名前を呼びます 2





 どれ位の時間、そうしていただろう。
 俺のしゃくり上げる声が収まるまで、サンジはずっと黙って待ってくれた。

涙で濡れた首元が蒸れてかゆい。起き上がるのがだるくなる程泣いてしまった。

「落ち着いたかよ」
 サンジは首を傾げて俺の顔を覗きこむ。
ここに来てから何だかしこたま優しいサンジの態度に、俺は完全に甘えきっていた。

「…ん」
リストバンドで目の周りをごしごしと拭いた。
泣いた事でだいぶ体力を消耗したみたいだ。しゃきしゃきと答えられなかった。

「良かったぜ、俺が心配性でよ」
「…うん?」
「頑なに俺が扉開けるの拒んだだろ。でも変だったんだよ、声が」
「…変だった?」
「変だった。だから黙って扉の前で待ってやろうと思って」
確かにあの時、工具箱を床に置く音は聞いたが、遠ざかる筈の足音を聞いていなかったなと思い出した。
まんまとサンジの思惑にはまってしまったわけだ。

「…してやられた」
「してやられてろ。お前はそれ位でちょうどいい」

俺の頭に置かれたサンジの手が暖かかったので、そう言うならそうなのかな、と流されそうになった。
慌てて首を振る。いやいやいやちょうどいいってなんだそりゃ。

「…ウソップ、お前はな、嘘つきだ」
サンジが俺の両耳をつまみ左右へ広げた。あまり強い力ではなかったが思わず「いてえ」と言ってしまった。

「でも幸いな事に、あんまり嘘が上手くねえ」
耳をつまんでいる手を更に左右に広げて、サンジはそのまま耳からその手を離した。
今の動作にどういう意味があったのかよく分からない。
「良かったなウソップ。俺が見破るの上手くて」
 その笑顔に、俺はもう呆れちまう位弱い。
 俺の気持ちを一向に見破ってくれそうにない鈍感なサンジに「分かってねえなあ」と言いたかったけど、それは言わずに笑い返してやった。

「で。嘘つきで意地っ張りで泣き虫なウソップ君の悩みはなんだね?」
ふざけた時の俺の口調を真似てくるサンジに腹が立ったので、軽くチョップを入れてやる。「倍で返されてえか」と、チョップの手を構えてくるので即座に「すんませんでした」と謝った。

「クソマリモ関連か、当たりだろ」
大はずれだっつうの。

「別に今更、何聞いても俺ぁ傷つかねえよ。変な気使うな」
口を割らない俺の肩を、バカサンジがぽんぽんと叩く。
おいおい誰が見破るの上手いって?泣いた原因は主にてめえだよ阿呆。

「…違う」
「うん?」
まだ肩の上に乗っている手を払いのけ、俺は「ゾロは関係ねえ」と告げた。
この手にあらぬ部分を触られるというあらぬ想像をしていた事を、お前は知る由もないだろう。
知ったらどんな顔すんのかな、考えたくもねえけど。

「じゃ何だよ」
お前だよ。
風の速さでつっこんだ。勿論心の中でだけ。

「……言えない」
本当にそれしか言えないのに、サンジはそんな俺の言葉を「素っ気無い」と受け取ったみたいだ。
むっとした表情をした後「かっわいくねえ」と吐き捨てた。

 俺が意地っ張りで嘘つきだというなら、お前は短気で我が侭だよな。
それが許せる時も勿論あるけど、今は残念ながらその時じゃねえ。

 俺は俺の気持ちを隠す事でいっぱいいっぱいだというのに、どうしてこうお前は、ズカズカと内側を荒らしてくるかなあ。
そっとしといてくれねえかなあ。ああもう。

「あーそうですか、チョッパーの前で俺に抱き締められたのが泣く程嫌だったって事かよ」
「…なんでそうなるかな…言ってねえだろ誰もそんな事は」
「じゃあ言えよ言えんだろ!人がこんな気遣ってやってんのによお」
「別に頼んでねえし」
「おっ前…マジで今クソ可愛くねえぞ」

