雨と炭酸水 2
翌日もやっぱり雨はやまなかった。
うだるような暑さと腹立たしい湿気に、いい加減みんな嫌気が差していた。
案の定チョッパーは「漏らした!」とルフィにからかわれていた。
涙目になりながら否定しているチョッパーの為、誤解を解いてやろうかとも思ったんだけど、何だか体中だるくて、俺はただ黙ってそのやり取りを見ている事しかしなかった。
サンジは結局朝になっても男部屋には戻ってこなかった。
あの後キッチンで少しでも眠れたのかな。いや、眠れてねえだろうな。
だって俺も、一睡も出来なかった。
朝飯はどんな顔していいか分からなかったから、極力飯だけを見つめてひたすら口に食べ物を運んだ。
他のやつらに「朝からすげえ食欲だな」と言われたりもしたが否定するのも面倒で「暑さに負けてらんねえからな!」と適当に返しておいた。
飯を食っている間、結局一度もサンジの事を見なかった。
また「避けられた」って傷付いたかなあ。
でも仕方ない。今回ばかりは俺もどうしようもない。
自分の気持ちに向き合うのが恐くて身動きが取れないんだよ。
一言だけ交わした言葉は「ほら」と「おう」だけだった。
それはサンジが空になったコップに二杯目の飲み物を注いでくれた時だったんだけど、目を合わさないまま「ありがとう」も言わない自分なんて初めてで、無性に情けなくなって、心の中で「ありがとう、ごめんな」と付け加えた。
その後チョッパーと一緒に風呂に入って(勿論水風呂)、雨の降る甲板にもサンジの後姿を気にしなきゃいけない工場にも行く気になれず、今こうして男部屋に一人、大して描く気もないくせにスケッチブックを開いている。
半分くらいまでページが使われたスケッチブックには、ほとんどこの船のクルーの絵しかない。
静物画や風景画も大好きだけど、船上生活中はやっぱり、皆を描いているのが一番楽しい。
表情や、触れないと分からない温度、みたいなものを、描写だけで表すのはなかなか根気がいる。
昔のページを捲ると、自分でも笑ってしまう位、ゾロで埋まってた。
何でこんなに苦戦したかなあ。今の俺ならスラスラ描けるだろうな。だってもう、ゾロを見ていて苦しくなる事なんてないんだから。
×の印で無理矢理中断されてばかりのゾロのページの後、少しするとサンジの絵も出てきた。
真夜中の船尾で、手すりにもたれながら煙草を吸うサンジの様子がそこには描かれていた。
「…この頃は平和だったなあ」
じっとしてろっつっても言う事を聞かないサンジをたしなめたりして、色塗りのなんたるかを教えてやってもいまいち伝わらなくて。
あの時言わなかったが、俺はサンジを描いてる時が実は一番楽しかった。
調理道具か煙草か、常にどちらかを持っているあの手が、何だか難しくて描きごたえがあって。
前も言ったけど、難しいっていうのは、最高の誉め言葉だ。俺にとってはな。
まあ、この感覚もきっと伝わらねえだろうけどさ、サンジには。
変な捉え方して素っ頓狂な回答が返ってくるんだろうなあ。
それでもいいから…何でもいいから、笑った顔、見たいなあ…。
もう多分、俺はお前を描けない。こんな風に、無心でありのまま描くなんてできない。
それって凄く哀しい。寂しいことだよ、お前のせいだぞサンジ。
スケッチブックの中、煙草の煙を燻らすサンジの髪にそっと触れてみる。
「…言ったらお前、幻滅するんだろうな…」
これからどうしよう、とスケッチブックを抱え俯いていたら突然、背後で天板が勢いよく開かれる音がした。
「探したぞウソップ!ここだったかあ!」
天板の隙間から顔を覗かせていたのは、全身びしょびしょになったルフィだった。
「…お前なあ、雨降ってる時くらい屋内にこもれよ」
「それがよお!滑るんだよ俺の草履!新発見だ!!」
