「やだわ本当に散らかってて恥ずかしいんですけど、ふふ。せっかく来てもらったんですもの、ゆっくりしていって」
俺の隣の椅子に穂輔を座らせて、おばさんは機嫌良さそうに穂輔にお茶を振る舞った。赤い急須と灰色の湯呑みなんてこの家のどこにあったんだろう。初めて見た。
「……どーも」
穂輔は形だけの会釈をして、無表情のままお茶を受け取った。湯呑みを握る手を見る。指先が、ビックリするくらい真っ黒だった。そうだ、そういえば自動車整備の仕事をしてるって言ってた。
仕事が終わって、俺が残した着信履歴に気付いて、急いでここまで駆けつけてくれたんだろうか。着替えないで、きっと手も洗わないで。
…そんな人、いないな。いなかった。今までずっと。穂輔以外は誰も。
おばさんは俺の向かいの椅子に座って、それから穂輔にそっと微笑んだ。
「まさか稲田さんの方からいらっしゃってくれるなんて。ねぇ〜?龍彦くん。ビックリだよねぇ?」
「……」
黙って頷く。どうしていちいちこっちに同意を求めてくるんだろうって、不思議に思いながら。
「あの、今日はどういったご用件で?なんだかごめんなさいねテーブルの上がいっぱいで。ちょうどね、晩ご飯食べるところだったもんですから」
おばさんがまた「ね?そうだよね龍彦くん」と同意を求めてくる。小さく頷いたら、穂輔がズズッと音を立ててお茶を啜った。
「…顔見たいなと思って」
穂輔がチラッと俺を見る。声が出ないまま穂輔を見つめ返したら「元気?」とだけ聞かれた。
着信残ってたから来た、とは、言わないんだ。…ああ、俺がおばさんに内緒でかけたって想像してくれたのかもしれない。こんな少しの時間に?一瞬の間に?もしそうならすごい。穂輔って、本当にすごい。
「…龍彦」
穂輔が、目を伏せながら俺をそっと呼んだ。
「靴。…どしたの」
「……」
やっぱり見てる。見てないようで、いろんなことを見てる。
玄関に並べた俺の靴に気付いてくれて、なんにも言わなくても見てくれてて、最後に俺へ、ちゃんと俺へ、聞いてくれる。
代弁じゃない。また聞きじゃない。人づてでもない。誘導も尋問も悪意も決めつけもない。俺の目を見て、俺の名前を呼んで、俺が答えることだけを待っている。
「………」
涙が出た。また勝手に。ボロボロ流れた。全然止まらなかった。穂輔が当たり前にやってのける全部は、だって俺には、当たり前じゃないんだ。当たり前だったことなんて一度もなかったんだ。そういう当たり前を俺にも分け与えてくれる人に、出会ったことがなかったんだ。
「あらやだ、やだやだどうしたの龍彦くん。そんなに泣いちゃってちょっと、なにがあったの?」
おばさんがテーブル越しに手を伸ばしてきたけど、その手は穂輔によって遮られた。
「龍彦いま俺と話してるから」
淡々としてて、抑揚のあんまりない言い方だった。穂輔があんまりにも躊躇なく言い放つから、おばさんも思わず手を引っ込めたようだった。
「……」
俺の眼前に影を作る穂輔の手を、俺はなんだか信じられない気持ちで見ていた。ああ今、守られたんだ。咄嗟に守ってくれたんだ。そう思ったら、お腹の底から熱さが登ってきて、また涙が湧いた。
「……ク、クラスの奴らに」
「うん」
相槌が、耳じゃなくて胸に届く。
「よ、汚された……」
「うん」
おばさんがテーブルの向かい側で動けないでいるのを、ぼやけた視界で見る。さっき穂輔に遮られたことがまだショックなのかもしれない。
「…サッカーの…ボールがわりに、されたんだ…」
「……そっか」
自分の膝の上に握り拳を作って、二つ並べる。ズボンの皺をギュッと握る。涙が拳にポタポタ落ちて、落ちた分だけ少しずつ、穂輔の声がはっきり聞こえるようになる。
