chapter.1-4



 ランドセルの中身を並べ終えてから、ほすけは携帯電話の画面で時間を確認した。
「あー…なんか食う?」
ほすけは「つっても俺なんも作れないけど」とも言った。食べることを考えたら急にお腹が空いてきて、俺は自分の薄っぺらなお腹をさすってから頷いた。
「なに食いたい?」
「…えと、えっと…」
「うん」
「…あの、パン以外…」
「パン?」
何にも乗ってない、焼いてもないそのままの食パン。朝決まって出てくる自分の朝食を頭の中に思い描く。夜ごはんも、あの人が機嫌良くない時はいつもそうだ。もう一生分はきっと俺は食パンを食べている。だからできれば、それ以外が良い。
「そっか。俺もパンより米が好き。じゃー出前頼む?それかカップ麺ならすぐ食えるけど」
ほすけがそう言うなり、俺のお腹が動物の鳴き声みたいな音を立てた。恥ずかしくて思わず俯いたけど、ほすけは笑うこともしないでただ「俺も腹減ったー」と呟いた。
「じゃーカップ麺食お。足りなかったら出前頼んでさ」
「……うん。あ、はい」
「うし」
台所へ移動して、それから白いポットに水を入れ丸型の台の上に置く。コンセントを刺してスイッチを点けるとポットの下がオレンジ色に光った。きっとあれでお湯を沸かせるんだ。便利だな。
「そっち座ってテレビ観てていーよ」
「うん。…あ、はい」
言われた通りソファに座って、テーブルの上のリモコン、その電源ボタンを押す。画面に映ったのはバラエティーの番組だった。「七味唐辛子に取り憑かれた女」というテロップと一緒に、女優さんが真っ赤になったうどんを啜っている。
 画面の左上に、時刻が表示されてるのに気付いた。「20:18」。玄関のドアの外、邪魔にならない隅の方に立って反省してなさいと言われたのが確か16時半頃だった。あの人らのことをチラリと考えて、それからすぐに暗い気持ちになる。
 俺を探してなんかない、心配してなんかない。それは別に全然いい、だけどあの人らは心底どうだっていいくせに、帰ってみせればその途端すごく怒るのだ。どこにいた、心配させるな、迷惑かけるな、同じことを言わせるな。お決まりの言葉を俺にぶつけて、言葉の数だけ頭や顔を叩く。
 一生、帰りたくないと思った。ずっと思ってた。俺はずっとずっとずっと思ってた。
 あそこは、だって、帰る場所じゃない。俺の居場所だったことなんか、一度もない。
「どっち食う?」
 テレビの中の人がうどんを食べ終える頃、ほすけがそう言って、蓋をしたカップ麺を二つ運んできた。一つは醤油とんこつ、もう一つはワンタン麺だ。それぞれの蓋の上に、おもし代わりの割り箸が乗っている。
「…どっちでも、いい。…です」
「そー?じゃ俺とんこつ」
ほすけが俺の方にワンタン麺をズラし、とんこつを自分の方へ寄せた。
「……」
 今の「どっちでもいい」って言葉、嫌な感じに聞こえなかったかな。それがちょっと不安でほすけの顔をチラッとうかがう。だけど全然気にしてる様子がないからホッとした。…良かった。
「チャンネル変えていー?」
ほすけが床にあぐらをかいて、テレビを観ながらそう言うので俺は慌てて頷いた。
「あの、はい」
「うん」
ほすけがリモコンのボタンをパッパッと操作する。少しして映ったのは音楽の番組だった。外国の音楽がひたすらPVで、とにかく次から次へと流れる。こんな番組があるんだ。初めて観た。
「……」
テレビを観るほすけを、こっそり見る。
 髪の色と目の色が特徴的だなと思った。どっちもなんとなく灰色が混ざってる。黒が濁ったような、雨雲みたいな色だ。背はそんなに高くない。年齢は…よくわからない。たぶん二十代なんだろうけど、いやでももしかしたら三十代の人なのかもしれない。
 ほすけは、この家に一人で暮らしてるんだろうか。…家族は?仕事は?もしかして学校に通ってるんだろうか。
