chapter.4-5



 段ボール箱やゴミ袋が転がる奥の狭い部屋。お風呂場や玄関に立ってなさいと言われなかった日にだけ、俺が寝室として使っているこの部屋。
 俺の荷物は全部ここにある。全部と言ってももちろん大した量じゃなくて、数着の服、下着と、それから靴下。頑張ったら全部ランドセルに入ってしまうくらいの量だ。
「これで全部?他は?」
「ううん」
「そっか。じゃー行こ」
俺が荷物をランドセルに詰め込みきると穂輔は立ち上がって、部屋と部屋を仕切る引き戸を全開にした。ダイニングが見える。おばさんはさっきと変わらない姿勢のまま、ずっと動かなかった。
「……」
 数歩先を進む穂輔は、まるではなから何も見えてないみたいだった。そこに何もいないみたいに、一度も視線を預けないでスタスタと歩いてる。あんまりにも冷たい素通りだったから、俺はちょっとだけビックリした。
 でも、それが正しいのかもしれない。俺も穂輔を真似して、見ちゃいけないと思って、俯きながら歩いた。おばさんの前を通る時に胸がザワザワして、背中を誰かが撫でてくるような感覚がして、だから顔をあげちゃ絶対ダメだと強く思った。
 目が合ったら、ダメだ。呪いとか、怨念とか、そういうのって生きてる人間も持ってるのかな。悲しいとか怖いとか辛いって感情が頂点に触れて、心が割れた時。そういう時に人間は、強い力で人を呪うのかな。もしそうなら、今、おばさんと目を合わせたら絶対にダメだ。

「…あー…そっか、上履きで歩いてきたんだ」
穂輔が、自分の靴を履きながら言った。
「うん」
「どーする?俺ん家まで上履きで行ける?」
「うん、行ける」
「そっか、じゃこっちの靴は俺持つわ」
穂輔が汚れたプーマ二つを右手にぶら下げる。玄関のドアノブに手をかけるのが見えて、俺も慌てて上履きを履いた。かかとが潰れてるから、それはもう、そのままでいいや。
 一緒に家を出る。ランドセル一つ分の荷物を背負って、ボロボロの上履きを履いて、穂輔と一緒にこの家を出る。
 俺たちがドアを閉めるまでおばさんは何も言わず、動かなかった。閉じられた後もずっと、中からは何の音も聞こえない。
 …さっきあんなに本気で、追いかけられたのにな。玄関で覆い被られた瞬間を思い出して体中に緊張が走った。キーンという耳鳴りがして、唾を一回飲み込んだ。
 一人じゃ逃げられない。逃げられなかった。穂輔が来なきゃ俺は今もあの扉の向こう、あの家の中、おばさんに見られながら立ち尽くしていたんだろう。「諦める」のレバーを一番上まで持ち上げて、きっと自分の何かを壊して、一回壊れたら決して戻らないと知りながら、それでも俺は俺を、他に方法がないからって、きっと壊してたんだ。
 閉じ込められてた。ずっと。寒くて冷たいひとりぼっちの、地獄みたいな場所に、俺はずっと閉じ込められてたんだ。

 数歩進んで、広がる夜空を見上げた。雨戸で締め切られていたから気づかなかった。今日は、よく晴れていたんだ。雲が払われた空に小さな光がいくつか浮かんでる。星だ。向こうには月が見える。三日月のカーブは、あんなにくっきり見えるんだ。手を伸ばしたら尖った先を触れるような気がした。つついたら痛そうって思うくらい、あんなに綺麗に、はっきり尖ってる。
 ちょっと寒くてくしゃみが出た。穂輔がそれに気付いて「ごめん」と言った。
「なんも上着持ってないや俺」
「…ううん」
「寒い?」
「……ううん」
立ち止まって俯いた。涙が出てきたからだ。泣くな、歩け。早く歩け。そう思うのに思えば思うだけ喉が縮こまって、苦しくて歩けない。
 穂輔が肩をさするから、変な呻き声までこぼれた。穂輔だって寒いよ、きっと。真っ黒の指先だって洗いたかった筈だ。汚れた上履きと、つなぎ姿。誰もいない道で立ち尽くす俺たちは、周りには一体どんな風に見えるんだろう。
「…は、裸に…」
「…ん?」
「裸に、させられた。…裸になれって、それでそのまま、ずっと…立ってなさいって…」
「…うん」
「や、やだった…すごいやだった……っ…」
「うん」
「こ、怖かった……怖かった、俺…」
何にも言わずに抱きしめられた。ビックリするくらい強い力だった。ガソリンとタバコの匂いがいっぱいした。全然、いい匂いじゃない。穂輔の匂いは穂輔の体によく似合ってる。骨張ってて、気持ち良くなくて、正直で、灰色だ。
「すぐ来れなくてごめんね」
胸の中で首をブンブン横に振ったら、穂輔は「ほんとごめんね」ってもう一回繰り返して、俺の頭を優しいとガサツの真ん中の力で撫でた。
「……やだったね」
「…う、うん…」
「こわかったね」
「うん……」
頭を撫でる手と反対の手、穂輔が自分の目を擦るのがわかった。だけどわかっちゃったことは内緒にした。だって穂輔はいつも、見ないでって思った時見ないでいてくれたから。
 ほんとに、全然いい匂いじゃない。具合が悪い時に嗅いだらもっと具合が悪くなりそうな、そういう匂いだ。泣きながらコッソリ笑った。笑いながらコッソリ「ありがとう」も伝えた。でも穂輔の鼻を啜る音と重なっちゃったから、聞こえなかったかもしれないな。