目を輝かせるルフィを見ながら、今まで浸っていた自分の感情を無理矢理仕舞いこむ。
気持ちを切り替え終えてから、笑って「それ楽しいのか」と聞くと「楽しい!!」とすかさず返ってきた。
「しかし困ったぜ船長。俺の靴はイーストブルーでは有名なブランドの最新モデルだからなあ。正直、値段を言ったらお前の心臓は止まるかもしれねえな。そして人々の羨望の眼差しを独り占めしてきたこの靴の事だ、雨なんかで滑るとは考えにくい」
「いや俺お前を誘いに来たんじゃねえんだ」
ルフィは俺の台詞には全く心動かされなかった様子で、笑顔のままサラリと返してきた。
「え、そうなの」
「おお。あのなサンジが呼んでた」
その言葉を聞いて心臓が「ばふっ」という、普段あまり聞いた事のない音を立てた。
「サ、サンジ?なんで?」
「俺は何も知らねえけど」
…くそうサンジめ頭を使ってきやがった。
自分が赴いても俺が避けるだろうから、違う奴を使って呼び出してきたな。
畜生こずるい奴め!いや俺も大概人の事言えないけど。
「悪りいなルフィ。俺は生憎多忙で」
「お前が今行かねえと、俺達今日の昼飯抜きだぞ」
なんでだ!そんなのあんまりじゃねえか!
本当に俺が多忙だったらっていう可能性を考えてねえのかあの暴君コックは!
ルフィの伸びた腕が俺の首根っこを掴み、強引に引き寄せられた。
「ウソップ。いいか、船長命令だ」
お前は何で食い物が絡むと、仲間の命が危ない時くらいの真剣さを見せるんだ。
どうなってんだお前ん中の食い物の比重。
「…わかった、わかったから、じゃあさ!一緒に行こうぜ」
「いや駄目だ。お前は来るなって三回くらい言われたからな」
先手ばっかり打ちやがって、あのグルグル眉毛!!
「でも、ほら、大人しくしてりゃ別に…」
ルフィは思い切り息を吸い込んだかと思うと「昼飯がかかってんだぞ分かってんのかウソップウウゥ!!」と怒号のような地響きのような叫び声を上げた。
俺のにこやかな笑顔を吹き飛ばすには充分過ぎる威力だった。
「…ワカリマシタ」
顔中に降りかかったルフィの唾を拭う事もないまま、俺は甲板へ飛び出した。
…くそう…コックも恐けりゃ船長もこええ。俺は何でこんな船に乗ってしまったのか…。
振り返るとルフィは既にさっきまでの気迫を微塵も見せる事なく、例の新しい遊びに興じていた。
トホホってのはこういう時使うんだな…トホホ。
いつもより数倍威圧的に見えるキッチンの扉の前に立ち、一度ゆっくりと深呼吸をしてみる。
分かっている、サンジは怒る為に俺を呼び出したんじゃない。このままじゃダメだって、このままじゃ何も解決しないって思ったんだ。
俺も怒られるのが怖くて避けているんじゃない。
それは二人きりになったら、この感情が何処から漏れてしまうか分かったもんじゃないからだ。
いつもはもうちょっとうまく、嘘吐いたり誤魔化したりできるんだけどなあ。
サンジの前だと心も口も全然俺の言う事を聞かなくなる。ついでに心臓も。
「よ、よし」
心の準備を整わせて、そっと取っ手に手をかける、が、その瞬間に勝手に取っ手が下がり、ゆっくりと扉が開いた。
「…日暮れるまで待たす気か」
隙間から少しだけ見えたサンジの顔は、呆れたような表情だ。だけど安堵しているようにも見えて…いや、それは俺の希望的観測だったかも。
連日の暑さに備えて、サンジは相当な量を作り置いてくれていたのだろう。
お手製の炭酸水はまだ冷蔵庫にたっぷりと保管されていた。
それをグラスに注ぎ喉に通しながら、ひたすら沈黙に耐え続けること、およそ20分。
俺のグラスは空になる寸前だったし、サンジが今口に咥えている煙草は多分、俺がここに来てから五本目のやつだ。
サンジは煙草を灰皿に押し付ける時、その度に何か言おうとして言葉を飲み込んでいる。