初めて聞く内容だったのか、おばさんが「そうだったの?やだ酷いじゃない」と口を挟んできたけど、穂輔はやっぱりそれも許さなかった。
「…だから」
穂輔の、その後に続いた舌打ちにおばさんは怯んだ。
「あ、ごめんなさい」
こんな、思わず口からついて出たみたいな言い方、この人の口から初めて聞いた。俺は胸の中で混ざり合う驚きと変なもどかしさで、グチャグチャになった。
「…あとは?それで全部?」
「……」
首を横に振る。穂輔は俺をゆっくり待った。急かさないで、待ってるって態度も出さないで、隣でゆっくりお茶を啜ってる。
「…殴った」
呟くように言った言葉に、穂輔が耳を傾けている。見なくてもわかるのはなんでなんだろう。聞いてくれてるって、ちゃんと聞いて一つずつ受け取ってくれてるって、わかるんだよ穂輔。
「ムカついて…いっぱい蹴ったし、殴った」
「……そっか」
「……」
穂輔は俺を怒るだろうか。殴っちゃダメじゃんって。なんで手ぇ出しちゃったのって。
わからない。穂輔が言いそうなことって、こういう時あんまり想像できないや。
「…あの、ちょっとごめんなさいね?龍彦くんね割とすぐ手が出ちゃう方って言うか…ほら「すぐキレる若者」ってテレビでよく言うじゃない?ああいう感じなのかしらね?典型的な」
おばさんが向かいの席で、ペラペラと淀みなく話し始める。俺はその時俯いていたから、穂輔がどんな顔をしておばさんの話を聞いていたのかは知らない。
「お恥ずかしいんですけど…これが初めてって訳でもないんです。学校から連絡をいただくこともしょっちゅうで。もうね、その度に心臓が止まりそうになっちゃって私!今日もね、さっき学校からお電話いただいて、先生と一緒に帰ってきたんですこの子。もうねぇいつも先生方にはご迷惑ばっかりかけちゃって…」
おばさんの放っておいたらどこまでも続いていきそうな話は、穂輔の「今それ聞いてないんだけど」という言葉でピシャリと遮られた。
思わず顔を上げたら、俺の隣で湯呑みを握りながら穂輔は、驚くくらい真っ直ぐ、おばさんを睨んでいた。
「黙っててってば。龍彦と俺で話してんだから」
「…あ、あらあら……あ〜。そうね、そうでした。やだ私ったら」
「……」
穂輔がお茶を啜りながら、目の泳ぐおばさんをじっくり見つめてる。ただ見てるだけじゃなくて…ああそっか、たぶん観察してるんだ。どういう時に視線を逸らすのか、どういう風に慌てるのか、どういう言葉で場を繋ぐのか。そういう一つ一つを見て、知って、静かに自分の中にしまってる。
…ちょっとだけ怖い。どうして怖いのか考えて、ああそうか俺は今までずっと観察される方ばっかりだったんだと気づいてしまった。この目で観察されたらすごく怖いだろうなって、だから思わず想像してしまう。おばさんが穂輔から不自然に目を逸らすから、見てられなくて、俺はまた俯いた。
「帰ってきてからは?なんかあった?」
いよいよ尋ねられた質問に、心臓が大きな音を立てた。唾を飲み込んで息を止め、考えた。言わなきゃいけないのか、言っちゃいけないのか、どっちが正解かわからない。怖い。間違えたら後戻りできない。だから黙って、向かいのおばさんに視線を預けた。
「うん?なんにもなかったよねぇ?」
おばさんは小首を傾げて笑った。やっぱり言っちゃいけないんだ。俺は小さく頷いた。
「…そっか」
穂輔は湯呑みの中身を全部飲み干して、それから立ち上がった。辺りをキョロキョロ見渡して、おばさんに「トイレ借りていーすか」と尋ねる。
「ああはい、もちろん。お手洗いね、そっちの奥にあって…あ、電気点けましょうか?ちょっと分かりにくいかも…」
