chapter.1-3



 ほすけ。あんまり聞き慣れない響きだ。どういう漢字を書くのかよく分からない。
 頭の中で「ほ」の漢字をいくつか思い浮かべていると(保とか歩くらいしかその時は思い付かなかった)、いなだほすけと名乗ったその人は「じゃーつぎ俺風呂もらうね」と言って、俺の横をすり抜け脱衣所へ向かった。
「……」
殺風景な部屋に一人残される。俺は辺りをキョロキョロ見渡した。
 広いリビングには横長のソファーと、同じくらい横幅のあるテーブル。テーブルを挟んだソファーの先にはそこそこ大きなテレビがあった。
 ソファーの端に、俺のランドセルが置いてある。ランドセルの隣に適当に丸められたタオルも置いてあるから、きっと俺が風呂に入っている間あの人が拭いてくれたんだと分かった。
 ソファーに近づきランドセルを開ける。
 中はやっぱりビチョビチョだった。教科書もノートも、筆箱の中まで水びたしだ。乾かしたら、またちゃんと使えるだろうか。雨を吸ってヨレヨレになった教科書を一冊取り出し、せめてもの気持ちで表紙と裏表紙を拭く。
「……」
こんなものを見せたらあの人はきっと強く怒るだろう。誰の金で買ったと思ってるんだって、お前はいつもそうだって、物を大切にしない、人を大切にしない、感謝ができない、物覚えが悪い、取り柄がない、乱暴者でバカでかわいさのかけらもないって、きっと顔を叩かれて、玄関か風呂場で寝なさいって言われて。
 拭いても拭いても本は乾かない。表紙の印刷は少し剥げてますますボロボロの見た目になった。暗くて冷たい気持ちになった。俺の毎日はいつも暗くて冷たい。すごく暗くて、すごく冷たい。
 拭いてもあんまり意味がないかもと気付いて、俺は手を止めた。薄汚れた教科書がまるで自分みたいに思えた。一度ボロボロになったものは、もう元の状態には戻らない。いつから、どこから、俺は元に戻れなくなったんだろう。
 ぼんやりしていると、後方から脱衣所のドアが開く音がした。いなださんが風呂から上がったのだ。
「お待たせ。ランドセルん中、どー?」
首にかけたタオルで頭を拭きながらいなださんが俺の側へ寄ってくる。中から取り出した一冊の教科書を見下ろして、いなださんは「あー」と言った。
「なんか紙の上に乗せとこっか。乾けば多分だいじょぶじゃない」
「……」
振り返って、俺の後ろからランドセルの中身を覗き込むいなださんを見上げる。俺の顔が不安そうに見えたのか、いなださんは少し笑って「だいじょぶだって」と言った。
「俺もさー、昔よく降られてビショビショにしたことあんだけど。乾いたら使えるよ、全然」
「…そう、ですか…」
「うん。なんか紙持ってくるわ」
いなださんがリビング奥の扉を開けてガサゴソと漁った。扉の隙間からちょっとだけ、部屋の様子が見える。リビングも台所もこんなに片付いてるのに、その部屋だけはとても散らかっていた。物置がわりにしているのかもしれない。
「これでいっか。中身出して並べとこ」
いなださんが部屋から持ってきたものは数個の段ボール箱だ。手で箱を開いて、ソファー近くの床にそれを広げる。
「あー…たつひこ、だっけ。ここ並べときな」
「…はい」
ちょっとぶっきらぼうで、ちょっとかたくて、ちょっとだけよそよそしさを感じる。だけどその人の口から出た俺の名前は、その響きは、その後何回も俺の頭の中で繰り返し鳴った。
 いなださんはなんだか不思議な人だった。何も聞いてこない。必要以上に近づいてこようとしない。でも冷たくない。緊張するけど、怖くない。俺が知ってる他の大人の誰とも違う。
「…すみません、いなださん」
「ん?」
「ご面倒おかけして」
俺の言葉にいなださんは今までで一番大きく笑った。
「はは、なにそれ役所の人みたい」
「…役所…?」
「こーゆー時はさー、いんじゃないの?ありがとうで」
「……」
開いた段ボールを並べながらいなださんが笑う。俺は自分の口にはあまり馴染みのない言葉を、ちょっとだけ戸惑いながら声にした。
「…ありがとう。いなださん」
「…呼び捨てでいーよ」
「え」
「なんか苗字にさん付けって慣れないわ」
「……いなだ」
「あはは」
いなださんは「違うし」と言って、またおかしそうに笑った。
「穂輔だってば。さっき自己紹介したじゃん」
「……」
広げた段ボールの上、濡れたノートや教科書を一緒に並べながらやっぱり不思議に思った。
 俺はどうしてこの人がこんなに、怖くないんだろう。どうしてこの人は俺のことを最初の一回目から「安藤くん」じゃなくて「龍彦」って、呼んだんだろう。
 濡れた教科書たちが一つずつ並ぶ様は、なんだか何かの畑みたいだ。乾いたらまた使えるという言葉が、今更嬉しくて、すごくホッとした。
「……ほすけ」

 ご面倒おかけしてより、ありがとうよりずっと、その三文字は言いやすいなぁと思った。








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