相当戦っているのだろう、何かを切り出す勇気と。
俺はその様子を横目で見ているうちに、随分と心情が落ち着いてしまった。
この調子じゃサンジに俺の感情がばれる事もねえだろうな、だってサンジはずっと、テーブルの木目を凝視している。
炭酸水のおかわりをもらおうと椅子から立ち上がると、すかさず「待て!」と止められた。
俺の方へ顔を上げたサンジの表情を見て、ああ、と気付く。
「これ、おかわり貰おうと思って立っただけだ」
空のグラスを顎で指しそう言うと、サンジは溜息を小さく吐き「ああ、そうかよ…」とほっとしたように呟いた。
ゾロが好きだった事がお前にばれた時、そういえばこんな風に、席を立つお前を咄嗟に止めたっけな。
あの時も、サンジが席を立った理由は飲み物のおかわりを淹れる為だった。
お揃いだなと思って、そんな事にいちいち嬉しくなる自分に一人赤面した。
「おかわりな。俺がしてやるから。座ってろ」
五本目の煙草の火を消してサンジはキッチンへ立つ。
俺は灰皿に溜まった吸殻の山を見ながら、こいつは一体一日に何本吸う気なんだろうと考えていた。
すると突然後ろから「ガチャン」という、食器が床に叩きつけられる音がした。
「どうした!?」
慌てて振り返ると、どうやらサンジがグラスを落として割ったようだった。
「…ああ、いや、何でもねえよ」
サンジは黙って散らばった破片を拾う。
そういえばサンジが食器を割るところなんて初めてかもしれない。それだけ焦っているのだろうか、と気付いた。
俺なんかを相手にして、こんな右往左往しちゃってさあ。本当に変な奴だよお前は。
手伝おうと思い一緒にしゃがむと「あぶねえから」と言われた。
俯いたまま言われたものだから、どんな顔しているのか分からない。
でも耳を見る限り、多分その顔も、赤いんだろうな。
「…ウソップ」
「うん?」
お互いしゃがみこみ、破片を拾いながら、やっと会話が始まった。
「…昨夜…わるかったな」
「…うん」
サンジ、俺は知ってるよ。
お前が、謝るのが本当に苦手な事や、嬉しかったり悲しかったりすると、結構すぐ泣いてしまう事も。
破片で切れた指先に気付かないくらい、今必死な事も、ちゃんと知ってる。
「…お前の気持ち知ってて、最低な事しようとした…忘れてくれ、ってのは、ムシがいいけどよ…」
「うん?」
最後の破片を拾いながら、サンジはそっと「嫌わないでくんねえかな…」と言った。
…その縋るような声に胸がいっぱいになったのは、なんかもう、しょうがねえと思うんだ俺。
否定するのも慌てるのも、ほとほと疲れた。
素直に「愛しいなあ」って、思っていたいよ、もう。
血が滲むサンジの指先に自分の手を重ねた。
「…嫌いになんかならねえ」
自分の顔が赤いのも、もう気にしない。
だって赤くなるのは当たり前なんだ。
恥ずかしいと思うのも恥ずかしい事じゃない。それでいいんだ。
サンジにどきどきする度に、自分自身に首を傾げなくたって、もういい。
「あと、謝んなくていい」
「え、な、な、なんで」
サンジがまるで俺みたいにどもるから、思わず笑った。
「別に俺、怒ってねえし」
「…」
「コックが、料理以外で指けがしてんじゃねえよ、ばかたれ」
少しだけ重ねた手に力を込めた。
石のように固まるサンジに、ざまあみろと思う。
お前が体に触れてくる度に充電されていたのは、お前だけじゃなかったんだと思い知る。
俺も戸惑いながら、その温度を暖かいと思ってた。きっと最初から、今みたいに。
…こんな事言ったら、お前卒倒するんじゃないかな。いつか絶対言っちまうだろうから、せいぜい覚悟しとけよ。
「…お前はクソ恐ろしい奴だよ」
サンジが頭をかきながら呟いた。
「おお、俺もお前が恐ろしいぞ、奇遇だな」
「…なんで」
「内緒だ」