 売り言葉に買い言葉ってやつだ。苛立ちが互いの言葉からどんどん溢れ出た。
だからさ…今、お前の我が侭に付き合ってる余裕ないんだって。俺は頭を抱える。
まあサンジも「お前の意地には付き合いきれねえ」と思ってるんだろうけど。

「…あ〜…もう…」
サンジが頭をガリガリとかきながら項垂れた。相当イラついてるみたいだ。
そうさせてるのが俺だと思うと、俺も全然いい気がしなかった。

「ちげえんだよ。俺はこんな事言いに来たんじゃねえ」
サンジは自分の両頬を掌で「ぱんぱん」と叩いた。
イラついてるのは、そうか、俺にじゃなくて自分に、なのかな。

「…お前がさ、誰かに泣かされてんだとしたらさあ」
「…」
「俺はそいつがクソ許せねえし、蹴り飛ばしてやりてえわけ」
短気ならではの思考回路だ。
でもそう思ってくれるのは純粋に嬉しかった。
慌てて、嬉しさが顔に出ないよう小さく咳払いをした。

「それを、お前がいつでも俺に言ってくれればいいなって…思ったんだよ、悪いかよっ」
機嫌悪そうに言うのは、恥ずかしさを誤魔化しているからだとすぐに分かった。

「…で、言ってくれねえから…拗ねた。イラついてごめん」
「…」

昔はあんなにこじらせていたというのに、随分と素直に謝るようになったもんだ。
サンジの成長ぶりに純粋に感動してしまった。
 …そうだよサンジは、いつだって一生懸命、俺に接してくれていた。
勝手だなとか、見当違いだなと思うことはあっても、俺はいつもそういうサンジの優しさを待ってたんだ。

「俺も…ごめん」
苛立った空気はお互いのごめんの言葉ですっかり消えた。
残っているのは、妙な恥ずかしさだ。

沈黙に耐え切れず、サンジが「ええと」と言った。
「次は、ちゃんと俺の所来いよ。…ああ、来れそうだったらでいいけど、うん」
一人頷くサンジに、俺は短く「分かった」と返した。
そんな言葉一つで、サンジは笑う。その笑顔に罪悪感が一層重たくのしかかった。

 何をしていたのかも、何で泣いていたのかも、結局言わないまま俺はまた、やり過ごすつもりなんだ。
俺なんかを探して、ここまで来てくれたサンジに、全部隠して。

「よし、昼飯の準備でもすっかな」
立ち上がり、サンジは両腕を真っ直ぐ伸ばした。
きっと俺が泣いた理由を聞きたくて仕方ないだろうに、最後まで笑って「飯時はちゃんと来いよ」とだけ言った。

 扉に手をかけるサンジを見て、どうしてかその後ろ姿に「待ってくれ」と、声をかけてしまった。
声をかけてから何で呼び止めてんだろう俺、と我に返る。

「…おう、どうした」
サンジは振り返るが、続く言葉が何もない。
当たり前だ何で呼び止めたのか分かんねえんだから。

 だけどサンジは、待ってくれた。
飯の準備で急がなきゃいけない筈なのに、わざわざもう一度しゃがみ直して、急かす様子もなく。ただ黙って、待ってくれた。

「…俺、俺さ…」
ちょちょちょ、ちょっと待て俺よ。
言う気か?本気か?今何をしてたか、言っちゃうのか?言ったら後戻りできねえぞ?
考え直せ一回深呼吸しろ。やめとけって!

「……サンジ…俺」
必死で俺を呼び止める俺の声が聞こえる。
だけど俺はもう言ってしまいたいという気持ちで胸がいっぱいだった。
 それは結末を急いてるせいでも大逆転ハッピーエンドに賭けてみたくなったせいでもない。もうこの罪悪感の置き場をどうしていいか分からなくなってしまったからだった。

「…俺、最低、で…あの…」
言ってしまったらどうなるだろうという恐怖で俺の喉は震えた。
サンジは心配そうに俺を見つめる。
ゆっくりと、俺の手をサンジの手が包んだ。

