許せなかったんだ。
許せるはずない。当然だ。…殴ってやればよかった。
その後は怒りを沈められるようにと思って、なけなしの戦利品であるコルクを彫刻刀でチマチマ掘る事に没頭した。
ウソップ工場は背面が丸ごと奴のテリトリーだから避けて船尾で一人、胡座を掻きながら。
イルカやクジラ、ウミガメといった海の生き物を、手のひらに収まるコルクから少しずつ形作っていく。
我ながら「これは可愛いぞ」と思った。ナミに見せたら「商標化して儲けてみたら?」なんて言いそうだ。
そうこうしてたらやっと怒りも収まってきて、なんなら鼻歌でも歌い始めようかと思った時、アイツが晩飯の完成を告げる怒号(ナミには媚びた声)を船内中に轟かせた。
ああ、折角もう一個、今度は俺様の凛々しい顔を彫ろうかと思ったところだったのに。
腰を上げようとしたけど思いの外重くて断念した。一度立ち上がることを諦めてしまった体は、その後はもう動き出そうとしない。
この憂鬱は空腹を満たせば消えてくれるだろうか。
…いやきっと、消えないだろうな。分かっているからこそ俺は、腹が減ってるのにここから離れようとしないんだ。
ずんと沈んだ気持ちをどうにも出来ずに、何の感慨もなく海面を見つめた。
あの時サンジに、変なヒレのトビウオを見せたりしなければ。悔やんだって仕方のない事を思い返して奥歯を噛み締めた。
面白い話も、まあ別にたいして面白くない話も、泣き言も、嘘も、弱音だって…俺はお前の隣で話したいんだよ。お前に聞いてほしいんだよ。
泣くのさえ億劫になるようなこの憂鬱を、お前が聞いてくれたら。
ゆっくり夕陽を飲み込んでいく水平線を見つめて「ばかやろう」と呟いた。
その瞬間後頭部にゴツンと何かが当たり、鈍い衝撃が走った。
「いって!」
振り向くと、俺の後ろに落ちていたのは銀色のおたまだ。そして更に後方には随分と機嫌が悪そうな料理人の姿がある。
「…食卓に来ねえ理由があるなら言ってみろ、どうほざいても俺は納得しねえと思うが」
煙草の煙をゆっくりと吐き出しながらサンジがそう言った。
「…」
青筋を立てるこいつにも、もう俺はビビらなくなってきた。この数日で随分と見慣れた表情だ。
返事をしないまま考える。何て言ってやったらこいつは腹が立つだろう。今日、倉庫の前で味わった怒りを、今ここでどう言えばこいつに返してやれるだろう。
考えていたら、サンジが先に口を開いた。
「…オメーの好物は魚らしいな」
「…それが何だよ」
恐らく誰かに聞いたんだろう。でもその情報が何かを打破してくれるとは、到底思えない。
「刺身、開き、それから煮付け…ついでに主役は海鮮鍋だ」
「…?」
「今夜のメニューだ」
…嗚呼、ここで素っ気ない態度が取れれば良いものを。悲しいかな、俺の腹はここぞとばかりに豪快な音を立てるのだ。
サンジは勝ち誇ったようにニヤリと笑った。
「嘘が得意らしいが、体はクソ正直だな?」
持ち上がるその口角に滅茶苦茶腹が立って、自分の腹を殴ってやろうかとさえ思った。いや痛いから、しねえけど!
「食卓に来ねえ理由はねえな、おら立て」
腕の根元を掴まれ、強引に体を引き上げられた。畜生、全部お前のペースで事を進めやがって。
「自分で立てる!触んな!」
腕を思い切り払い退けると「おお怖っ」と、サンジはおどけてみせた。ことごとく腹の立つ奴だ…っつーか普通に性格悪くねえか?俺お前にすげえ腹立ってんの分かってる?