俺のその回答に「クソむかつく」と怒りを露にした目の前の男は、以前自分も俺の問いかけに「内緒だクソ野郎」と返した事を、もうすっかり忘れているんだろうなあ。
自分の事は棚に上げておいて、すぐ怒るんだからよ。勝手な奴だよ本当。
「…何笑ってんだてめえ」
サンジに指摘されて初めて、自分の口の端が持ち上がっている事に気付いた。
赤い顔をしながらこちらを睨むサンジに、口元が余計に緩まないよう気をつけながら「別に」と返すと、今度はいよいよ小突かれた。
「はー、クソ。…いいからてめえは座って待っとけ。違うグラスに入れてやるから」
サンジは立ち上がり、食器棚から新たにグラスを取り出した。
グラスの中に注がれる氷と炭酸水が、涼しげな音を立てる。その音を聞きながら俺は椅子に座った。
サンジの後姿を覗き見ながら、誰かに「怖い」なんて言われたのは初めてだなと思った。
サンジが俺を「怖い」と言った、だなんて、誰も信じねえだろうな。
「昨夜の新しいレシピさ」
サンジは俺の目の前に、なみなみと炭酸水が注がれたグラスを置いた。
グラスの内側では泡が次から次へと上へ登っていく。
「レシピ?」
「昨夜お前がキッチン来る前まで、レシピ考えてたんだよ」
俺は「ああ」と思い出した。サンジの腕の下に、沢山のメモが書き込まれた紙が一枚、そういえばあった。
「完成したのか?」
二杯目の炭酸水に口を付けながら尋ねると、サンジは途端に嬉しそうな顔になり、さっきどもっていたのが嘘のようにペラペラと喋りだした。
「おお、持ってたレシピ本に載ってた「ヒヤシチューカ」っていう料理を参考にな、俺なりに考え改良を加えた、今年一番の自信作だ。そのまま作ろうと思ったんだが、調味料がどうしても足りなかったからよ。それで俺が考えた改良版ってのが、まあ見事に今ある食材と調味料で作れちまうわけよ」
うんうんと適当に相槌を打つと、どんどん専門用語が飛び出しサンジの口は更に忙しそうに動いた。
「クソ暑い日が続くからよ。冷たいモンの方が喉通るだろ?俺の優しさから生まれたこのアイディア、お前はどう思うよ?」
「うん、そりゃすげえわ」
「だろ?ねえ材料で悩むんじゃなく、発想を転換させる。で、新レシピが生まれるって訳だ、俺は俺の頭の回転の速さがときに恐ろしい」
「そうだな、確かに旨そうだ」
聞き流しながら、多分かみ合ってない返事を俺はしている筈なんだけど、サンジの笑顔はますます輝いていく。
分かった、こいつ料理の話してる時は相手の言ってる事全く聞いてないわ。
やれやれと溜息をつこうとしたらサンジが身を乗り出して「今度食わせてやるからクソ楽しみに待っとけ」と言った。
その時の笑顔は悔しい事に、心臓が止まるかと思う位…格好良かった。
その後も続く料理談義は大体何を言っているのか分からなかったが、それでも俺は相槌をやめなかった。
身振り手振りで、その自慢のレシピが完成するまでの経緯を説明してくれるサンジを見ていて、思う。
サンジって本当、料理の事になると目輝かせて、まるで人が変わったみたいな屈託のない顔で笑うよなあ。
そんな顔されたら、蹴られても罵られても、俺はお前を本気で憎む事が出来ない。
やっぱりお前って、勝手でずるいよ。ちくしょう。
なんていうか。ほんと自分でも、笑っちまうんだけどな?
…これを言っても、お前は信じないだろうけど、うーんでもやっぱり信じてほしいなあ。
勝手でずるいのはどっちだよって、軽くなら蹴ってもいいから、その後はやっぱり、今みたいな顔で笑ってほしい。
そしたら俺、嬉しくて泣いちゃうかもしんないけど。
…サンジ、俺さあ、お前の事、大好きだよ。
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