「…サンジ」
また、視界が揺れる。
もう散々泣いたのに、一体この涙は何処から湧いてくるんだろう。

「…ウソップ?」
「っ…ごめん、サンジ、俺さあ…」
「ウソップ」
サンジが強く、俺の名前を呼んだ。
「あのな、絶対お前は最低じゃねえから。そこだけ訂正しろ、な?」
 握られた手が、じんわりと暖かい。サンジの言葉に声を出さず頷くと「よし」と言われた。

「いいぞ。言えるまで待つ」

手は繋がれたままだ。サンジはじっと、俺の言葉を待ち続けてくれた。

 ああ俺お前が大好きだよ。好きで仕方ない。この手、ずっと、離さないでほしい。



「………さっきまでここで、一人でしてた、俺…」

 お前の事考えながら。続く筈だったその言葉は、どうしても言えなかった。その代わりに握られた手にほんの少し力を込めた。
ああこの手が前触れもなく離れてしまいませんように。

「……おう…」
戸惑っているのが顔を見なくても分かる。サンジは俺になんて言ったらいいか分からないんだ。
…そりゃそうだよ。こんな事告げられたってどうしていいか分かんねえのが普通だ。
この手を払いのけられないだけ、今は有難いと思おう。

「あの…それだけ?」

見上げると、頭の上にでっかいクエスチョンマークを乗せたサンジが首を傾げていた。

「別にそんな報告するような事じゃ…あ、まさか初めてっつうオチか?」
「はっ、はっ、初めて、じゃねえよ」
「じゃ何でそんな事で泣くんだよ」

俺にとっては一世一代の告白だと言うのに、サンジのこの反応はどうだ。
オ、オ、オナニーって、そんな、軽い、もんなのか。
認識の違いに戸惑っているとサンジが突然「分かった!」と感嘆の声を上げたので、俺は思わず顔を上げた。
サンジは手をぽんと鳴らし、閃き顔をしている。

「…うん。でもな、やっぱり最低じゃねえよお前は」
優しい顔をしてみせたサンジに、訳も分からないまま頭を撫でられた。
…こいつ何が分かったんだろう。

「…もしかして、あの…いってない?まだ」
申し訳なさそうにサンジが尋ねてきた。
黙って頷くとサンジは「…ごめん」と言いながら、また頭を抱えた。
 「間がクソわりぃ…俺」という呟きが聞こえたので、俺もそう思うよと内心頷いた。
傷付きそうだから言わないでおくけど。

「…あのさ」
サンジが頭を垂れ下げたまま、言った。
「手伝ってやろっか」

 その言葉の意味が分かるまで数秒かかった。
…て、て、て、手伝うって、さっきまでの、あれを?サンジが?

 涙は止まったが、今度はドクドクと脈がとんでもない速度で打たれ始めた。
さっきまでのいかがわしくて思い出したくもない汚れた想像が全部丁寧に脳内で再生された。
な、な、なんだよこれ。本人登場ドッキリかよ。

「………だ」
「だ?」
聞き返してくるサンジの顔が少しだけ赤い。いや俺の方が赤いと思うけど。いやそんな事今はどうでもいいけど。

「だ、めだ」
「…なんで」
サンジがこれでもかと俺の顔を覗きこんでくるので、両手で顔を覆った。
なんでって、なんでってお前!そんな見るんじゃねえよ!あ、あ、あっち行け!

「…もう、収まってるから…いいです」
「…」

物音一つにさえかき消されてしまいそうな声で、ぼそぼそと喋るのが精一杯だ。
 ならいいけど、とか言ってこの場を去ってくれるかなと思ったけど、俺のささやかな願望は木っ端微塵に砕かれてしまった。

 サンジは何を思ったか、俺の股間辺りを手の甲で唐突に撫でたのである。

「ふぉっ!!!???」
あまりにも急で何の心の準備もしていなかったため、全身が硬直状態になった。
顔を隠す為覆っていた手を恐る恐るどけると、悪戯っぽく笑うサンジがそこにいた。

