chapter.4-2



 ランドセルをおろして上下の服を一枚ずつ脱いだ。パンツだけになってその場に立つと、おばさんは「それもだよ」と俺の下半身を指差して言った。
「下着もだよ。全部脱ぎなさい」
「……」
「早く」
「……はい」
ゆっくりパンツを下ろす。俯いて脱いでいる途中、おばさんは「恥ずかしがらなくていいの」とため息混じりに言った。
「別にいやらしい気持ちなんかないんだから。バカなこと考えないでよ」
「……」
一番下まで下ろして、二つの穴から両足を潜らせる。自分の横に落ちている服の上にパンツを乗せると、おばさんは「そうよ、できたじゃない」と言って何度か頷いた。
 寒い。体が震える。裸になった自分を見られている。ギュッと目を瞑ったけど恥ずかしさは少しも消えなかった。
「…はあ…時間かかったねえ、ほんとに」
「……」
「今日はずっとそのままでいなさい。私だって恥ずかしい思いたくさんしてるんだから。こんなの、甘い方よ?甘過ぎるって怒られちゃうわよ、私」
「……」
「ありがとうございますでしょ」
「…あ…り、がとうございます…」
いつもは、もっと簡単に言えるのにどうして。だけど上手に言えなかった。言いながら泣いてしまった。体を震わせて泣く俺を見て、おばさんはヤレヤレとうんざりするように、首をゆるく左右に振った。
「泣きたいのはこっちなんだから…やめてちょうだいよ」
おばさんはそれからダイニングテーブルの一脚に腰掛けて、テーブルの上にある煎餅の包装を破いた。バリバリと噛み砕く音がやけに大きく聞こえた。俺がまた逃げ出したりしないようにと、おばさんは、一瞬だって俺から目を離さない。
「泣かないの。男の子でしょ」
泣きたくて泣いてる訳じゃない。勝手に、さっきから溢れるんだ。震えも止まらない。止まれと思えば思うほど、俺の呼吸はメチャクチャになって声が、嗚咽が、漏れた。
「やんなっちゃうわ。悪いことしてるのはアンタの方だって言うのに」
「……」
「私が悪いみたいじゃない?やぁね〜…本当に」
バリバリ。また新しい煎餅がおばさんの口の中で粉々になる。

 それからニ時間くらい、おばさんは椅子に座ったままぼんやりと俺を眺めていた。ぶたれないし、ひどいことも言われない。だけど間違いなく今までで一番つらい時間だった。いつ、終わりの合図が出るのか。その瞬間だけを俺はひたすら待っていた。
 夕方のチャイムの音が、遠くで聞こえた。おばさんは「あら、もうそんな時間なの」とひとりごとを呟いた。
「…どうしようか。躾の途中だけど…そろそろごはんの用意もしなくちゃいけないし」
「……」
「忙しいの。忙しいのにアンタの為にこんなに時間を割いてやってるの。わかる?ねえ」
「……」
「ん?」
「…ありがとう…ご、ざいます…」
「そうだね。そう言うのが正しいよね」
おばさんは椅子から立ち上がり、俺の頬をペチペチと軽く叩いた。
「雨戸をね、閉めてくるから。ここから動かないで?」
「……はい」
「すぐ戻るから。ね?待ってなさい」
おばさんは、まずダイニングの隣の部屋の雨戸を閉めた。何度も俺の方を振り返って、動いていないか確認をしながら。
 雨戸のある部屋はもう一つある。おばさんとおじさんの寝室だ。寝室はダイニングから一番遠くて、どうしても二つの部屋は視覚が遮られる。おばさんは寝室へ行く前にもう一度俺の元へやってきて、それから「わかってるね?」と念を押した。
 何度も頷いた。涙を流しながらブンブン頭を縦に振った。おばさんは俺の必死さに満足したのか「すぐ戻るからね」と最後の忠告をして、寝室へ移動した。
 おばさんが見えなくなった瞬間、俺はランドセルの中にある国語のノートを急いで取り出した。胸に抱いて、ダイニングテーブルの向こう側にある電話機へ駆け出した。
 裸のまんまで外へ出るのは、嫌だ。できない。だけど服を着る時間はない。逃げようとする俺に気付いたらおばさんは今度こそ、俺を包丁で刺すかもしれない。だったら数字を11回。11回押すそれだけなら、急げばきっと間に合う。
 穂輔が書いたページを震えながら開いて、震えながら受話器を持って、震えながら数字を押した。
 早く、早く、急げ、間違えるな、慎重に、だけど急げ。
 ノートに書かれた通りの11桁を押し終えて、最後に発信ボタンを押す。寝室の窓はちょっとだけ立て付けが悪いから、数秒、さっきより時間がかかるはずだ。まだ向こうでガタガタと、おばさんが雨戸を押したり引いたりする音が聞こえてる。もう、この瞬間しかない。これを逃したら、チャンスは二度とない。
 五回くらいコール音が鳴って途切れる。
「…穂輔!」
咄嗟に名前を呼んだけど、電話の向こうから聞こえてきたのは穂輔の「もしもし」ではなくて留守電サービス案内だった。そうだ、仕事中は出れないって、そういえば言ってた。きっと今働いてるんだ。
 向こうの部屋から雨戸を直す音が止まる。もうダメだ戻らなくちゃ。俺は受話器を元に戻して、大急ぎでさっき立っていた場所へ駆けた。
 おばさんの姿が壁の向こうからヌッと出てくるのとほとんど同時、俺はさっきと全く同じ状態になることができた。ノートをランドセルにしまえなくて服の下に隠したけど、おばさんはそれに全然気付かなかった。…良かった。死ぬほど心臓がバクバクしてる。バレてない。ホントに、ホントに良かった。
「……」
おばさんはまた椅子に座り、裸の俺をぼんやりと眺めた。
「…ご飯作らなきゃ…今日は何にしようかなぁ…」
組んだ足をプラプラ揺らして、おばさんが鼻歌を歌う。乾いた涙の跡で突っ張る頬をヒクヒク動かしながら、穂輔に俺は祈った。
 お願いだ、気付いて。俺が電話をかけたことに気付いて。