怒りで言葉を失っていたらサンジは慌てて「いや悪い、悪かった」と付け加えた。
「うるせえどけ!俺は食う!ていうかちょうど行こうと思ってたところにお前が来ただけだから!お前が勝ち誇る要素なんて何一つねえから!献立につられて行く訳じゃねえしお前のしたり顔は見てて本当に感じ悪いから!」
捲し立ててラウンジに向かおうとすると、背後でサンジが「本当に悪かったよ」と、真剣な声で言うものだから。
…思わず、振り返ってしまった。
「昼間、ごめんな」
「…な、なんの事だかさっぱりだな」
「まさか俺が男に惚れてて、しかも付き合ってたなんてよ、あんまりにも信じ難くて…咄嗟にあんな言い方しちまった。ごめん」
「………」
真面目な顔をして、サンジははっきりと俺に謝罪をした。誤魔化そうとも視線を逸らそうともしないで。
「信じるよ。俺がお前に惚れてたって事」
…一体、どうして。
倉庫の時とは随分態度が違うこいつに面食らう。散々疑っていたくせに。嫌悪感丸出しだったくせに。この態度の変わりようは何だ。
「…どういう風の吹き回しだよ」
「ん?」
「正気かよって、理解不能だって、ついさっき言ってやがったくせに…何、急にしおらしくなってんだよ。何か企んでんのか」
「随分疑り深いな…まぁいいけど」
そしてサンジは、そこで一旦煙草をゆっくりと吸い込んで、少し上を見上げながら煙を吐き出した。
「言ったよな、俺ぁ胸糞が悪くて仕方なかったってよ」
またその話を聞かなければいけないのかと思っていたら、サンジは見上げていた目線を俺の方に戻し、真っ直ぐと見つめてきた。
「知らねえ男が突然同じ船の上にいると思ったら、他の奴らは全員そいつの肩持ちやがって。なんなんだお前らクソムカつくぜ、三枚にオロすぞナミさん以外…と、正直思ってたんだけど」
「…物騒なんだよお前の発言はいつも…」
「俺がムカついてる以上に、お前も俺にクソ腹立ってんじゃねえかと思い直してよ」
「…は?」
「お前からしてみりゃ、惚れてる相手に丸ごと忘れられて、その相手に泣かされて…そのうえ無理やり、付き合ってた事実を言いたくもねえのに言わされてさ。挙げ句の果てにゃ「正気かよ」なんて返されたんだもんな。そりゃ腹も立つし許せねえだろうよ。…少なくとも俺は許せねえな。そんなクソみてえな恋人は」
サンジの髪が海風に揺れた。金色の髪の毛は夕日に染まって、毛先が火が灯ったように赤くなる。それがいちいち綺麗で…なんだか悔しい。
「…で、考えてたら、あまりにもお前が可哀想だなと思って。詫びの気持ちも込めて今晩の飯を用意した訳だ」
サンジの眼差しに迷いが全くないので、何故か俺の方が恐縮してしまう。
けれどここではいそうですかと納得できるほど俺は大人でもねえし、バカでもねえぞ。
「…んな、好物出されたくらいで、俺様の気が済むと思ってんのか」
「そうだな。ごめん」
…なんだよ。
なんだよなんだよ、急になんなんだよ!そんな、突然素直にされたら、収まらない俺のこの怒りを何処にぶつけりゃいいのか、分かんなくなるじゃねえか!
返す言葉を探しながら自分の足元をキッと睨んでいたら(睨んでないとサンジの真剣な表情はやっぱりカッコいいなとか、馬鹿みたいな事に改めて気づいてしまいそうになるので)、サンジがわざわざ屈み込んで俺の顔を覗いてきた。
「機嫌直せよ」
夕焼けをバックに深い影を落とすその優しい顔は、相も変わらずやっぱり…カッコいいのだ。一瞬でもそう思ってしまった事が悔しくて、勢いよく首を振った。
こいつは天然たらし野郎で、隙を見せればすぐ心の中に土足で上がってくる厄介な男なのだ!1秒たりとも気を抜くな!分かったか海の戦士ウソップ!
「お前の言い分はわかったけど!俺はまだ怒ってるからな!こんなんで許されたと思うなよ!いいか!」
ビシと人差し指で指して宣言するが、目の前の男は「へえへえ」と肩をすくめるだけだ。
「たくさん食えよ長っ鼻」
そう言って笑うサンジの表情は、記憶がなくなる前のサンジによく似ていた。思わず笑い返しそうになってしまって、もう一度慌ててかぶりを振った。
「言われなくても食うわ!」
力強く言い返してもサンジは怒らない。相変わらず笑って「そっか」と短くこぼしただけだった。
ラウンジに続く扉を開ける寸前、サンジが俺の頭にポンと手を置いて「お前、いい奴だな」と言った。
どういう意味を込めて、どんな意図があってその言葉を言ったのか、はっきり言って俺には分からない。
ただ、置かれた手のひらの暖かさに視界が滲んでしまって困った。
本当に困ったんだ。
Back to Main/
Next→