「…うそつけ」
にっと笑うサンジを見て、俺は言葉を失った。
…恥ずかしくて、本当に恥ずかしくて、俺はこのまま気を失ってしまうんじゃないだろうか。

「んな死にそうな顔すんなよ。大した事じゃねえんだから。青春の一ページと思ってさ、な?」
大した事じゃない訳あるか。大事件だこんなの。
何で笑ってんだよ何だよ青春の一ページって手ぇどけてくれよお…。

「だぁから泣くなって!こんなん普通だ普通」
目一杯首を横に振るが「どんだけナイーブなんだよお前は」と溜息をつかれるだけだった。
サンジは相変わらずラフな態度で俺を励まし続ける。

「俺も初めて知り合いで抜いた時ゃそれなりに落ち込んだけどよ…ま、いいじゃねえか。気持ち良けりゃ何でも」
「………?」

 サンジのその言葉が頭の中で何度もぐるぐる回った。何週かした後「あれ?「サンジの事考えながら」って、言えたんだっけ?」と思い返す。
…言ってない、よな?あれ、ばれた?何で?
と言うかばれたにも関わらずこいつのこの爽やかな表情はなんなんだ。

 足場がガラガラと崩れていくような錯覚を覚える中、サンジはそんな俺には全く気付かない様子で、ケロリと続けた。

「むしろマリモは感謝してもいい位だな。オカズにして下さって有難う御座いますってよ」
「………え」
「っとに…俺ぁ羨ましいよクソ剣豪が」

 ………ああ………。

 そっか、そういう事か。
サンジは俺が生まれて初めて、知り合いをネタに自慰をしてると…そしてつまりゾロをネタにして抜いてると、思ってるんだな。
…こんな、ドヤ顔を披露して。

 さっきまで硬直していたのが嘘のように、全身の力が抜けていく。
こんな話があるかよ。お前の言動にいちいち肝冷やされる俺がアホみてえじゃねえか…。

「…自分でやるより、いいと思うけど。…どうよ」
もう一度サンジが俺の股間に手を当ててくる。
今度は奇声こそ漏れなかったが、肩が勢い良く跳ね上がった。

 サンジが俺を見る。長めの前髪から覗くその目に、簡単に心を射抜かれる。
じっと見つめられるだけで、こんなにドキドキする。
…悔しい。俺はいっそお前を殴ってやりたいよ。

「………」
相変わらず勘違い絶好調のサンジの誘いに、返事もしないまま、俺は兎に角思考を張り巡らせた。

 …もし、もしもだ。
俺がここで頷いたらこいつは、勘違いをしたまま、それでも俺に触ってくれる。
何度も俺に「大した事じゃない」って言い聞かせながら、きっと優しく、なだめるように触ってくれる。
 だけど俺が、サンジの誤解を解く為本当の事を告げたらどうなる?
こいつは驚いて、後ずさって「誰でもいいのかよテメーは」とか言って幻滅されて…この場から去ってしまうかもしれない。
それだけならまだいい。今後一切、口を聞いてくれないかもしれない。一生避けられるかもしれない。
…そんなの絶対に嫌だ。俺には耐えられない。
 いっそ何も言わず逃げ出してしまおうか。
…いや駄目だ。しつこく追い掛け回された挙句逃げた理由を根掘り葉掘り聞かれるに決まってる。
っつうかそれ以前に勃起したままここから出られる訳ねえし。

 俺が黙ったままでいると、サンジは焦れたのか「返事しろ鼻」と催促してきた。

「…」

 …だめだ。だめだったら。目見ちゃだめだ。
自分の意志の薄弱さをなめんなよ俺。流されるだけなんだから。

「…サンジ」
だめだって。サンジの優しさを利用して、甘えようとすんなよ。

 …でも、もう俺は分かってた。俺を止める俺の声が段々小さくなっている事も、俺が次に言ってしまうだろう最低な言葉も。

「………て、手伝って…」

 罪悪感の代わりに高揚感で体が震えた。

なあサンジ。俺はやっぱり最低だよ。
自分を罵倒するのも後回しにして、頬に触れるお前の手の温度をひたすら、必死に追いかけてるんだ。






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