「……腹減らない?」
腕を解いて、穂輔が顎をさすりながら言う。
「うん、減った」
「ね。歩きながらどっか入ろ」
「うん」
「龍彦なに食いたい?」
 前にもされたことのある質問に、俺は今度こそ迷わず答えるんだ。
「ハンバーグ」
穂輔はちょっと笑って「いーじゃん。探そ」と言ってくれた。

 少し歩いて、駅の近くにあるファミレスに入った。俺たちの風貌に店員さんはちょっとだけギョッとしてたけど、穂輔の「二人」という言葉に慌てて頷いて、お店の奥のテーブルに案内してくれた。
「なに食おっかなー俺」
穂輔がメニュー表をパラパラめくる。反対側から身を乗り出して覗き込んだら、テーブルの端にささってるもう一つのメニュー表を穂輔が渡してくれた。
 …どうしよう、さっきから俺、ちょっとだけ緊張してる。だってファミレスなんて初めて入った。上履きを履いてることが今更恥ずかしくて、せめてもの気持ちでテーブルの下でかかとを直した。
「好きなの何個でも頼んでいーよ」
「…うん」
「俺どーしよっかな…あー…これとこれとこれにしよ」
ドリアとパスタとピザを指差して穂輔はそう言った。
「…え、そんなに…?」
「んー?うん」
「…なんで…?」
口から勝手に溢れてしまった疑問に、穂輔が今日一番おかしそうに笑った。
「あは。えー?なんでって言われても、だって食いたいんだもん」
「……」
穂輔の細い体の一体どこにしまわれるんだろう。不思議だな。
「よく驚かれたわ、こーやって飯屋来た時」
「…誰に?」
「…んー?…んーとね…」
メニュー表を見たまま穂輔はぼんやりなにかを考えてるみたいだったけど、結局、俺の質問に答えることはなかった。
「…龍彦決まった?」
「うん」
「どれ?」
「あの…これ」
トマトソースのハンバーグ。俺の指差したメニューを確認したら穂輔は頷いて「それ超美味いよ」と笑った。
 店員さんを呼んで、穂輔がテンポ良くメニューを注文する。途中「龍彦ごはん大盛りする?」と聞かれて、首を横に振った。でも穂輔は料理を三つも食べるのにパスタを大盛りで注文してた。
 食べ物が来る間、穂輔が「キッズ」と書かれたメニュー表を広げて間違い探しをし始めた。真剣な顔でキッズメニューを開く穂輔がおかしくてちょっと笑った。どうやら七個間違いがあるらしいけど、どんなに二人で眺めても五個しか見つからなくて、穂輔も「むず過ぎない?」って笑ってた。
 少しして、大盛りパスタが一番最初にやって来る。穂輔がフォークじゃなくて箸を取り出してラーメンみたいに啜るから、なんか変でおかしくて、また笑った。
「なんで箸で食べるの?」
「えー、なんでだろ…なんか早く食える気ーする。こっちのが」
「……俺、箸、上手に使えない」
「んー?…うん、別にいんじゃない」
「給食の時笑われたことあるから…ちょっとやだ」
「あー…そっか」
「…左だったらできるのに」
俺がそう言うと、穂輔は麺を啜るのを一旦やめて俺を見た。口をモグモグ動かしながら不思議そうな顔をしてる。まだ次の食べ物が届いてないのに、もう大盛りパスタはほとんど空だ。
「左で持てば?だめなの?」
「だめって言われたことある。汚いからやめなさいって」
「…あのオバサン?」
「うん」
大盛りパスタはいよいよ空っぽになった。穂輔が空いた食器をテーブルの端、通路側に寄せて、それから口の中のものを水で流し込む。
「…じゃーパスタを箸で食うの、超汚いんだろうね」
笑って、穂輔は「左で持ちなよ」と付け加えた。
「かっこいーじゃん左利き」
「え、なんで…?」
「えー?なんかレアじゃん」
「……」
そんなの言われたことない。かっこいいなんて、思ったこともない。「なんかレア」って理由も全然わかんなかったけど、でも、わかんなくたって別に、いいのかもしれないな。
 穂輔が言うことはいつもそんな感じだ。根拠がなくて「だって俺がそう思うから」ばっかり。…それって、いいな。
「…ひひ」
「ん?」
「穂輔、口の周りソース付いてる」
笑ったら、穂輔も笑った。口元を紙ナプキンで拭きながら「ウケんだけど」って言ったセリフに、俺もちょっとだけウケた。
 それから一気にやってきた他の料理で、テーブルは一杯になった。穂輔が「それでホントに足りる?」って真剣な顔で聞くから、足りるに決まってるのにって思いながら、笑って頷いた。
「ゆっくり食いなよ」
そう言うのに自分はまるで掃除機みたいに食べ物を吸い込んでる。どうしてそんなに、急いでるみたいにして食べるんだろう。
「…穂輔は?」
「んー?」
「なんでゆっくり食べないの?」
どうやらウケたみたいだ。ドリアをかきこみながら笑ってる。
「俺はいーの。胃袋超強いから」
「…ふーん…」
「胃袋だけサイヤ人だから俺」
「…サイヤ人ってなに?」
「え、知らない?マジか。俺ん家全巻あるから読みなよ」
穂輔がドリアを空にして、今度はピザを銀色の器具でガシガシと切る。すごい適当に切るから等分にならなくて、不恰好な一切れが八個できあがった。
「ドラゴンボール。おもしろいよ」
「あ、それ名前だけ知ってる」
「読んだ方がいいマジで。フリーザかっこいいから」
 穂輔の話を聞きながらハンバーグを口に運んだ。ほんとだ、すごく美味しい。でもお母さんのハンバーグには敵わないなと思って、そう思えたことがなんだかすごく嬉しかった。
 何百枚の食パンが迎え撃ってきたって、その味は消されない。消えないものが、俺にもちゃんとある。

