四
ああ久々だ、定期的に見るあの最悪の夢だった。嫌な気持ちで目が覚めて、見覚えのない天井にあれ?と思う。
えーと、昨日は地下通路で最後の投げ銭を期待して歌ってて、そしたらかっこいいお兄さんが立ち止まって二万投げてくれて…その後どうしたんたっけ。結局ネカフェに泊まったんだっけ。シャワーは浴びたんだっけ。
「…あ」
思い出すのと同時に上体を起こした。そうだ、俺は二万をくれたお兄さんの家に泊めてもらったんだった。
部屋を見渡す。お兄さんの姿はない。寝てる俺をそのままにして出勤したのかな。だとしたらずいぶん不用心だ。俺が金目のものをスッて逃げるようなことは想像しなかったんだろうか。
「…うわ、なにこれ」
テーブルの上、真ん中にラップのかかったお皿が一つ。二行だけの書き置きを手に取ると、その下にまるでサブウェイのメニューみたいなホットドッグがあった。
大好物を一つ挙げろと言われたら、俺は迷わずホットドッグと答える。それと一緒にコーラがあったら最強。更にその後吸う一本は格別。
だからラップに包まれたホットドッグを見て首をかしげた。俺、お兄さんにホットドッグ好きなこと言ったっけ?全然覚えてないや、でも偶然なんてことはないだろうからきっと言ったんだろうな。マジですごい。至れり尽くせりだ。挟まれてるソーセージの大きさに思わずお腹が鳴った。
「やべぇ人に拾われた〜…超ついてる…」
いただきますとありがとう神様を一緒くたに念じて、俺は手を合わせた。お兄さんが作ってくれたのかな、きっとそうだよな、嬉しい、やった、お腹ぺこぺこだ。
ラップを外して左手でホットドッグを持ち上げた瞬間、玄関になにかの気配を感じて一瞬ゾクっとした。恐る恐るそっちへ視線を動かす。そこにはなんと死んだように倒れてるお兄さんがいた。
「えっ…ちょ、ちょ!お兄さん!」
慌てて駆け寄る。しゃがみこんで肩を小さく揺すると、お兄さんはかったるそうな声で何かを呻いた。
「……わかってるって…」
「お兄さん?おーい、生きてるッスかー」
「……だからアフターは…また今度な…」
お兄さんの口からダダ漏れるアルコールの匂いの強さにビックリした。そっか、今日もお仕事頑張ってきたんだな。
「…え〜?アフターしてくんないの〜」
「……うん、無理…」
眉間に皺を寄せて、まるでうなされてるみたい。なんかおかしくてちょっと笑った。可哀想なのにかわいい。
「ひひ。超ケチじゃんおみクン」
俺が笑うと途端におみクンは頭だけ持ち上げて、ギョッとした顔を俺に晒した。
「えっなんで本名…」
それで、目が合って二秒くらい。おみクンはすぐに合点がいったみたいだった。
「…すまん寝ぼけてた」
「…ひひ。おはよーッス」
笑いながら頭を撫でたら、数回瞬きをしてからおみクンも小さく笑った。
「…たいちが、帰ってきたらまだ寝てて」
「うん」
「なんか安心して…ダメだな、はは。久々に玄関で寝ちまった」
「そっか、お勤めご苦労様。今日もよく頑張ったッス」
おみクンの髪の毛は思ってたより柔らかい。撫で心地がいいな。飽きずにずっと撫でてたら笑い声と一緒に「うん、頑張ったんだ」というセリフが、やたら丸い輪郭で俺の方へ転がってきた。
「俺っちが花丸百点あげるね。立てる?上着脱がしてあげよっか?」
「…たいち食べたか?テーブルに置いといたやつ」
起きたてだからか会話にならない。無防備な時はとことんなんだ、この人。うーんなるほどこれはホントに超モテそう。
「まだだよ」
「じゃあ食べて。旨いんだよソーセージが」
「……」
…ホント、かわいい人だな。頭に置いた手を耳の方へずらしたら、どうなるかな。いや、おみクンがヘテロかバイかもまだ分かんないし、やっぱりそれはやめといた方がいいか。
「…うん。じゃあここに持ってきて食べるよ。待っててね」
最後に頭を優しくポンポン撫でてテーブルに向かう。お皿ごと持ってもう一度おみクンの近くにしゃがんだら、うつ伏せだった体勢を今度は仰向けに変えて、彼は俺の方を真っ直ぐ見た。
「へへ、いただきまッス!」
「めしあがれ」