「いやいーです。…あざす」
携帯電話をいじりながら、穂輔がトイレへと向かう。いくつかのスイッチを点けたり消したりして「あ、これ風呂のか」とか呟きながら、それでも携帯の画面を見つめたままで、最後にやっとトイレへ入った。
「……やっぱり、ちょっと怖い人だねぇ?」
おばさんが俺にコソッと言った。トイレのドアがちゃんと閉まっているのを何度も確認して「かっこいいんだけど」とか「顔はねぇ、ほんとに」ってこぼす。曖昧に首を斜めに傾けたら、おばさんは何故か微笑んだ。
「龍彦くんがね、変なこと言うんじゃないかと思って
ちょっとヒヤヒヤしちゃった」
「……」
「言わなかったの偉かったねぇ?偉かったよ?」
ちっとも嬉しくない。嬉しいどころか、悔しい。言えば良かったんだ、俺は、穂輔に全部。裸にさせられたんだって、何時間もそのまま立たされたんだって、泣いてもいいから言えば良かった。
自分に腹が立って歯を食いしばったら、おばさんは何を勘違いしたのか「褒められると嬉しいね?」と言って笑った。
五分くらいして穂輔は戻ってきた。やっぱりまた携帯をいじって、なにか操作しながら自分の座っていた椅子に腰を下ろす。おばあさんかお父さんとメールをしてるのかと思ったけど、そうじゃなかったんだと俺が知るのは、ちょっとだけ後のことだ。
「…すんません。なんか、急に来ちゃって」
穂輔が顎をポリポリかきながら、申し訳なさそうに頭を下げる。おばさんはちょっとビックリしながらも「いいえ〜?やだわぁそんなこと」と微笑んだ。
「ちょっと腹減ってるからイライラしちゃって。…ホントすんません。感じ悪くなっちゃった」
何度も穂輔が謝るからおばさんは機嫌が良くなったみたいだった。「やだぁ」とか「全然です」って嬉しそうに笑ってる。
「あ、そうだ。もしお腹減ってるなら良ければ食べます?もうねぇほら、作りすぎちゃうからいつも私」
「いや、悪いっすよ、さすがにそれは」
「いいのよぉ。ね?いいよねぇ?龍彦くんも。稲田さんが一緒に食べてくれたら嬉しいよねぇ?」
穂輔は、笑ってた。さっきまでの態度が嘘みたいに、おばさんと一緒に笑って、おばさんの気が良くなるようなことを言って、それでおばさんが笑うとまた自分も笑い返す。
「あー…でも旦那さん?帰ってきますよね、もうすぐ」
「ん〜ん?あのね主人は帰ってくるのが毎晩遅いんです。ご飯もね、いつも私と龍彦くんの二人で先に済ませちゃうの。せっかく用意してもねぇ冷めたご飯しか食べられないからあの人…。本当は待っててあげたいけど、龍彦くんがいるから…ねえ?ほら、無理やり遅くまで起こしておくのも可哀想じゃない?大人の都合に付き合わせちゃうのもねぇ」
穂輔の短い問いかけに、おばさんは何倍もの量で返した。穂輔は「そっか」と相槌を打って、その後に「大変すね」と、おばさんに笑いかけた。
一緒に食べたことなんて、ほんとは一回だってないのに。なかったよ、穂輔。おばさんは笑いながら平気で嘘をいっぱい並べてる。
「じゃあ一人で家のことやってるんすね。大変じゃないすか」
「え?…ふふ、そんなこと。でもそうね、やっぱりたまに疲れることもあるかな?ほら、学校から急に連絡が来ることだってあるし、気が休まらないって言うか」
「あーそっか。疲れちゃいますよね。俺だったら無理だ、すごい」
「やだ、普段人から褒められることなんてないから。どうしましょう。なんだか照れちゃうわ…」
穂輔が、本当に別人みたいだ。知らない人みたいで、どうしたら良いのか分からない。ねえ、急になんで?俺のことを忘れてるんじゃないかとさえ思った。
「…あの、すんません。なんか冷たい飲み物ってないすか。水でもいんですけど」