 ハンバーグセットを半分くらいまで食べた頃、ふと、気になってたことを思い出した。
「…ねえ、穂輔」
「んー?」
穂輔はテーブルの上に並んだ料理を、その時もう全部平らげていた。苦しくないのかな。あんなにいっぱいあったのに。
「メゾさんって誰?」
穂輔はチラッとだけ俺を見て、だけどすぐに空っぽの食器へ視線を落とした。器に箸やスプーンを重ねて、無言でまた通路側の端に寄せる。
「……昔の知り合い」
「店って、どんな店?」
「…あー……」
決まり悪そうに視線を左右に泳がす。穂輔にも目が泳ぐことがあるんだ。なんか意外だ。
「…龍彦がもーちょい大きくなったら話すわ」
「…なんで?」
「なんでも大きくなったらね。今ちょっと言えない」
「大きくなったらっていつ?」
「んー…50年くらい」
「えっ!」
驚くのとほとんど同時、穂輔が「あはは」って大きな声で笑った。あ、そっか。冗談を言われたんだ。穂輔の笑い方でやっと気付いた。
「ごめん自分でウケちゃった。龍彦62じゃん」
「穂輔だってヨボヨボじゃん。えっと25だから…75じゃんか」
「ホントだ、75ってすごくない?75の自分さすがに想像できないわ」
自分で言ったことなのに、なんでそんなウケてるんだろう。変なの。穂輔って本当に変だ。おもしろい。おかしいよ、もう。何でそんな笑ってるの。
「…ひひ。あはは」
「その頃約束忘れてたらごめんね」
「あはは。絶対忘れてるじゃん、そんなの」
「そーだよだってそりゃ75だから。そりゃ多少はボケるよ」
「あはは!」
声をあげて笑うと、悲しくないのに目の端っこに涙がたまる。笑い続けると、下してないのにお腹が引き攣って痛くなる。
 初めてだった。知らなかった。俺いまファミレスでハンバーグセット食べながら、お腹痛くなるまで笑ってるんだ。…信じられないや。
「は〜…ウケる。あ、なんかもう一個頼もうかな俺」
「えっ!」
「いやこれは冗談じゃなくて」
嘘だぁ。心の中で疑ったけど穂輔は本当に店員さんを呼んで本当に追加注文してしまった。…すごい。