おみクンに見つめられながらホットドッグに食らいつく。冷めてしまっても、美味しい食べ物というのはその真価を損ねない。一気に口の中に広がったソーセージの味に俺の心は飛び跳ねた。
「うわウマッ!!」
「ふふ」
「やば!え、ヤバくないッスか!?なにこれヤバ!?」
「そう、ヤバいんだ。ソーセージが」
ウンウンと満足そうにおみクンが頷く。玄関に足を投げ出したまま寝転んで、嬉しそうに笑うその様子に胸の裏側の方をくすぐられたような感覚がした。ヤバい、かわいい。どうしようこの人ヤバ。…かわいい。
決して小振りではないホットドッグを五口ほどで平らげて、一滴も逃すまいと口の周りに飛んだ肉汁も全部舐めとる。おみクンが一層嬉しそうに笑うから、そんな顔は昨日全然見せなかったくせにって、ああ油断も隙もない、超厄介なお兄さんだなって心底思った。
「吸うか?俺の」
おみクンが胸ポケットからメビウスを取り出す。完璧なタイミングで食後の一服まで差し出してくれるんだもんな、人の心をスキャンする能力でも持ってるに違いない。
「…うわ怖ぁ〜…やっぱホスト怖すぎだ、さすがッス……」
「どうして?はは、怖くないよ」
「完全に心読まれてるもん…こうやって全部搾り取られてくんだ…ヤバ…この世の闇ッス」
「いらないか?タバコ」
「いる」
間髪入れずに即答して、箱から一本拝借する。仰向けの体勢のまま今度はズボンのポケットから金色のジッポを登場させて、おみクンは俺の咥えたタバコに火をつけてくれた。
「は〜…ホストの真骨頂見せられちゃったなー…怖…」
「怖くないって。見ろよ、靴も脱がないで玄関で寝てるんだぞ。だらしなさすぎだろ」
「末恐ろしいとはこのことッスよ…」
「あはは、全然聞いてないな俺の話」
笑うと薄く、目尻に皺が寄る。眉毛が少しだけ八の字に下がる。…笑った顔も完璧だ。ヤバい、気を張ってないと本気でハマっちゃいそう。
昨日の記憶がちゃんと残ってればいいのに。そしたらうまいこと立ち回れるのに。でも困ったなぁあんまり覚えてないや。この人とどんな話をしたっけ。俺どんなこと言ってたっけ。昨日はもうちょっとだけ俺、冷静な感じじゃなかったっけ?
「ジャジャン。なんと携帯灰皿も持ってる」
得意げな顔して、さっきと反対のポケットから陽気にそれを俺の前に出す。不敵に笑えて嘘も上手ではぐらかすのもお手の物で、そのうえお茶目なんて。死角ゼロだこの人。マジでヤバい。
「…超かわいいおみクン…」
灰と一緒にこぼれた本音に、おみクンは「初めて言われた」と言って笑った。その笑顔も完璧。花丸百点だよさっきからずっと。
「…さっきね、やな夢見ちゃった」
おみクン以外の何かに意識を向けたくて、思いついた話題を唐突に振る。いつの間にかその口に煙草を咥えていたおみクンは、仰向けのまま最初の一口を長めに吸って、煙を吐き出すのと一緒に「ん?」と相槌を打った。
「久々に見たな。…最悪の寝覚めだったッス」
「どんな夢?」
「それはもちろん内緒ッスね」
当たり前のように返したら、おみクンはさっきの俺の口調を真似て「超ケチだなたいち」と言った。さすがだ、寝ぼけてたくせにちゃんと聞いてたんだ。抜け目がない。
「知りたい?」
「ああ」
「……」
灰を、小さい封筒みたいな灰皿の中へ丁寧に落とす。こういう時メンソールは頭をシャンとさせてくれるから、悪くないな。
「じゃあおみクンが俺っちの質問答えてくれたら、教えたげる」
「わかった。どんな質問でもかかってこいだ」
玄関に倒れたまんま、えっへんと胸の辺りを拳で叩く。ほらその仕草も完璧。まいったッス降参。
「…恋人はいますか」
はぐらかさないでねってメッセージも込めて結構真剣な表情を作ったのに、おみクンはそれに気付いているのかいないのか、穏やかな笑顔をカケラも崩さないまま答えた。
「いないよ。いるように見えないだろ」
「じゃあ好きな人は?」
「いたらこの仕事してないんじゃないかな、俺」
「……じゃあ」
次の質問は、前も聞こうか迷ったやつ。泊まっていいよって言われた時、この部屋にあがる前に聞いておいた方がいいかなって思って、思ったけど、なんとなくやめたやつ。