 この人のことを俺はほすけという名前しか知らないのに、なんだか不思議だった。だって名前しか知らないのに、この人が怖くない大人なんだろうってなんとなく、だけど絶対そうだろうって、俺はさっきからずっと感じてる。
「…もーいっか。食っちゃお」
熱湯五分と書かれた蓋を、たぶん五分しないでほすけはベリベリ剥がした。湯気がモワッと昇って油の匂いがする。また、自分のお腹が鳴った。
「そっちも、もーいんじゃない?」
ほすけに言われて俺も蓋をゆっくり剥がす。湯気の向こうに茶色いスープと黄色い麺と、それからいくつかのワンタンが見えて、口の中でヨダレが出た。
「あの、いただきます」
「うん」
ほすけは、相槌を打つなりすぐに麺を啜った。すごく速く、しかもすごく沢山啜るからちょっとビックリした。十秒くらいでカップの中の麺が殆ど消えてしまった。…熱くないのかな。
 俺も食べようと器に左手を添える。箸を握るのがあんまり上手くないから麺は何回か逃げたけど、三回目でようやく掴むことができた。口の中に入れる。数回噛んで、飲み込む。
「……美味しい…」
美味しい。ホントに美味しい。何回口に運んでも、何回飲み込んでもビックリするくらい全部美味しい。
「ね。やっぱ日清だよね」
ほすけが顔を上げてちょっと嬉しそうに笑った。笑ったほすけのカップ麺の中身はもうスープだけだ。そう思った矢先、片手で器を持って中身をゴクゴク飲み干すから、それがあんまり速いから、俺も慌てて麺を吸い込んだ。
「ゆっくり食いなよ」
食べ終わったほすけが俺に声をかける。とろいと思われたくないから速く食べたいのに、熱くてなかなか勢いが付けられない。何でほすけは平気なんだろう。
「…それで足りそー?」
ほすけの質問に、口を動かしながらコクコク頷く。ワンタンを一つ食べてみた。美味しい。スープを、息を何度も吹きかけながら飲む。全部美味しい。
「…美味しい」
「あは、そんな?良かった」
…ほすけが笑うから、笑いながら俺を見るから、嬉しくて、ホッとして、目に映るワンタン麺がボヤボヤ滲んだ。スープでお腹の中があったまる度、どうしてか涙が出た。
 ほすけが俺から視線を外してテレビを観る。それがわざとだってわかったからもっと涙が止まらなくなった。
 見ないでくれたんだ。今。なんにも言ってないのに。
 この人は「待って」と言ったら待ってくれる。「見ないで」と思ったら見ないでいてくれる。それが嬉しくて、今までそんな大人は俺の周りにあんまりいなかったから、どうしてこの人はこんな風に接してくれるんだろうって不思議だった。
 スープだけになった器を両手で持って中身をゆっくり飲む。スープが喉を通って胃袋に落ちて、冷たかった何かがジワジワ溶けていくみたいな感覚がした。美味しい。カップ麺ってこんなに美味しかったかな。…おかしいな。
「ごちそうさま、でした」
空っぽになった器に割り箸を置いて頭を下げると、ほすけが「うん」と言って自分の器と俺のを重ねた。
「あ、ごめんなんか飲む?飲み物入れんの忘れてた」
「うん。…あ、いや、はい」
「別に「うん」でいーよ」
「……」
うん。…うんって、言い直したかったのに。また視界がユラユラ滲む。喉の奥が狭くて熱くなる。
「…お、おっ俺……」
「……ん?」
「…か……帰りたくない……」
狭くなった喉から出てきた言葉はそれだけ。たったそれだけだ。
 ほすけはあぐらのまんま、笑うでも目を逸らすでもなく、ただじっと俺を見ていた。
「……うん。わかった」
それだけ言って、俺が泣き止むまでテレビを観ながらほすけは、また、待ってくれた。
 知らない人が知らない歌を歌ってる。英語の歌詞が一行ずつ流れる。テレビから聴こえる音楽が日本語の歌じゃなくて良かったなって、全然聴いたこともない知らない歌で良かったなって、その時、なんとなく思った。









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