穂輔が申し訳なさそうにそう言うと、おばさんは慌てて立ち上がった。
「やだ、ごめんなさいね気が利かなくて。麦茶でもいい?」
「はい。すんません。あざす」
おばさんが冷蔵庫に向かい、俺たちに背を向けて新しいコップにお茶を注いでいる。
居心地がさっきから悪くて、俺はどうしたら良いのかわからなかった。自分の膝に視線を落とす。そうしたら穂輔が隣からそっとテーブルの下、俺の膝の近くに携帯の画面を見せてきた。
「……」
穂輔を見る。だけど目が合わなかった。穂輔はずっとおばさんの背中を眺めながらそのかたわら、催促するように携帯を俺の膝にぽんぽん当ててくる。…早く見てって、ことなんだろうか。
従うように携帯の画面を見た。テーブルの下で行われている俺たちのやり取りに、おばさんは全く気づかない。
『いまからずっとなんもしゃべんないで』
携帯の、たぶんメール送信画面。本文を入力する場所にそう表示してあった。
「……」
何にもわかんなかったけど、頷いた。何度もコクコク首を動かして穂輔に伝える。穂輔は自分の元に携帯を戻すと、今度は黒っぽい画面を新たに立ち上げた。横から盗み見する。下側に表示された赤い丸に穂輔が触れる。そしたら「新規録音」という文字と一緒に赤い線が画面の中央を、右から左へ真っ直ぐ泳いでいくのが見えた。
「……」
なにかしようとしてる。穂輔が。ドキドキした。喉を一回鳴らしたら、おばさんから見えないよう俺の背中を、背もたれごと一緒に、穂輔は一度だけ軽く叩いた。
「お待たせしました。ごめんなさいね、どうぞ」
「すんません、あざす」
穂輔が会釈してコップの中身を一気飲みする。携帯は穂輔の膝に置かれたままだ。赤い線はずっと右から左へ、たまに小さくなったり大きくなったりしながら進み続けてる。
「…龍彦、いい子すよね」
穂輔がポツリと言った。空のコップを見つめながらだったから、呟きはその中に落っこちて、シャボン玉が割れるように消えた。
「なんかうちに来た時ビックリしちゃって。散らかしたりとかワガママ言うとか全然なんもしないから。いい子だなーと思って」
穂輔に「ね」と同意を求められたおばさんは、困ったように笑って「そうかしら」と曖昧に言葉を返した。穂輔は、そんなの全然構わない様子でさらに続ける。
「だから良い育て方されてんだろうなーと思ったんすよ。立派な教育受けてんだろーなって」
穂輔がおばさんを見つめながら何度も深く頷くから「やだ、そんなこと」から始まったおばさんの相槌も次第につられた。「そうねぇ」「大変ですけどね、もちろん」と、否定は肯定の方へゆっくり変化する。穂輔は「や、ホントそー思います」とさらにおばさんを褒め称えた。
「でも学校で問題起きちゃったりすると電話かかってきちゃうんですもんね。えーと…あ、すんませんお名前は…」
穂輔がふと思い出したように尋ねる。おばさんはにっこり穂輔に微笑んで、微笑むだけじゃなく、首をゆっくり横に倒す仕草まで付け加えた。
「あ、私の?ふふ、まき子です。園山まき子」
「うん、まきこさん」
名前を受け取って、穂輔はおばさんを下の名前で呼んだ。おばさんは「やだわ、下の名前で呼ばれることなんて滅多にないから」と、困ったように、だけどすごく嬉しそうに、穂輔に微笑んだ。
「あー…そう。まきこさんとこに電話が行くわけでしょ。ヒヤヒヤしますよね、やっぱ」
「そうねぇ、それはもう本当に。私のやり方がいけないのかしらなんて…ねえ?思っちゃったりして…」
「ね。そーすよね。俺も自分だったら不安なるだろーなって思います」
そこまで言うと穂輔はチラッと、テーブルの下の携帯に目をやった。赤い線は変わらずずっと、同じ速度で流れ続けている。