「恋愛対象はさ…女の子だけ?同性は?」
遠くで心臓が微かに鼓動を速くするのがわかった。答えを聞くのがちょっとだけ怖いってことは、まあ要するに、俺がもう既にこの人を、そういう目で見てるってことだ。
しょーチャンの顔が一瞬浮かんだ。たいちはクズだよって、まるでそのワンフレーズが歌のタイトルみたいに、頭の真ん中に大きく浮かぶ。
優しくされたらすぐ「いいな」って思ってしまう。甘やかされるとすぐ「好き」って言いたくなってしまう。クズなんだ。心の根っこが。
「……あー…」
力の抜けた仰向けを、その途端におみクンはちょっと変えた。体の向きを90度回して、俺から一瞬目を逸らして、それから片手で頬杖をつく。
気まずそうにした数秒の沈黙で全部を理解した。なんだ、そっか。…そっか、残念。
「…考えたこと、ないな」
「そっか。そうだよね、わかった」
携帯灰皿の中で火を消して、心の火種も一緒に消そうと試みる。危なかった、もっとハマっちゃう前に聞いといて良かった。ホント危なかった。…ギリギリだった。
「…たいち」
「うん?」
「まだ出て行かないで」
「……」
息が一瞬だけ止まった。だって、やだな…困っちゃうよ。おみクンのスキャン能力は、ビックリするくらい性能がいい。
「…あは。え〜?寂しいだけなら女の子にしときなよ。おみクンだったら選び放題でしょ」
「たいちの方がいい」
「いやいやいや〜…え〜?あはは」
まだ半分も吸ってない一本を携帯灰皿に納めて、おみクンは俺の足の甲にそっと手を伸ばした。今度はまるで俺の方が、はぐらかさないでって言われちゃったみたいだ。
「…もっと旨いやつ作るから」
「……」
「食べてほしい。今みたいに。…たいちに」
足の甲に触れてる手を、ぼんやり見下ろす。大きな手だ。指も長くて綺麗。爪の形は縦にも横にも広い正方形タイプなんだな、おみクン。
…ズルいんだ。肝心なところは何一つ言葉にしないくせに、思わずこっちが飛びつきたくなるようなセリフばっか吐いちゃって。
「……いいよ」
おみクンの手を、そっと上から触る。ねえおみクン。俺が今おみクンの言葉に飛びついてあげた理由はね、さっきすごく嬉しかったからだよ。
…おみクンって名前。…本当に本名を、教えてくれてたんだね。
おみクンのギョッとした顔を思い出す。取り乱した顔もかわいかったなって思い出し笑いしながら、手を握る。
「ひひ。俺っち今度はハンバーガーとかピザも食べたいな〜超楽しみだな〜」
「うん」
「特大LLサイズじゃないと満足できないかもしんないな〜コーラもあったら完璧だな〜」
「…ありがとう、たいち」
おみクンがあんまりにも安心した顔で笑うから、この人ホントに分かってんのかなと疑いたくなった。
だって、好きになってもいいかって聞いたのに。それでおみクンは、俺からは好きにならないよって言ったのに。なのに「でもそばにいて」なんてお願いしちゃってさ。
ひどい男ッスよ。罪の塊ッスよ。手を、握り返さないでよ。…もっとハマっちゃうじゃないか。
ちょっとだけ動揺させてやりたくて指の一本ずつをわざとらしく絡めたら、感心した様子で「指の先硬いんだな。ギター弾くもんなあ」とか言うんだもん。全然相手にされてなくて、ちょっと笑っちゃった。
「爪が短いのっていいな。長い客ばっかりだからさ、なんか新鮮だ」
「男の手が新鮮なだけじゃない?同性と手ぇ繋ぐなんてさ、だってないでしょ?おみクン」
「んー…そうだな、まあ確かに」
さっきからずっと、まじまじと俺の指を観察してる。なんか動物みたい。かわいいな。いちいちかわいくて…やだな。
「…へへ。やった〜おみクンのハジメテもらっちゃったッス〜」
「はは」
茶化したくて言ったのに、笑いながら「なんかかわいいこと言ってる」なんておみクンが呟いたりするから、ますます悲しくなった。…嬉しい。嬉しいから、悲しいや。
五本ずつ、二人合わせて合計十本の指をさ、この話が終わるまではずっと、繋いでてよ。だって誰にも話したことないんだ。…緊張するからさ、お願い。繋いでてね。
「…さっき見た夢の話、しよっか」