 時刻は夜。七時を少し回った頃だ。雨戸を閉め切っているから外の様子は何一つ分からないけど、向こうの部屋で垂れ流しになっているテレビ画面の右上に表示された時刻で、今が何時かを知った。
 おばさんは解凍した冷凍食品と惣菜を何品かテーブルの上に並べて、またダイニングテーブルの椅子に腰掛けながら俺を眺めていた。時折テレビの方に目をやって「あら、美味しそう」とか「おっもしろいこと言う人ね」と感想をこぼした。
「そろそろ服着たい?龍彦くん」
「……」
頷くと、おばさんはにっこり笑った。
「いい躾になるねぇ、これ。お互い痛くないし疲れないしね?いい方法思いついちゃったなぁ」
「……」
一体いつまで。もう足の感覚がない。寒さと疲れで、上半身がフラフラする。
 目を閉じたらこのまま眠れないかな。何もしてはいけないならいっそ、気を失ってしまいたい。ひっそり願って瞼を下ろしたら、ちょうどその時だった。インターホンの音が部屋中に、唐突に響いた。
「…あら。誰かしら」
インターホンの音は一回では済まなかった。五秒くらいして、今度は四回連続で鳴る。郵便や宅配の人かと最初は思ったけど、きっと違う。だって普通こんなに短い時間に何度も鳴らさない。あ、ほらまた。今度は連続で五回鳴った。
「やだもうなに?迷惑だわ」
恐らく居留守を使う気だったおばさんは、面倒臭そうに玄関まで歩き、ドアの覗き穴で向こう側にいる人物を確認した。それで、確認するなり血相を変えて、今度はこちらへ大慌てで戻ってきた。
「アンタ服着なさい!早く!」
「…え」
「早くしてほら!早く!!」
言われるがまま俺は、数時間ぶりに服を着た。ずっと突っ立っていたから身体中がギシギシして、素早く動けない。おばさんの「早くしてっつってんの!」という声に急かされて、俺は少しだけ慌てる。
 全ての服を着たことを確認すると、おばさんは「ここ座っときなさい」と、ダイニングテーブルの一脚に俺を座らせた。
 また、大慌てで玄関へ走る。俺はおばさんの後ろ姿を見ながら、もしそうだったらって、でももしそうじゃなかったら悲しいから、ドアが開かれるまでのこのひと時に期待しちゃダメだよなって、だけどそうかもしれないどうしてもそんな気がするって、シーソーみたいに揺れながら、涙がまた勝手に出そうになるのを、必死で堪えてた。
 …だって、なんとなくわかったんだ。インターホンの押し方で。
 おばさんがドアを開ける。向こう側に立っていたのは、やっぱりだった。見間違いじゃない。頭の中の想像じゃない。
 たぶん仕事着なんだろう、紺色のつなぎ姿で、少しだけ息を切らして、決して閉められないようドアに手をかける。
 おばさんを通り越してその奥にいる俺を見つけたその人と、目が、しっかり合った。

「……穂輔…」

 声は聞こえなかったと思う。ちょうど同じタイミングで喋り出したおばさんの「やだわ稲田さん、どうしたんです?」の声にかき消されちゃったから。

 来てくれた。穂輔が、俺のところに。
 …ありがとう。「諦める」のレバーが、今ね。ゆっくり下へ降りたよ。












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