「…やっぱ叩いたりとか必要なんすかね?言ってわかんないなら体に、みたいな」
「……」
穂輔の言う内容に、ヒヤヒヤする。心臓がキンキンと音を鳴らす。「なんもしゃべんないで」の文字を思い出して、俺は唇をグッと閉ざした。力を入れてないと、何かが飛び出してしまいそうな気がした。
「そう…なのかしらねぇ。どうなんでしょう。よく分からないわ…」
おばさんはとぼけた。穂輔は表情を変えない。穏やかな声のまま続ける。
「…俺も、まあいつかは親になるかもしんないから。先のこと考えるといろいろ不安で。子育てのこと聞きたいんすよね」
「あらぁ、そうなの?稲田さんおいくつなんです?失礼かもしれないけど…」
「あ、俺いま25なんすけど。友達で何人か子ども産まれた奴いて。俺もいつかはなーとか、思ってて」
「まあ、25!お若いのねぇ。そうよね、でもたしかにそろそろね、考え始める頃かもしれないわね」
「龍彦みたいにいい子に育てられたらいーなーと思って。だから聞きたいんすよ。まきこさんのやり方」
穂輔がテーブルに身を乗り出して、おばさんをじっと見つめた。まるで「おねがい」って聞こえてきそうな、そんな表情だった。
「私の?やだわ、どうなのかしら。参考になんてなるかどうか…」
「やっぱ厳しくすんのも責任じゃないすか。保護者としての。俺いい加減だからそーゆーの自信なくて。なんかないすか?信念みたいなの」
「そうね…信念…」
「ルールとか。これは絶対しちゃダメとか、逆にこーゆー時は絶対これするとか」
おばさんはちょっと口ごもって、穂輔に何度かチラチラ視線を送って、だけど穏やかな顔と声に安心したのかポツポツと話し始めた。
「…そうね、まあ…厳しくする時もね?…たまに、あるかな?…どうだろう…」
「へー。厳しくするの大変すよね。心を鬼にしなきゃいけないから」
「そう、そうね…そう、そうなの。大変なんです。毎日手探りって感じで…」
「うんそっか。…あーやっぱまきこさん偉いなー。もっと聞いていーすか。聞きたいな俺」
「んー…まあ、たまにね?本当にたまにですけど…躾だと思って、厳しくすることはあります」
「うん、例えばどんな?」
「そうねぇ…そう…本当にたまになんですけど…まあ、軽くね?言葉で伝わらないなって時は、体にねぇ…」
「うん」
「ほらひと昔前は学校の先生でもあったでしょう?体罰って称して…ねぇ?問題視されてたけど、私は本当にそうなのかなって。子どものためにねぇ?だって…子どものためを思ってすることですから…。それも教育の一環なんだろうし」
「うん、ホントそーすよね。俺も思います、それは」
「そう?そうよね良かった、若い人ってほら、そういうのすごく敏感でしょう?でも甘やかすことはね、簡単だけど…厳しくすることもやっぱり必要な時があるわけだし…」
「うん。やっぱすごいなまきこさん。だから龍彦みたいないい子が育つんすね」
軽やかに続いていく会話は、どこまで行ってもおばさんの肩を持つ内容だった。穂輔の携帯は淡々と、赤い線を泳がせ続けている。
「やだわ…すみません。なんだかこんな話を誰かに聞いてもらえたことがなくて…ごめんなさい私ったら…」
おばさんは、少しだけ泣いた。目元に残った涙を指先でそっと拭いて、穂輔に「ありがとう」と伝えた。
「…全然。いーすよ、俺なんかで良かったら」
「ええ…ええ…」
「いくらでも聞くんで、ほんとに」
「ありがとう…稲田さん」
おばさんの「優しいのね」という言葉に穂輔は笑った。本当に優しそうな顔で、心が通い合ってるみたいに、まるで、恋人みたいに、笑った。