 食べ終わって店を出た後、二人で電車に乗った。穂輔が大人を二枚買おうとするから「俺こども料金だよ」って教えてあげたら「え、小六なのに?」と驚かれた。
「小学生はこども料金だよ」
「へー。半額じゃんヤバ」
「半額だと何でヤバいの?」
「超お得じゃん。俺の倍遠く行けるじゃん」
「……」
穂輔って、考え方が変だ。遠くに行く予定なんて別にないんだけどな。…でも穂輔がなんか嬉しそうだから、いいや。そうだねって頷いてあげた。
 満員電車に乗る。一緒に揺られて穂輔の家へ向かう。網棚にプーマを乗せたらそのちょうど下に座ってたスーツのおじさんが不思議な顔をして見上げてたけど、穂輔は気にしてない様子で、ぼんやり窓の外を眺めてた。
 あの雨の日、俺が体を引きずりながら何時間も歩いた道のりを、電車はわずか15分で駆け抜けた。

 家に着いた途端、つなぎ姿のまま穂輔はリビングのソファに横たわって長い息を吐いた。手すりの部分に頭を預けて目をつぶって、疲れてるのか足を両方とも投げ出して、全身の力を抜いてる。
「…はー…龍彦先に風呂入っていーよ」
「あ、えっと、うん」
ランドセルをテレビボードの脇に下ろして、部屋の中を見渡す。今日はおばあさんもお父さんもいないみたいだ。
「…あの、穂輔」
「んー?…なにー?…」
「ほんとに俺来ても大丈夫だったの…?」
「……」
返事が帰ってこない。近寄って顔を覗き込んだら、穂輔は薄目を開けて眉間に皺を寄せた。
「…ん?…いま寝ちゃった」
「……」
「…ごめん聞いてなかった。なんつった?」
「…ううん。なんでもない」
疲れてるのに、する話じゃないな。きっと。
 穂輔を見習って目の前のことをやる。だからお風呂に入ろう。
「お風呂行ってくる」
「いってら」
穂輔がまた懲りずにすぐまた目を瞑るから、ちょっとおかしかった。

 お風呂から上がってソファーに寝そべる穂輔を覗き込んだけど、想像以上に深く寝てるみたいだからどうしようと思った。呼んでも肩を叩いても起きない。穂輔だって絶対お風呂入った方が良いのに。
「……」
どうして良いか分からなくて、ソファーとテーブルの間に座り込んだ。ちょうど良い高さだったからソファーに突っ伏して、穂輔の上下に動く胸をぼんやり眺める。
「…お風呂入った方がいいよ」
急に眠くなってきてしまった。だから自分も眠ってしまう前、最後のメッセージを残した。
「俺、言ったからね」
両腕の中に顔を埋めて、穂輔の寝息を聞きながら目を閉じる。
 明日からどうなるんだろう。俺の毎日はこれからどこへ向かって、どこへ帰って、どこに繋がっていくんだろう。
 全然わかんないな。全然わかんないや、穂輔。だって穂輔は先のことを話さないし説明もしない。聞いてもきっと返ってくる答えは「どーだろーね」とか「俺も謎」とかなんだろう。そんなこと言う大人、いないよ。やっぱり変だ。穂輔は変わってる。
 だけど不思議なんだ、あんまり怖くないから。ぼんやりとした不安は、美味しいご飯と眠気の前には歯も立たないんだって知った。
 トマトソースのハンバーグ美味しかったな。お風呂気持ちよかったな。疲れたな、眠いな。
 穂輔が教えてくれるのは、そんなことばっかだ。生きてるって思う。聞かれてもそれ以上はうまく説明できない。でも、ただ生きてる。

 その日は、明かりを点けたまま一緒に眠った。













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