「……辛いの、私も。だけど…龍彦くんのことを思えばこそで…今までずっと」
「うん」
「…たまにね、彼のことを…心を鬼にしてね…」
「うん」
「…彼のために、彼を想って、叩くこともあります。…本当に、軽くですけど…」
「うん。そっか、つらいね」
「どんなに言葉で尽くしても…伝わらないこともあるから…」
「うん、そーだよね」
「だから…彼がこれ以上誰かを傷つけないようにって…どんなに辛くても、叩くことがあるんです。でも誰にも…そんなこと、言えないじゃない…?」
「……そっか」
穏やかな沈黙の中に、おばさんの鼻を啜る音がそっと響く。穂輔は手元の携帯をまた確認して、それから「どんくらい?」とおばさんに聞いた。
「叩くって、どんな感じで?どこをどんくらい叩くんすか」
「えぇと…そうねぇ…」
「全部言っていいよ。まきこさんの気持ちわかるから」
「……」
「つらかったよね。聞かして。ちゃんと聞くから」
「…頬を…頬をね…?軽く…手のひらで…」
「うん。頭は?頭も叩くよね、分かってほしくて必死でさ、叩いたよね」
「ええ、たまに…とても辛いけど…」
「そーだよねつらかったよね。いっぱい叩かなきゃと思ったんだもんね。苦しくてもそーやってやってきたんでしょ?」
「ええ、そうなの…何度も…顔と頭を…私、苦しくて、いつも……う…」
「叩くだけで伝わらない時は?そーゆーことない?辛かったんじゃない?」
「…そう、辛いの…とっても…。だけど私もそこまで鬼にはなりきれないから…」
「そう?そっか。どっかそのへん立ってなさいとかさ、そーゆーのは?それくらいは全然いんじゃないの?必要な厳しさかなって俺は思うけど」
「…そう、そうよね。…そうよね?…そうなの、私…とても苦しかったけど…今までそういうことも、あったんです…あったの…」
「うん、そーだよね。…一晩中とか?つらかったんじゃない?」
「…そう、夜はずっとここにいなさいって…泣くのを堪えて…心を鬼にして、私…」
「うん。一週間に一回くらい?あーもうちょい多いか。どんくらい?つらかったでしょ、全部言っていーよ」
「…週に、二、三回…くらい…」
「もっとあったんじゃない?ほんとは?誰にも言えなくて苦しかったよね、言っていーよ」
「……ええ…そうね…そう…」
「四、五回くらい?」
「…ええ…そう…ええ…」
「…そっか」
「…う、うう…」
おばさんが泣いているところを、俺は初めて見た。この人はこんな風に泣くんだ。何が悲しくて、何が辛くて、何を思って泣いているんだろう。
一つもわからなかった。本当に何一つ。微塵もだ。カケラもだ。
テーブルの向こうにいるこの人を、遥か遠くの、まるで別の星に生きてるなにかみたいに感じた。分からない。こんなに分からない人と、俺は何年もずっと一つ屋根の下で暮らしてたの?…本当に?信じられない。
なんで?なんでだ、今更。怖い。
「…もーいっか」
穂輔がそう言って携帯に目を落とす。赤い丸のマークを親指で触る。ずっと右から左へ流れていた赤い線は、それでようやく止まった。
「…叩いて、一晩中立たして、そーゆーことしてきたんだよね。今までずっと」
穂輔の声が、今度は凍えるような冷たさを纏って、おばさんを刺した。
「何回叩いて何回立たしたの、アンタ」
「…え」
「龍彦のこと何回殴ったの、今まで」
急に変わる穂輔の態度におばさんは動揺していた。目が泳いで、口元が微かに震えてる。
「…全部録ったから今の。だから俺の質問答えてくれる?」
「……え?あ、あの」
「答えられんのか聞いてんだよ。あ?」
穂輔の声が、どんどん低くなる。それで、おばさんの顔が真っ青になる頃、穂輔は最後に言った。
「全部吐けよ。聞いててやるから」